いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「気分が大事だった時代」←お前が言うな! 堀井憲一郎「やさしさをまとった殲滅の時代」

【目次】

序 章 たどりついたらいつも晴天
第1章 00年代を僕らは呪いの言葉で迎えた
第2章 インターネットは「新しき善きもの」として降臨した
第3章 「少年の妄想」と「少女の性欲」
第4章 「若い男性の世間」が消えた
第5章 「いい子」がブラック企業を判定する
第6章 隠蔽された暴力のゆくえ
第7章 個が尊重され、美しく孤立する
終 章 恐るべき分断を超えて


その昔、日本テレビで「TVおじゃマンボウ」という番組が放送され、「テレビウォッチャー」という不思議な肩書きの人物が出ていた。それが本書『やさしさをまとった殲滅の時代』の著者、堀井憲一郎である。
本書は、本業コラムニストである著者による、一種の社会評論といえよう。2000年代から先の10年で起きた、ネットの普及、電車男ライトノベルブーム、情報誌の没落、「ブラック企業批判」などの事象を通し、その間にあった変化「やさしさをまとった殲滅」を論じている。同じ講談社現代新書『若者殺しの時代』からの続編的な内容らしい。


ちくま新書『今すぐ書け、の文章法』はそこそこよかったが、これはいけない。元々ネット上での連載の書籍化ということもあってか、体系的に何かを論じるというより、思ったことを時系列に作文にしているだけなので要領を得ない。妙にポエミーでナイーブで、文章が気取っているが、多くの言及はこの人の感覚的な話であって、ぜんぜん共感できないのだ。曖昧な主語はときおり「僕らは〜」になるが、その「僕ら」からぼくの分だけ「−1」しといてくれる? と言いたくなる。


結局、この人が言いたいのは、「昔はよかった」の一言ですむ。たとえばこの文章。

 いろんな便利なものが出てきたのが00年代である。
 いいね、おもしろいね、と気軽に対応しているうちに、そういうものばかりになっていた。ふと気がつくと、それまでの古いものはすべて片付けられていた。ちょ、ちょ、待てよ、と言ったところで、もう遅かったのだ。
 しかたなく新しいもので生きているが、あまり身にフィットしてくれない。
 何か余計なものまで捨ててしまったんじゃないか、と考えるようになっていた。すでに2010年代を迎えていた。
p.212

 
ぼくからすればどの時代だって、そんなもんじゃね? と思ってしまうわけだ。いつの時代だって変化は音もなく訪れ、それがいつしか、いい悪いはさておき知らぬ間に常識になるものだ。意地悪な言い方をすれば、要はこのオッサン、もとい筆者は、時代の変化についていけなくなりつつあり、それに恐怖を覚えているんじゃないか? と勘ぐってしまうのだ。


いろいろな対象をつまみ食いし、何かを批判したいのだろうけど、結局それは歯切れの悪い小言に終始する。ラノベを読んだ感想や、コミケに行った感想は、もったいぶってはいるが結局は「世界が閉じている」という、よくあるオッサンの戯言だ。ラノベコミケも00年代よりもっとずっと前から存在していたわけで、00年代に入りようやくマスコミにとり上げられたのをもって、00年代論にブッ込むあたりの雑さも看過できない。

ブラック企業批判」への批判も、「言いがかり」のレベルだ。ブラック企業は労働法違反を犯している企業が多いとした上で、けれど実際それは「あとづけの理屈」にすぎず、批判している者たちは「働いている自分が大変」ということが言いたいにすぎないのだ、と切り捨てるのだ。「あとづけ」だろうがなんだろうが、サー残を課す企業を労働者が告発することの何が悪いのかという話だ。

このように、筆者が本書で行っているのは徹頭徹尾、「自分が見ていて気に食わない新しいモノを、ポエミーな言葉でウダウダウダウダ難癖をつける」ことだ。本書のタイトル「やさしさをまとった殲滅」とはつまり、「だれにも知られてないけれど、時代の変化にぼくは傷ついているんだぞ!」という、この著者の声なき声なのだ。


聞いて呆れるのが結論で、失われた共同性を取り戻すため家族を大切にしろ、である。Jポップか!!迷惑をかけられよう、である。路上詩人か!!!
あとがきで、2013年(出版当時)からすると2000年代は「気分が大事だった時代」だと評しているが、本書全体にただようのもまた「昔はよかった」という気分である。本当に殲滅されるべきは、こうした駄本だろう。