いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】1995年/速水健朗

1995年 (ちくま新書)

1995年 (ちくま新書)

時代の転換点としてよくとりあげられる1995年を、「政治」「経済」「国際情勢」「テクノロジー」「消費・文化」「事件・メディア」という6つの区分にわけて振り返っていくという試み。
社会学者の書籍を読んでいると、よくこの年がとり上げられている。一番有名なのは、宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』だろう。

また、大澤真幸が戦後25年を「理想の時代」とし、その次の25年に区分した「虚構の時代」の終わりも95年である。こうした議論は、多くの論者に引き継がれていった。
不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

このように思想オタクにはおなじみ感がある95年だが、歴史を縦軸に眺め、「時代の意味」を見いだすのは興味深い一方、少々あやしいところもある(25年周期の歴史観なんて!)。
本書の著者もそうした「時代の意味」を見いだすことに懐疑的なのか、6つの分野に統一した解釈は挟み込まれない。あくまで当時何があったかを資料を元に淡々と解説していく試みだ。


したがって、一冊の本としてまとまっているわけではないが、「イッツ・ア・スモールワールド」に乗っているように各章を巡っていくのは、心地よい。同じトピックを延々論じていく本よりは、気楽に読める。
全体的な感想は述べにくいが、トピックごとに発売が印象が残る箇所がある。
「テクノロジー」の章では、当時「事件」と騒がれたWindows95発売を、間近に体験した筆者が事件でもなんでもなかったと述懐している。単体ではほとんど何もできない同機に殺到する群衆というのは、今からすれば微笑ましい。まるで、街頭テレビに群がる群衆に対する感情と似ている。
本書で引用される「ものすごく速い汽車に乗っているんだけど、一体どこに行くんだろうという感じですね」(p.100)という松葉一清の言葉は的確だ。いまもiPhoneのニューモデルが発売されるたびに行列はできるだろうが、そこに並ぶ人たちはある種の利便性への確信があるからこそ並ぶのであって、当時の彼らのような汽車の速度のにみ魅せられ相乗りしているわけではないのだろう。


「消費・文化」の章では、この年初頭にビートたけしが前年の交通事故で休養しており、ダウンタウンに「政権委譲」があったと指摘されている。当時10歳で地方に住んでいたぼくからすれば、文化の入り口はまだテレビで、本書でも紹介される「渋谷系」やら「小沢健治」などは縁遠く、アイドルはやはり彼らだった。当時2人は32歳、まだ芸歴13年目だったが、すでにゴールデンにいくつもレギュラーをもち、自分たちが一番面白いという自覚と、ふてぶてしさを持っていた。今のお笑い界の同年齢に、そんな人間が居るだろうか?


そして、この本で振り返ってもやはり強く印象に残るのはオウム真理教だろう。この年の3月、地下鉄で神経ガスによるテロが起こり、その10日後には警察長官が銃撃されたのである(こちらは時効が成立)。当時「誰もがオウムに夢中になった」とあるが、それも大げさではない。一つのテロ組織に国家があれほどまでに翻弄されるなんて、少なくとも戦後はこの年しかないのではないか。


あくまでもこれは、当時10歳で地方都市にいた人間の感想であり、95年を別の年齢、別の場所で体験した人が読めば、またちがった印象を持つのだろう。
あなたの95年は、どんな年だった?