いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】風立ちぬ ★★★☆☆

すでに賛否両論に分かれているようだが、それは完璧!100点!と絶賛の人とサイテー!0点!という酷評の人にわかれているというより、みな個々人の中で「うーん…なんだこれ?」と腑に落ちない感じで40点から60点の間でぶれているという感じじゃないだろうか。
ぼく個人的には、前半は異常なほどテンションが上がった。まず作画がいい。本当にこの人の映画は画面の内側へ入りたくなる。それぐらい、豊穣で魅力ある世界を描かせたら今もピカイチだとおもう。

そして、今回の主人公は実在した零戦の設計者、堀越二郎である。映画は、二郎が試行錯誤して零戦をつくりあげていくまでが描かれる。アイアンマンことトニー・スタークが発明してるときのような試行錯誤描写が描かれるのでは期待感が否が応でも募っていった。
現に、会社の命で二郎や本庄らがドイツで巨大な爆撃機を視察したあたりまでは、それはそれはテンション上がったものである。

だが、ここまでだった。急激に上昇していった期待という名の飛行機は、プロペラが突如としてプスプスと煙をあげはじめ、急転直下、墜落して行ってしまった。


そのあたりから、堀辰雄的なパートがはじまる。こちらが激しくダルいのである。二郎と菜穂子の再会の場面で、風で飛んできたパラソルが殺傷力ありすぎたのはさすがに笑ったが、それ以外は基本的に凡庸なメロドラマだ。
しかも、メロドラマには定型があって、だからこそつまらないというところもあるのだが、この映画はその定型すらできていない。女性にはこのパートは比較的受けていたが、そんな女性陣に聞いても、やはりあの結婚承諾のシーンは興ざめだったという。機械の発注かのように事務的に菜穂子の父は結婚を了承してしまう。

というわけで、中盤からは期待感がつのる堀越二郎的パートと、なんだこりゃ?という堀辰夫的なパートが交互に展開していく。しかも、この二つの要素はほとんど交わらないのである。なによりもそれが観ていてつらかった。


ただ、頼みの堀越二郎的パートのほう徐々に怪しくなってくる。なによりも、零戦がぱっと沸いてきたように知らぬ間に完成していたところがいただけない。そのプロセスをスキップしてどうする。俺たちはその間の切磋琢磨をみたかったのに!


それはよいにしても、結局この映画は「零戦を作ってしまった功罪」にはほとんど焦点をあてていない。そして、二郎本人にも、殺人兵器を作ってしまったことへの負い目は、ほとんど感じられない(あの傲慢なトニー・スタークでさえそこは悔い改めたところから始まったのに!)そこへの配慮は、清々しいほど抜け落ちている。
別に歴史認識がーと左ぎみのことをいいたくはないけれど、我々日本の観客はあの兵器が後に何千、何万の人を殺したと知っている。知ってしまっているがゆえに、「え、それでいいの?」とモヤモヤしてしまうのは、無理からぬことではないか?


その点ハリウッド映画、特にピクサーなどのアニメーション映画は子供向けということもあってか、「因果応報」というのがものすごく計算されて作られていると思う。もうそれは見事といえる。
映画が終わるまでに、悪いことをしたやつは必ず罰を受けるし、いいことをした人はそのご褒美を受け取る。しかもその「量刑」も実に考えられていて、キャラクターの入力と出力のバランスがきわめていい。そこまで悪いことしてないのにあんなひどい目にあっている、ということはほとんどないのだ。ちょうどいいのだ。
だからこそ、観客はすんなり物語を受け入れられるんじゃないだろうか。


零戦を下手に描いてそうした「モヤモヤ」を観客に残すくらいだったら、正直「実在した零戦の設計者」をモデルにすること自体、必要だったのかが疑問になってくる。完全なるフィクションでよかったのではないか?


ということで、ぼくはこの「風立ちぬ」に、僭越ながらある改善案を提案したい。
しかもそれは、堀越二郎的パートも、堀辰雄的パートも殺さず、なおかつ両者をうまく混ぜ合わさるような改善案だ。
ぼくが考えたのはこうだ。
二郎と結婚した後、菜穂子が早々に結核で死んでしまう。
悲しみにくれたマッドサイエンティスト二郎は亡骸を元に日本の新兵器を開発。
生き返った菜穂子は日本軍の最終兵器「IKINEBA」として、列強の軍隊と一人で渡り合うのである。




設定に重大なパクリが含まれていることは認めるが、それでも、現状の水と油のような二つの要素を完全に融合させるには、これが一番だと思うのである。


真面目な話に戻すと、宮崎駿は画の方はともかく、お話を作る能力、特に最終的にいくつものエピソードを統御して、一つの大団円にもっていくという能力は、相当衰えてきたんじゃないかと思う。ぽろぽろといろんな要素が回収されず、無意味に放置される。たしかにその放置のしかたにおいてはユニークかもしれないが、問題はそれが「全然おもしろくない」ということである。
何度も例に出すが、ピクサーの「トイ・ストーリー3」について考えれば、もうそれはどこかで見た、聞いた、手あかのついたありふれた話である。けれど、それでもめちゃくちゃ面白いのである。


ここで考えるべきは、ストーリーの面白さとは「型をどれだけ逸脱できるか」によって決まるのではないということだ。たとえ「型どおり」であっても、それの描き方、組み合わせのしかたによって、いくらでも面白くなる。
この映画を「前衛的」ととらえることもできるが、だとしたらジブリというブランドが打てば当たると思われている、いわば国民的ブロックバスターという認識の方こそが誤りだったのであって、そう考えると、ジブリ映画というのは不幸な運命をたどっているとつくづく思う。

しかし、繰り返すがぼくは「型どおり」にしないのではなく、単にできないだけだと思っている。
宮崎駿が「型どおり」にできないことを「老い」ではなく「作家性」という言葉で隠ぺいしてお茶を濁すことが、そろそろ難しくなってきているような気がする。