いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】セッション


劇場公開時に観て圧倒され、今回Blu-rayを買ってしまった。一流ジャズドラマーを目指す青年と、暴君のような教官との出会いを描いている。
この映画で件の鬼教官フレッチャーを演じたJ.K.シモンズは、アカデミー助演男優賞を獲ったが、その賞に間違いなく値する存在感だ。彼は、ぼくの大好きな「マイレージ、マイライフ」でも、解雇される名も無き役柄を演じていて、出番は数分ながら不思議な存在感を放っている。今作「セッション」におけるフレッチャーは、現時点では彼の最大の、最高のはまり役といっていい。

この物語は、学生時代に部活動で汗を流した人なら、誰もが思い当たるフシがあるだろう。師弟関係をめぐる話であり、「しごき」の両義性を描いている。
フレッチャーのしごきは、主人公の先輩にあたる楽団のメンバーたちのまるで軍隊のように統率の取れた動きによって、早くも明示される。彼は激烈なしごきによって肉体的、精神的に教え子たちを追い詰めていく。

その指導法は、今の時代なら間違いなく非難されるものだろう。彼の主人公に対する「行き過ぎた指導」は、ほとんどいじめに近似する。
けれどフレッチャーいわく、そうでもしなければ時代に名を残すようなグレートなミュージシャンは生み出せない。これはいわゆる「サイヤ人理論」(『ドラゴンボール』に出てくるサイヤ人は瀕死の重傷を負うことで3倍の力を手に入れられる)である。

そんなフレッチャー=シモンズの魅力は、彼のとらえどころのなさにある。普段は鬼のような存在なのに、指導から離れたところでふと優しい一面を垣間見せるフレッチャーは、本当はどんな人なのかわからない。主人公の身からすれば、彼の優しさに触れて温かい気持ちになっていたら、フリーホールのごとく急転直下、絶望に突き落とされる。


師匠は元来そういう多面的な存在である。ただこの映画は、最終的にやはりフレッチャーに人格的に問題があることが示すことで、これまでにあった凡百の「師弟物語」を一歩超え出てしまう。

案の定、フレッチャーの「行き過ぎた指導」によって主人公は壊れてしまい、ふたりの関係は破綻する。しかし、そのあと主人公と再会したフレッチャーが用意しているのは、おそろしい悪意だ。このあたり、やはりフレッチャーはわれわれ鑑賞者の期待を裏切らない。彼は、嫌なやつのようでいて本当は優しい……のではなく、嫌なやつのようでいて本当は優しい…と思ったらすっげー嫌なやつなのだ!

ところがである。フレッチャーが教育的効果など加味せず、相手を潰すことだけを考えて放った悪意の向こう側に、この映画は恐るべき結論を用意している。悪意によって放たれた「しごき」が、あろうことか結果的に教育的な効果をもってしまうのだ。


師匠が教育的効果を顧みず、弟子を本気で潰しにいったとき、あろうことか弟子はそれをしごきとして乗り越えてしまい、またひとつ高みへと上ってしまう。

冒頭から人の目を見ない癖を指摘され続けてきた主人公が、そのときほんの一瞬だけ相対する師匠のほほえみは、危険な魅力を放っている。

この映画は「しごき」をどうとらえるかの難しさを、改めて教えてくれる。苛烈なしごきが、幸か不幸かとんでもない成果を生み出してしまったとき――ぼくらはそのしごきを肯定していいのだろうか? それとも、それでも否定するべきなのだろうか?