いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

“原子力”会見でわかれた2種類の「伝え方」

イスラム国に拘束された男性の実母が開いた記者会見が、物議を醸している。

23日午前、イスラム国に拘束されているジャーナリスト・後藤健二さんの母、石堂順子さんが都内で会見を行った。石堂さんは子どもたちの教育と医学について関心があると言い、後藤さんが解放されれば、一緒に世界の子どもたちの平和教育を行い、希望があればイスラム国の子どもたちも自宅で教育したいと訴えた。

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【全文】「私はこの3日間、何が起こっているのかわからず悲しく、迷っておりました」ジャーナリスト・後藤健二さんの母・石堂順子さんが会見 (1/2)

すでに多くの人に、多くの場所で話題にされていると思うが、この女性の会見において、「原子力」など今回の事件に直接的には関係ないように聞こえる発言が頻発したため、話題になっている。


この会見について興味深いのは、各メディアで「伝え方」が二分されているということだ。
上で紹介したBLOGOSの記事が全文を文字起こしして伝えているのを筆頭に、ネットメディアの多くは会見全体の異様な雰囲気も込みで伝えている。

(2/2) 後藤さん母、特派員協会で解放訴える 「健二は幼い頃から心の優しい子でした」 : J-CASTニュース
後藤さん母親「健二はイスラム国の敵ではない」涙の会見 “原子力のない国”持論も (2/2ページ) - 政治・社会 - ZAKZAK


それに対して新聞や通信社などの旧来の大手マスメディア系媒体の多くは、きわめて巧妙な「編集」を施した上で伝えている。

後藤健二さんの母が解放を訴え、「イスラム国の敵ではない」 
後藤さんの母「敵ではない、命救って」 2邦人殺害予告 :日本経済新聞
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150123/k10014920341000.html


わかりやすい違いは、「原子力」という記述の有無に集約されるだろう。
ネットメディアでは、会見で女性が実際に発したという「原子力」という言葉を包み隠さずに記述している。
それに対して大手メディアはその部分を触れないよう、記事が構成されている。なぜなら、「原子力」を記述すれば、記事が歪な内容になってしまうことは避けられないからだろう。彼らは「テロリストに息子を拘束された母親の悲痛な言葉」というわかりやすい物語に落としこんでいる、といえる。

そうした意味で、後者に分類される媒体の記事を批判するのはたやすい。なぜなら、それらの記事はせっかく会見したこの女性の主張の大半を、以上のような「編集」によって包み隠す結果になっているからだ。


けれど、では前者のような「ありのままを伝えてくれるメディア」を通じれば、発言者の主張は必ず伝わるのかというと、そうではないことを今回の会見とそれを巡る騒動は教えてくれている。
おそらく、おそらくではあるが、今回の会見の内容全体を受容したとしても、この女性の主張に賛同する人はほとんどいないと思われるからだ。
まず、内容レベルで支離滅裂だ。話し言葉であり、予め用意した文章でないことを鑑みるにしても、主語があいまいなまま使われる「原子力」は、おそらく否定的な文脈だということ以外、ほとんど何も伝わらない。
また、今回の息子の命が危険に晒されている状況において、そうした場違い(に見えるよう)な主張を繰り広げることは、聞き手の理解をより困難にさせる。なぜ、この人は今、こんなことを主張しているのだろうか、という疑問だけが聞き手には残ってしまう。


つまりここには、メディアによって「編集」されては彼女の主張は伝わらないし、一方で全部届けたとしても伝わらない、むしろ批判すらされるという袋小路がある。


もちろんわかっている。
受け手の反応など気にせず、メディアは起きたことを起きたままに伝えればいいんだよ、という話である。
もちろんそれは、ごもっとも。

しかし、実の息子の命が危ないという境遇にあるこの女性が、会見での発言をもとにネットで茶化され、バカにされる光景をみるにつけ、可哀想になってくるというのも人情で。

「編集」した旧来のメディアの側も、なんとなく擁護したくなる。彼らが避けた言葉が「原子力」だっただけに、何らかの政治的な意図が匂い立つ気がしないでもないが、今回ばかりはそれだけが要因ではないような気がする。
彼らはネットメディアに比べて「極端」なものに対して慎重になる傾向がある。「極端」でもニュース性に富む種類ならばいいが、今回のそれのように明後日の方向へ飛ぶ「極端」は、あえて省くことだってある。結果的に、マスコミが恣意的に下した「編集」の背景に、「温情」とさえいえる意図を感じてくる。


だとするならば、「ありのままを伝えてくれるメディア」(もちろんそれらが“ありのままを伝えてくれる”と無条件に信頼するのも危険だが)を相手にしたとき、われわれはどうすればいいのか。
おそろく、報道される側が備えることができるのは、適切な言葉を適切なときに、適切な使い方をすることだけだろう。
つまりインタビュイー側も、「伝え方」を洗練していくしかないということなのだろう。
ちなみに会見の女性は事前にコメントを発表しており、こちらは文章であるためか、至極真っ当なものだったことは指摘しておこう。