いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ネットに使われない生き方をしよう

先々月にローソンのアイスの冷凍庫に男性が入った画像がアップされたことをきっかけに、冷凍庫画像の掲載→炎上→店が謝罪という流れが一種のルーティン化をとげている。
彼らはなぜ、冷蔵庫に入るのだろう?そんなに暑いか?たしかに今年は記録的猛暑らしいのだがおそらくそうではない。
彼らはその画像を掲載することで騒動になることを知っている。知っていて、騒がせたいからそれをするのだ。「炎上そのものが目的の炎上マーケティング」といえる。アップされた画像から特定班がいそいそと店を特定し、店側が謝罪に追い込まれるのだ。起きていることはこれの繰り返しだ。
このことには多くの人は気づいているだろう。


だとすると、件の炎上騒動の原因を、起こした彼らの個人的な気質に回収するのは無理筋だといえるだろう。
インターネットがない時代なら、「おいwあの角のコンビニのバカが店の冷凍庫に入ったらしいぞ」「ばっかじゃねwww」という会話で終わっていた問題である。行為は同じでも、画像が流出し多くの人の目にさらされたことに大事になる。不条理だが現に世の中そうなっている。


すべてのきっかけとなったローソンの男性がどこまで意図していたかは知らない。ただ、彼以降の模倣者らはみな、彼と同じような騒ぎを起こしたがっていたことは間違いないだろう。

しかしである。そうなってくると、彼らはネットを使っているのではなく、「ネットに使われている」と表現することはできないだろうか。得意げにアップしているようで、彼らはネットによって行動を決定されている。
そしてこれは、彼らを問題視して騒ぐ側の人間にもいえる。なぜなら、画像をアップした彼らは「さぁこれで騒いでください」といっているようなものだ。そんな彼らに対して、批判者らは実際に騒いでいる。ここでは模倣者らと批判者らの間で、暗黙裡に「コミュニケーション」を成立させてしまっているのだ。彼らはネットに「使われている」模倣者たちに、さらにネットを通して「使われている」のだ。


思うに、冷凍庫画像だけがネットに「使われている」事例ではない。
例の「マカンコウサッポウ」だってそうだ。ぼくはあまり面白いと思わないが(第一あれは魔貫光殺砲の構えでない)、それでも1枚目の画像を上げた集団だけはオリジナルと言う点においてだけ、評価できる。
しかし、2番煎じ以降はみなネットを使っているのではない。ネットに使われているのだ。「天空の城 ラピュタ」を見たときに該当箇所で「バルス」とツイートするのも一緒だ。

それらの行動が冷凍庫画像と何が違うというと、炎上する余地があったかどうか、だけである。それらの行為と件の冷凍庫画像にそこまでの違いはない。みな、ネットを使っているのではなく、ネットに使われているのだ。


では、お前はネットに使われていないのか?と聞かれるかもしれない。
無論、まったく使われていないといえばウソになる。数分の暇つぶしでさわり始めたはずのスマホが止まらなくなり、何十分も浪費してしまったことに気づいたとき、ああ、ぼくはネットに使われていたと痛感したなんてことは多々あるし、誰しもがネットを使ったり、ネットに使われたりの繰り返しだろう。
ネットに使われずネットを使うというのは、非常に難しい。隙をみせれば使われてしまうから、気が抜けない。


なぜこんなことを書くかというと、冷凍庫画像の問題の根底には、世代論でなければ地域問題でもなく、この「ネットに使われる」問題が横たわっていると思うからだ。ネットに使われていることに気づかない限り、この冷凍庫画像ブームが過ぎ去った後も、また同じような炎上騒動は手を替え品を替え巻き起こることだろう。