いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

映画版『奥田民生になりたいボーイ(以下略)』を観て自分の中の「奥田民生になりたいボーイ」が愛おしくなった話

 

 

 映画版の『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』(実は原作には「と」が入らないらしい。今書いているときに知った)をようやく観た。

 

 「奥田民生になりたいボーイ」という言葉を知ったとき、金属バットで後頭部を打ち付けられたような衝撃は今でも忘れられない。何を隠そうぼくも、誰にも言ってはいなかったが、「奥田民生になりたいボーイ」だったのだ(映画版では妻夫木くんが33歳、編集者という風体で出てきたので、今のぼくと丸かぶりだ)。誰にも言ってはいなかったけど、深いところで実はそう思っていたからこそ、その気持ちを奥の方から引き釣り出され、晒し者にされたかのような強烈なインパクトがあったのだろう。
 
 個人的にぶん殴られたのと同時に、企画としての鋭さにもやられていた気がする。「企画が生まれた時点で勝ち」というコンテンツがあるが、本作はまさにその部類に入るだろう。
 
 「奥田民生になりたいボーイ」――これほどまでに痛烈な表現が今まであっただろうか。
 天衣無縫でマイペース。ダラダラしているようで、締めるところはビシッと締める。そんな奥田に憧れる同性のファンも多いだろう。しかし、そもそも奥田本人は「奥田民生」になりたかったわけではない。奥田がなんとなく自分のやりたいようにやっているスタイルが、いつしか「奥田民生」という確固たるブランドを作り上げ、それがファンに対して、音楽性以外のところでも憧れられるようになっていったのである。「奥田民生」は「奥田民生になりたかったボーイ」ではないのだ。

 ここに、日本全国、津々浦々にいると思われる「奥田民生になりたいボーイ」の倒錯がある。
  
 分かりやすくいえば、村上春樹ノーベル賞受賞を祈って毎年のように発表日に酒盛りをしているハルキストたちが最も村上春樹的でないように、自分が『情熱大陸』に出るときのカット割りを妄想することが最も『情熱大陸』的でないのと同じように、「奥田民生になりたい」と思っていることが、最も「奥田民生」的でないのだ。
 
 原作は「企画が生まれた時点で勝ち」という部類と書いたが、一方で、渋谷さんのいい意味でアバウトな絵のタッチでは、この題材は描ききれていないのではないか、と思うフシがあった。そういうことで、今回は大根仁監督による映画版ならではの「良さ」を綴りたい。

■ 全編でかかりまくる奥田民生の楽曲が臨場感を掻き立てる!

 当然ながら漫画は音のないメディアであり、その点は映画のほうが秀でている。本作では全編で奥田民生の名曲の数々がかかる。また、奥田の本物のCDジャケットも出し惜しみなく出てくる。全部俺は持ってるよ! こうした細部の臨場感が、是が非でも「奥田民生になりたい(なりたかった)ボーイ」の気持ちを揺さぶるのである。
 また、「奥田民生」という実在のポップスターが、超重要な意味を果たす本作。大根監督は良くも悪くも「今っぽさ」の表現に秀でた才覚がある。その才能がこの題材と非常にマッチしているとも感じた。

ファム・ファタール水原希子がエロくてかわいい!

 原作との一番の違いはここかもしれない。ヒロイン=水原希子がめちゃくちゃかわいいし、エロいのだ。大根監督といえば、良くも悪くも女性を魅惑的な「対象」として描くのに秀でた作家である(もちろん例外作品もあるぞ)。本作では、水原が演じる「出会った男すべて狂わせるガール」=ファム・ファタールがその集大成と言えるキャラクターだ。
 正直なところ、ファム・ファタールは、渋谷さんの絵のタッチでは限界のあるキャラクター描写だが、この映画での水原希子は申し分なし。失礼な話だが、こんなにかわいい子だったのか! とびっくりした。このキャラクターに必要不可欠なかわいい、そしてエロい! をカンペキに体現している。「これならハマっちまうのも分かる」という存在だ。

新井浩文のガチ感!

 「今っぽさ」といえば新井浩文である。もともと強面ではあるが、この映画では一見優しそうなふりをして、突然に激昂する姿がめっちゃくちゃ怖い。かと思うと一転、即座にネコなで声で許しを請う姿も逆に怖い! どっちにしろ怖い! そしてあの事件があったからさらに怖い! その怖さは、公開当時に観た観客には味わえなかった、今観た観客だけが味わえる特権的な怖さだ。

■ 自分の中の「奥田民生になりたいボーイ」が愛おしくなる!

 映画は原作の大枠をなぞりながら、結論の部分がひと味ちがう。

 主人公は騒動の3年後、「奥田民生になりたいボーイ」としてのアイデンティティを捨て、おしゃれ編集者として大成する。彼はいつしか、自分がなりたいものになろうとするのでなく、相手が自分に対して受ける印象を変えるという戦略で成功したのだ。そこには、「奥田民生になりたい」というかつてあった強烈なエネルギーはどこにもない。

 そんな彼が、かつて行きつけだった立ち食いそば店で、かつての自分の幻をみる。そう、「奥田民生になりたいボーイ」だったあの頃の…。
 ここまで、映画は原作をほぼ忠実になぞっている。ひと味違うのはここからだ。

 あくまで個人の“解釈”だが、原作では「奥田民生になりたいボーイ」だった自分を眺め、今の自分に悲嘆に暮れるというところで終わる。一方、映画版では、立ち食いそばをかき込むかつての「奥田民生になりたいボーイ」だった主人公の描写が、もっとずっと優しい手触りなのだ。そこには、「『奥田民生になりたいボーイ』だった自分も愛してやろうよ」という優しいメッセージがあるように感じ取れる。

 
 ワナビーはナンセンスで、かっこ悪い。けれどそうであった過去の自分を、もうそろそろ許してやってもいいんじゃないか。そんな、過去の自分に対してのやさしい気持ちになれる映画なのである。

 

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール 完全版

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール 完全版

 

 

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