いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

哲学は量ではなく“濃さ”だ

http://anond.hatelabo.jp/20090501225144

挙がってる本を全般的に読んでる人なんて殆ど居ない。

象牙の砦でも大半がこの中の一部に特化してたりする。

だからこそ読む価値がある。

アカデミズムについて語ってる人もいたけれど、アカデミズムなんて何をどれだけ知ってるかがそもそものスタートラインだ。

発想力も勿論だが、それ以前に前提知識があの世界はヒエラルキーを創る。

「専門の論文書いてた方がよほどマシ」なんてお気楽なコメントもあったけど、理系ならともかく文系なんかで専門に特化して論文書いてるだけじゃあ勝ち組どころか一生非常勤講師が精一杯なのが現実なのです。


増田さんはまず、アカデミズムにおいては多分野に裾野を広げていればいるほど、「人材」として希少価値が上がるため、読んでおくべきだ、という理由を挙げている。この考え方は、よく考えてみると人文系の本の「読み」(解釈と言い換えてもよい)が常に単一的で、それ故に「量化」できるということを前提にしているということがわかる。

でもこれって本当にそうだろうか?

ヘーゲル精神現象学』の読みはひとつで、フロイト『文化への不満』の読みもひとつで、それら読書体験というのはまるで、スタンプラリーのスタンプを集めるかの如く、量化できるものなのだろうか。僕がこの引用箇所において強く抱いた違和感を、論理的に説明すればそういうことになると思う。

これらは、面白いか楽しいか飽きたら放ればいいなんて部類の本などでは決してありません。

殆どが格闘し著者と対話することを求めなければ読めない本だ。

その上個人で読んでいるだけでは誤解を招く始末(某池田先生の「利己的な遺伝子」の読解なんて典型だよね)。

まともに「読むため」には、複数人での輪読なりディスカッションが求められる場合が多い。

ですから下世話な話をしてしまえば、この手の本たちはコミュニケーション力理解力読解力どれも相当に高まる素材なのです。

逆に言えば、字ズラを追っただけで読んだなんて恥ずかしくて言えないのがこの手の本。

絶対に全部は読んでいないはずなのにさも読んでいるかのように書いているところが、この人の文章のいちいち「イラッ」とするところなのだが。


最近僕は思うのである。人文系、特に哲学は量ではなく“濃さ”*1なのではないかと。ここでいう濃さとは、「世界観の信憑性」と言い換えてもいい。これは先の解釈の問題ともつながっている。カントにしたってヘーゲルにしたって、登場して数百年が経っているにもかかわらず、未だに入門書が出る始末である。打算的な言い方をすれば、それは彼らの哲学に「正答」がない、ということである(すでに正答が出ているなら、そこで出版は打ち止めになっているはずだ)。


では読み手はどうすればいいのかというと、そのおのおのが一つのカント哲学観、ヘーゲル哲学観という「世界観」=解釈を構築していくしかないではないか。そうすると重要になってくるのは、その世界観の「濃さ」だ。解釈が論理的に無矛盾的であればいいというわけではない。世界観の濃さとは、「盲信の度合い」に近いものがある。ある思想家について、猛烈な濃さと深みのある世界観を持った人がたまにいるが、そういう人はいろいろな出来事に対して、「あの哲学者ならこう考えるだろう」という仕方でしか思考できなくなってさえいる。それが哲学の濃さの極地だ。その解釈について、他人とのディスカッションを勧めているのには賛成するが、そこから「コミュニケーション力」の向上を引き出すのはお門違いだ。自分の世界観を守るためには、時に相手との「コミュニケーション破綻」も辞さない態度で臨まなければならない。

盲信って、それでは科学ではないのではないか。そう、とっくの昔に哲学は科学であることをやめている。

まあ、「〜する○つの方法」や「〜する〜術」なんていうエントリーやビジネス本読んで勝ち組(笑)目指してる位なら、時間的に余裕のある人生の一時期、こういうのに一度はトライしてみた方が、結果的には余程理想的な意味での勝ち組に近づけるんじゃないのという話。

1行目までは同意。でも結局は勝ち負けという土台に載っているので大筋では賛同しがたい。そして、やはりこんなリストに意味はない。おそらく、一冊でもそれに足りる本なら、それだけで哲学の「濃さ」を高めることはできるのだから。

*1:(追記)量に対応するのは普通「質」なのに、なんで濃さなんだと、後で読み返してみて自分で思ったのだが、ここはやはり濃さでないと。質というと、そこに優劣という価値基準が生まれる。僕は解釈が誤読であろうと、その人がその解釈を信じる度合いというものを大事にしたい。それ故に、「濃さ」なのである。