いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

リスクが怖くても大丈夫、あなたもいつかは死ねる


ついさっき知ったのだけれど、先日まで社会学者のウルリッヒ・ベックが初めて来日していたらしい。


「個人化」の不安 日本にも 社会学者ベック氏、初来日
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201011110291.html

「リスク社会」などのユニークな分析概念を提示したことで知られるドイツの社会学ウルリッヒ・ベック氏(66)が、初めて来日した。1986年、チェルノブイリ事故がもたらした衝撃下で世界的なリスクの登場に警鐘を鳴らしてから、間もなく四半世紀。日本に降り立った世界的研究者は、アジアをも巻き込む「個人化」の深化に注意を促した。


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この人が提唱したのがリスク社会だ。
一言で説明すればここでいう「リスク」とは、たとえば自然災害などの向こうから勝手に襲ってくる自分たちでは管理しようのない危機(デインジャー)と区別され、僕らの選好(どの大学に進学するかや、どこに就職するかや、だれと結婚するかといった個人的な選択)に含まれている危機のことをさす。


どんな判断であろうと、「それをやるのは俺/あたしの勝手じゃん」となし崩し的に容認されつつある価値相対的な現代において、自由度の幅が広がる一方、選択によって生じるリスクも前景化してくるという議論だった(気がする。僕も読んだのは昔なので細かい内容はおぼえてない)。


この記事によると現代の日本では、共同体のしがらみから個人が自由になる西欧型の個人化が進む一方、個人が足をとられてつまずいたときにどん底まで落ちないようにするために設置されるべきセーフティネット、この記事のいうところの「福祉国家」が確立されていないことが問題なのだという。


日本の福祉が脆弱というのは一見すると意外に聞こえるかもしれないが、戦後の日本では個人を守ってくれていたのは、国ではなく企業だった。長引く不況で正規社員(守ってもらえる立場)からこぼれ落ちている人が大勢いることは、日本国内でのここ数年の議論ではもはや当たり前になりつつある。ベックさんは現在、この日本型のリスク社会の進展を研究課題にしてるんだそうなんだが、個人的にはそれって湯浅誠氏が以前から提唱している「滑り台社会」と同根の話じゃね?と感じるところだが、それはとりあえずおいておく。





リスク管理」、それから「〜〜〜するリスク」といった語句の使い方で、日本でもすでにこのリスクという観念はもう十二分に広まっている。
これに関連して、奇しくもベックさんの来日する前後にある面白い調査結果が公表されている。


「長生きは不安」8割超=若年男性、長寿にこだわらず−女性は備え・生保調査

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201010/2010103000239

人生80年、90年時代を迎えた日本だが、65歳以下の8割を超える人が「長生きは不安」ととらえていることが、東京海上日動あんしん生命(東京)のインターネット調査で分かった。
 調査は9月、全国の25歳から65歳の男女832人を対象に実施。「長生きに不安を感じるか」との設問に、「非常に不安」「少し不安」と回答した人が計85.7%を占め、理由として「お金」「病気や入院」「介護」が上位に挙がった。
 長生きをチャンスではなく、「リスク」と考える人も全体の約7割に達した。このうち20〜30代の男女223人に長生きへの願望があるか聞いたところ、女性の42%が「ある」と回答。男性の27%を大幅に上回った。
 長生き願望がない男性に理由を聞くと、「長く生きることにこだわりがないから」との回答が最も多く、実際に老後に備え貯蓄や節約をしている割合も、女性が上回った


僕も25歳でぎりぎり調査対象に入るのだけれど、結果への共感というのはあまりない。共感よりも、この調査項目も込みでなかなか変なものをみたという興味が勝っている。


このアンケートを見ていると、映画『ソナチネ』での北野武のあの有名なセリフ、「あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ」を思い出す。



あのセリフをもじれば、「あんまりリスクを怖がっちゃうとな、死にたくなっちゃうんだよ」。





このアンケートとその結果、どこか倒錯というか転倒していないだろうか。それともそれは、僕だけが感じていることなのだろうか。


この調査をネタにしたスレでは、まず一発目に「じゃあ氏んだら」というレスがあり、まさにそのとおりだと思うのだ。命あっての物種という言葉はまさにそのとおりで、死んでしまえばリスクもへったくれもない。なかにはそのことを重々にわかっている人もいるだろうけれど、それでも引き寄せられてしまう。それくらい今、リスクという観念の引力は強まっている。


