いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「スタバ女」をdisった小説

昨今、回転率ワルくするわ電源がありゃ使いたいだけ使うわそのわりに自分のことをイケてるビジネスマンだと勘違いしてる人たちの総称=ノマド叩きが絶賛盛り上がり中なんだが。
ノマドが叩かれるたびにあたかも共犯みたいにやり玉に上げられてかわいそうなのがスターバックスである。
このスターバックスウィキペディアによると日本第一号店の出店は96年でおよそ16年前。これを昔ととるか最近ととるかはさておき、その間にスタバ、もといスタバユーザーについて、わが国ではちゃくちゃくと言説が積み上げられていったわけである。


今回は、その先駆けなんじゃないかという一冊の小説を紹介しよう。吉田修一の『パークライフ』だ。

パーク・ライフ (文春文庫)

パーク・ライフ (文春文庫)

のちに『パレード』や『悪人』などエンターテイメント路線でヒット作を連発した氏が、純文学テイストで書いたのが本作。
小説は日比谷公園を主な舞台に、主人公「ぼく」とひょんなきっかけで出会った「彼女」の交流が描かれていく。
本作の中に、二人のこんな会話がある。

「店で食べてきてもいいんだけど、あそこたばこ吸えないでしょ。それにスターバックスってあまり好きじゃないの。あなた好き?」
 少し意外な気がした。彼女はシナモンロールにこびりついた砂糖を指で弾いてとっていた。
「たばこ吸えないから嫌いなんですか?」
「そうじゃなくて、なんていうんだろう、あの店にいると、私がどんどん集まってくるような気がするのよ」
「え?」
「ちょっと言い方がヘンか? だから、あの店に座ってコーヒーなんかを飲んでると、次から次に女性が入ってくるでしょ? それがぜんぶ私に見えるの。一種の自己嫌悪ね」
「ぜんぶ自分に?」
「だから、どういうんだろうなぁ、たぶんみんなスターバックスの味が判るようになった女たちなのよね」
スターバックスの味?」
「ほら、よく言うじゃない、これは子供を産んでみないと判らない、これは親を亡くしてみないと判らない、これは海外で暮らしてみないと判らないなんて、それと同じよ。別に何したわけでもないんだけど、いつの間にか、あそこのコーヒーの味が判る女になってたんだよね」
pp.32–33

この会話を受けての次の日、主人公がスターバックスを訪れたとき、店内にいた女性客たちに「どこか近寄り難いオーラを感じ」る。そして「奇妙な共通点」を見つける。「彼女たちは一様に高価そうな服をセンスよく着こなし、髪型にしろメイクにしろ、テーブルに置かれた小物類にしろ、非の打ちどころがないほど洗練されているというのに、その誰もが「私を見ないで」という雰囲気をからだから発散させていた」というのだ。

そのあとに彼はスターバックスで見たその光景と感じた印象を「彼女」に話す。

彼女は最初あまり興味なさそうだったが、しつこいほど力説したせいもあり、小音楽堂裏で足を止めると、「なーんにも隠してることなんかないわよ」と、僕の顔を真っ直ぐに見てそういった。
「でも、なんか触れられたくない秘密でも隠し持ってるように見えたんですよ。別に悪い意味じゃなくて。かっこよく見えたんですから」
「なんにも隠してることなんてないわよ。逆に、自分には隠すものもないってことを、必死になって隠してるんじゃないのかな」
p.45

もう一度引く。
「なんにも隠してることなんてないわよ。逆に、自分には隠すものもないってことを、必死になって隠してるんじゃないのかな」
この一文ほど、常日頃から「スタバ女」(スタバにたむろする女性客)に対して抱いていたモヤモヤ感を適切でいて端的に言語化した言葉を、ぼくは知らない。
スタバの客のあの謎めいた雰囲気。その雰囲気そのものが見せ物であり、メッキであり、中身なんて本当は空っぽなんじゃないか。そういう反感(のようなもの)を、この「彼女」の言葉は端的に射抜いている。

これはしかし、この「彼女」の自虐でもある。
思い出してほしいのは、最初に「彼女」はスターバックスの客が「ぜんぶ私に見える」と言ったことだ。そしてその言葉を聞いたあとスターバックスで主人公は、「スタバ女」たちが「近寄り難いオーラ」や「触れられたくない秘密でも隠し持ってるように」感じる。
そして「彼女」も実は作中で年齢はおろか最後まで姓名すら明かされない。「彼女」自身、あたかも触れられたくない秘密をもっているかのような、十分謎めいた存在なのだ。
しかし、「彼女」はその「謎めき」を否定する。「自分には隠すものもないってことを、必死になって隠してる」という痛烈な批評によって。つまりこれは「彼女」の自己否定の身振りでもあるのだ。


小説はクライマックスで、ある意味そんな「彼女」もありふれた一人の人間であるということが明かされて終わる。
そう、金メッキの艶やかな魅惑に魅せられたとしても、それは長くは続かない。実際に親しくつきあってみれば、それが幻想であったことは自ずと判ってしまうものだ。
けれど、それが幻想であり、相手がぜんぜん謎めいてないありふれた存在であったとしても、いや、それであるがゆえに、よりいっそう愛おしくなるという経験を、ぼくらはすでに知っている。
小説の最後で「彼女」と主人公が結ばれるわけではない。けれど、「この二人にすてきな結末が待っていたらいいなぁ」という幸福な余韻を残して閉じられる。
謎のベールに包まれた「スタバ女」に劣情を抱きながら、同時にそのベールを一枚一枚はいださきに待っているありのままの「彼女」を受け入れる。それは結構、普遍性のある営みといえるのかもしれない。


あ、ちなみにこれ、芥川賞受賞作です。