いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

映画「日本のいちばん長い日」が描く"国家が戦争に負ける"という風景

大宅壮一の名で発表されたノンフィクション(実際は半藤一利による著作)を、岡本喜八監督が映画化した作品。東宝の創立35周年を記念した作品で、当時の東映が誇るオールスターキャストが集結しているが、なによりも、この映画が戦後わずか22年の時期に出てきたことが印象深い。出演者の多くはおそらく終戦をその身を持って体験したわけで、どういった心境で撮影に臨んだのだろうかと考えたくなる。

敗戦をよしとしない一部陸軍将校らが起こした「宮城事件」を中心に、様々な立場の人が登場する群像劇だ。ウィキペディアでは、カットバックの多さが議論を呼んだとあり、たしかに短いテンポで場面がどんどん展開していく。
けれど、ぼくのようにテンポの早い現代の映画に慣れてしまった者からすれば、違和感はない。昭和天皇が読み上げる終戦詔書を録音した玉音盤のありかが焦点になる後半のサスペンス要素も含め、この映画、面白い。158分という時間も全然苦にならない。


本作が描くのは「国家が戦争に負ける」ということだ。「国家が戦争に負ける」ということがどういうことなのか、ぼくは感覚的に上手く思い描けない。負けた途端、自分の臓器が機能を停止するわけではないし、そこに生えている草木が枯れていくわけでもない。何か劇的なことが起きるわけではなく、国家は音もなく負けたことになる。だから、マスメディアによって伝播しないと、国民が知ることもない。それはある意味、不思議な体験だ。
近代国家として日本が後にも先にも唯一体験した敗戦であり、実はこの映画の登場人物たちもこの当時「国家が戦争に負ける」ということを知らない。そりゃ、当時の同盟国であるドイツやイタリアの降伏は見ていただろうが、わが身のこととして彼らは体験していない。
「宮城事件」で蜂起した陸軍将校たちは敗戦を認めず本土決戦を決意し、悲劇的な結末をたどる。彼らを動かしたのは、軍人としての誇りや、戦死した同胞への申し訳なさだけでなく、未体験の「国家が戦争に負ける」ことへの恐怖もあったんじゃないか。そして、彼らの武装蜂起は「国家が戦争に負ける」ことを認識することを、先送りにしたかっただけなんじゃないか、とぼくはこの映画を観て推測する。
「国家が戦争に負ける」とは、まずは自分でそれを認めるプロセスでもある。自分が負けたことと向き合わないかぎり、負けることさえできないのだ。

したがって「国家が戦争に負ける」ということは、おそらく他律的な(相手方が負けたと認めることに由来する)「国家が戦争に勝つ」ことよりも、われわれにとってはずっと大きな、記憶に深く刻まれる体験だ。サッカーの試合で負けるのとはわけがちがう。ナショナルチームがサッカーで負けるときは、サッカー選手が弱いのである。それに対し、「国家が戦争に負ける」ときは国家が弱いのであり、国民全員が等しく負けるのである。サッカーとは違い、相手は日本にまでやってきて、何かを奪っていく。


「国家が戦争に負ける」ことは外からもたらされるものでなく、あくまでも自認のプロセスであり、その印象は思いの外静かだ。映画は途中、血なまぐさい場面もあるが、鈴木貫太郎首相を演じた笠智衆のクライマックスでのささやかな達成感を噛みしめる穏やかな表情の方が、ずっとこの映画を印象を決定している。彼の表情が、体験したことがないぼくにも不思議と「国家が戦争に負ける」瞬間がもつ本質的な静けさとして立ち現れてくるのである。