いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

耳すばとサマウォのこの炎上力の差はなんなのか

土曜日に“開戦”してから、本編終了後もしばらくは煙があがっていたサマウォなんですが。
サマーウォーズ』に対して、しばしば同じ細田守監督の一つ前の作品『時をかける少女』のリメイクやもう一つ前の『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』が引き合いにだされるんですが、ぼくはむしろこの作品の炎上力を、近藤喜文監督によるスタジオジブリ映画『耳をすませば』と比較してみたくなります。

というのも、これはあくまでぼくの観測範囲での話ですが、『耳をすませば』が放映されているときのTwitterのタイムラインと、『サマーウォーズ』が放映されているときのTwitterのタイムラインでは、見える景色がまったくちがうのです。

そんなもの作品のジャンルも内容も全然ちがうじゃないか、と言われたらそれでおしまいですが、この二作品は似てるところもいっぱいありますよ。

サマーウォーズ』も『耳をすませば』も、十代の男女が、夏に人とはすこしちがう体験をするアニメ映画、ということでは共通しています。そしてなんと言っても、両作品はともにリア充爆発しろ系映画という見逃せない大きな共通点があります。なのに、盛り上がる方向性=炎上の火の色、が違うような気がする。一言でいえば、『サマウォ』のときはなんだがギスギスしてしまう。いろいろツッコミどころをあげつらって批判したくなる。これはなぜか。


サマーウォーズ』にあって『耳をすませば』にないもの、それは戦いです。もっといえば、勝利です。物語において、勝利するということは、勝者の側の価値観が肯定的に描かれることを意味します。もっとも、そこにいろいろな副次的な要素を組み込んでいくことで、部分的な否定も盛り込めるはずです。しかし、少なくとも『サマーウォーズ』に関しては、最終的にその思想がほぼ全面的に肯定されますよね。

それに対して、『耳をすませば』に戦いなんてないんですね。書いた原稿が何かの賞で入選しただとか、ヴァイオリン職人として大成したとか、そんなことはわからない。雫は書いた小説を聖司の祖父にほめられましたがそれを成功と呼ぶのはまだ苦しいし、聖司もイタリアへ行くことになったけど向こうへ行ってどうなるかだって全然まだわからない。
ではこの映画はぼくらに何を伝えてくれるのか。


それは、青春の怖いほどに満ちた「可能性」です。この映画は、さしたる結末は何もないんですけど、何も描かないという方法をとって、この目も眩むような輝きに満ちた可能性だけを提示する。

そんなもの、誰が否定できるっていうんです?

逆に言えば、『サマーウォーズ』はその支持する価値観において「批判することが可能」なのに大して、『耳をすませば』は批判できるところが少ないだけに、我々は拷問のような2時間をあじわうわけなんですが。あ!もちろん、両作品とも夏にテレビ放映されると、なんだかんだいって観たくなるすてきな映画であることには、かわりないですよ?


ちなみに、『サマーウォーズ』に関してぼくの見解をのべますと、ウイルスに侵略されネットワークがダメになったとき、昔ながらの地域ネットワークでそれに対抗する、という物語中盤あたりの展開は、すこしナイーブすぎやしないかと思いましたが、それでもそれをこの映画のレベルの高いスタッフでやるならおもしろいものになるんじゃないかと、すごく肯定的に観ていました。それを成立させるために、あのような大家族と地域ネットワークのハブとなる――さしずめそれはマザーコンピュータのような――強力な権力者、すなわちがあのおばあちゃんが必要だったということがわかります。
けれど終盤以降、この地域共同体vs.ネットワークの対立は、主戦場がネット内へ完全移行してしまったことで、雲散霧消してしまう。だからこそ、敵のデリートという完膚なきまでのカタルシスを観終わったあとでも、「なんか手放しに喜べないような…」という「嫌な感じ」が残ってしまうんじゃないかと思います。


細田守監督の最新作『おおかみこどもの雨と雪』が公開されました。もうすでにいろんな方が感想、レビューを書かれていて、かなり期待できそうなんで、劇場に観に行こうかなと思ってます。