だいたいリスクとは何ぞやという根本の部分で、「老後のリスク」というのはなんだか「ぼんやりとした不安」ではないだろうか。
まずなにをもってリスクと考えるかは、必ずしも万人が万人と共有している定義ではない。経済的な不安、肉体的な不安、家庭の不安などなど、考える因子やいろいろあるだろうが、なににつけてもまず、基準となる理想やライフコースというものがある人だからこそ、いや、そういう人にだけ「そのライフコースが実行できなくなる」というリスクが降りかかるものだ。あなたが別にそんな老後の生活を事細かに計画していない人間ならば、リスクリスクと言われても、何がリスクで何がリスクでないかというのは決められないではないか。





ずばり言えば、僕はこのような調査結果には、


ただやみ雲に将来をビビってるだけなんじゃね?


としか思えないのだ。


リスク社会論に誤謬があるとすればそれは、まさにこのように「リスク社会論が流行ってしまったこと」そのものにある。リスクという観念を肥大しつづけ人間の生そのものの規格をこえてしまったこと、それ自体が一つのまちがいなのだ。


「リスク」が「死」の恐怖よりも肥大化するという転倒した事態。そんな今の時代、人はリスクにおびえ続けながら死んでいく。そんな事態だって考えられる。いや、現にそうやってあの世に逝っている人だっていくらでもいるだろう。年金や貯蓄だけで、来年再来年と年を越せるだろうかとウジウジ悩んでいるあいだに、脳溢血でポックリ逝ってしまったおばあちゃんなんていくらでもいるだろう。年を越す前に三途の川を越しちゃった。なんつって。





なぜにこんなにも将来に不安を抱えるかというと、不安材料となりうる試算が出ているからではある。たとえば日本経済について公表される試算には、おせじにも明るいものが多いと言えない。


だが、不確定なことや不安定なことを「客観的」に把握しいるとこまではいいが、その結果を「主観的」に悲観しているのだから、そこには少し問題がある。なぜに日本人は、そんなに「主観的」に悲観に陥るのだろうか。なぜにそんなにネガティブなのか。


それはおそらく、「この状況は自分ではどうにもならない状況だ」と思い込んでいるからだ。


戦中戦後と活躍した政治学者の丸山真男はその日本人論のなかで、日本人の行動のなかに「作為の契機の不在」というパターンを「発見」した。
僕も含め多くの日本人にはどこか、政治の問題にしろ経済の問題にしろ、その結果のもろもろはいわゆる天変地異みたいな超越的なもので、自分たちには操作や変更を加えるチャンス(作為の契機)が残されていない(不在)のだという観念が、蔓延している。そんな、手をこまねいておくしかないのだとういう消極的な姿勢が人口膾炙している。


この論に説得力を感じるのは僕だけだろうか。
日本は一度も「近代」を経験していないという議論はよく話にのぼるが、そういった意味では実のところ日本はまだリスク社会にもなっておらず、自然災害を前にひたすら呆然と立ち尽くしている「デインジャー社会」なんじゃないかと、思えてくる。
老後が今不安なら、どうしてそれが不安にならないように「作為の契機」を模索したりしないのだろうか。





スノッブなやつの吐くセリフに「今日死んでも明日死んでも同じ」というものがある。
この文言が強い力をもつのは、それが「事実」だからだ。
だが、その事実をいかにとらえるかで、その人の個性がでる。「今日死んでも明日死んでも同じ」なら、いっそ今日死んでしまおうという人もいるし、じゃもうすこし楽しいこと見つけるために生きながらえてみようかなと思う人だっている。
その人の世界は、その人の主観が圧倒的に場を占めているのだ。


人生に含まれたリスクにどんなに怯えても、人生をどんなに楽しんでも、大丈夫。
あなたはいつか必ず、平等に死ぬことができる。
そのことだけは、僕がここで保証しておく。