いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

文化系のノーベル賞って、いるか?

今年のノーベル文学賞が発表され、中国の莫言という作家が受賞した。化学賞の山中伸弥京大教授に続き、日本では村上春樹の受賞に期待が集まったが、毎年恒例のノーベル詐欺にひっかかりやれやれ。

ところでぼくは、以前からノーベル賞の文化系部門、とくに文学賞と平和賞はその存在意義に疑問があった。
これ、いるか?
文学賞については、子供のころにノーベル文学賞という賞があり日本人も受賞しているということが学校で習った時から、その存在に疑問があった。
ノーベル文学賞を選んでいる人たちは、対象作家の作品を原著を読んでいるのか? と。翻訳だとすると、母国語でしか伝わらないような微妙なニュアンスは把握できないだろうし、翻訳家の存在も大いに影響するだろう。結局はその作家の評判がものをいうわけで、結果的に受賞作家も「雰囲気」で選ばれることになるだろう。

「いや、そんなこといったら芸術系のコンクールなんてみんな最後は主観、『雰囲気』だよ」と言われればおしまいだが、ノーベル文学賞に対する疑問はそれだけではない。


加えていうとこのノーベル文学賞、ほかの部門の賞より「ぼんやり」していないだろうか? 周知のとおり、この賞は芥川賞のようにある作家のある作品に対して授与されるものではない。作家本人に対して授与されるのだ。これがぼくはよくわからない。
村上春樹はここ数年、ずっと同じような「村上春樹」だったわけだ。芥川賞みたいに今年のこの作品で受賞するべきだとか、去年のあの作品でとっておくべきだった、という話ではない。ノーベル賞の受賞にすでに値するような作家は(ヘンな言い方になるが)おそらく世界中にゴロゴロいるわけで、その人たち毎年一人ずつあげていくという手法自体、ナンセンスだ。
また、芸術系の部門に「文学賞」しかないのもヘンだ。文学賞があるならノーベル「映画」賞があってもいいし、ノーベル「音楽」賞があってしかるべきだろう(もっとも、ノーベル賞に数学部門がない代わりにそれに匹敵する賞としてフィールズ賞があるように、映画賞がない代わりの三大映画祭や、音楽賞がないかわりのグラミー賞があったり、するのかも?)。その点、今年はボブ・ディランが受賞するんじゃないかと取りざたされたが、あくまでこれも彼の歌詞の「文学的評価」がなされたという見解だ。


そんな文学賞以上に問題ありだと思うのは平和賞だ。
そもそもこの平和賞という言葉自体が、一つの価値の表明になっているわけでぜんぜんアカデミックじゃない。
ノーベル賞がここまで世界的な権威になっている現状、この「平和賞」が誰に授与されるかは一つの大きな政治的選択とはいえないだろうか。現に昨年の平和賞を中国の活動家がとったをことで、少々中国が「平和でない雰囲気」をかもし出していたではないか。どこが「平和」賞だ。


それに対して、先の山中教授のノーベル化学賞受賞のおりに、ここ最近領有権問題でいがみ合っていたはずの中国や韓国からは、素直に賞賛する反応が返ってきた。彼らも国家観と科学は別問題だ、と分別がついているわけだ。ここには、文系にはない理系部門の「スマート」さが垣間見えてかなりうらやましくなる・・・。もしもだ。現状ありえないが、もし竹島尖閣列島などの領有権問題で日中韓のどこかの国の人物がノーベル平和賞を「受賞してしまった」ら・・・・・・想像しただけで、脱力するほどめんどくさい状況になるのは、目に見えている。そういうことを考えるにつけ、同じノーベル賞でも理数系の賞とは一段格が落ちているという印象がいなめない。

という具合に、ふつふつと沸いてくる「文化系のノーベル賞って、いるか?」という疑問をぬぐえない一文系学徒であったのですた。