いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

なぜ人は追いつめられると売春に走るのか


婚活女の恐ろしさを体験してきた
http://hamusoku.com/archives/2384804.html


1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/01/22(金) 00:47:51.85 id:aGWAa2Tr0
友人に誘われて婚活パーティーというのに行ってきたが

あそこは地獄だぜ・・・・

キチガイ女しかいない


・・・

500万も投資したメイドに通報され警察に説教されたけど質問ある?http://mamesoku.com/archives/1337542.html


40:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/11/05(金) 13:27:37.46ID:E+H6DkEN0

先週から毎日毎日会社も有給つかって休んで
通いつめてなんとかTDLの約束を取り付けようとしたんよ。

で、この間の月曜日に50万(色をつけて男気を出した)直接渡して
デートしようって誘ったらさ。

店長がいきなり出てきてさ。メイド喫茶を出入り禁止になったんだよ


・・・


一つ目は、婚活パーティに友人に誘われ潜入した>>1氏がのぞき見た婚活パーティの現場を報告するスレをまとめたもので、二つ目は、タイトルが示すとおり一人の女性への総額500万円の「投資」を続けたあげく警察ともお知り合いになれた男性が主人公のスレをまとめたもの。


ふたつのエピソードに通奏低音するものはなにかあるだろうか。
できごとの構造は簡単だ。「切羽詰まった人」が「醜い失敗を繰り広げる」というストーリーだ。では、この醜さというのはどこから来るのだろうか。いっておくけど、僕がここでいたいのは彼ら彼女らの容姿の醜さではない。そもそも僕はここの出てくる登場人物の姿を一切見たことなんかない。そうではなく、ここでいいたい醜さとは、その「露骨なやりとり」の醜さのことだ。


婚活パーティに来た女性たちは、席に着けば即、>>1氏のプロフィールカードを要求し、手にすればその職業欄のフリーランスという文字を見つければあからさまにその経済的状況を気に掛ける。また、500万円男はその名のとおり異性に対して大金をつぎ込むことを「投資」と呼ぶことをはばからず、一人のメイド喫茶店従業員の娘に捧げ続けた。特に三部作になっている最後の方では、じかに50万円を持参してデートを申し込んでいる。もう末期だ。


この二つの露骨さ。なにが「露」出しているのかというと、前者の婚活パーティにしろ後者の「投資」にしろ、それが「売春」であるというその構造だ。





数年前、恋愛は売春だと、テレビで素人の青年が声を荒げて主張しているのを目にしたことがある。ご飯をおごる、あるいは記念日と称してプレゼントを貢ぐ。それらは、お金をだしてセックスをさせてもらう売春行為と何がちがうのだ。何も違うことないじゃないかというのが、彼の主張だったと思う。かつてフェミニストの小倉千賀子も、「結婚は(男の)カネと(女の)カネの交換」と喝破した。今でも、心に出さないまでもこういうことを考えている人はけっこういるのではないだろうか。

はたして恋愛そして結婚は、売春なのだろうか。未だに答えは明らかになっていない。


ただそれは、難しい問題だからというよりも、「答え」が出ているしみなそれを知っているけど、それとなくその「答え」を見て見ぬふりして現実をやりくりしているというのが、今の状況ではないだろうか。


やはり、恋愛も結婚も、構造的には売春とたいした相違はないのだ。そこにはなんらかの交換が存在し、その交換が「不履行」にならないかぎり、その関係は存続する。共働きの夫婦ならばどうか?それは、互いが互いに対して「売春」をしているということだろう。それは二つの売春が合わさったすこし複雑な形態であることにすぎず、変種ではあるけれど売春の域は抜け出せていない。





だが、冒頭に挙げたまるで上手くいってないふたつの売春“未遂”と、世の上手くいっている「売春」との間には、決定的に異なっていることがひとつある。それは、世の上手くいっている恋人、夫婦はその関係が売春であるという露骨な事実から、うまい具合に目を背けることによって持続している、これである。


スラヴォイ・ジジェクはこう言っている。

「文化」とは、われわれが本気で信じず、真剣に考えずに実践していることすべてを指す名称である


スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』p60

この定義による「文化」の最右翼に、世にいう恋愛や結婚が入るのではないだろうか。だれも無償の恋だの無償の愛だのは信じてなどいないけれど、信じていうフリをしている。フリをすることで、その根本にある売春はかろうじて「文化」というベールによって覆われている。そしてそのように取り繕っていれば、不思議なことに上手くいく。それがジジェクによる文化の定義なのだ。


ではその文化の虚構を見破り、「売春だ」と指摘した者はいったいどうなるのか。現実に裸の王様が裸であることを指摘した子供はどうなってしまうのか。そのことについてもジジェクは述べている。

(文化の)象徴的機能に目を眩まされることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているということである。


同上p64


端的にいうと、恋愛や結婚の構造を「見抜き」、それを「売春だ!」と指摘してしまう人は、恋愛からも結婚からも締め出されてしまうのだ。だがそれは、売春の構造を指摘することが品性にかける行為だから、ではない。
所詮この世は色と欲。そういう言葉がある。そこには一面の真理があるだろうが、上手くいっている大多数の人はその売春を、恋心や愛情といったもので各々の「物語」としてコーティングしながら生きている。大多数の人がそうやって生きている以上、郷に入れば郷に従えよろしく、たとえどんなにそれが虚飾にまみれた代物であろうと、その物語に参与しなければ、その人は恋愛にも結婚にもありつけないのだ。





モテない人や結婚するチャンスから遠ざかっていく人は、次第に恋や愛だのにとらわれていること自体が、自分が恋愛に、結婚にありつけない障壁になっていると考え始める。そして、もはやそういった虚飾を取り繕っている時間も余裕も自分にはないと考え、ダイレクトに自分の求めるものにアクセスしようとする。その具体的な例こそが、冒頭に挙げた2例なのだ。どちらの登場人物たちも、自分のやっていることが売買春だという事実に直面することに、たぶん躊躇がない。人それぞれだが、そこまでなりふり構わずにふるまえるようになるまでには、それなりの葛藤があったことだろう。

やり方としては、本来間違っていなかったはずだ。要件を端的にはっきりと。それがビジネスの要諦だということは、凡百のビジネス書が語っているとおり。


だが、この場合は文化という“相手”が悪かったと言わざるを得ない。残念なことに、むしろその恋愛の正体、結婚の正体、それが売春であることを知っているとふるまえばふるまうほど、彼ら彼女らは求めている当のそれから遠ざかっていく。


ここには残酷な結論が待っている。
恋愛を、結婚をあきらめていないかぎり、その人はあくまで“それ”を恋愛として、結婚として取り繕いながら挑み続けなければならないのだ。