いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

お笑いの即興性と計画性の間に横たわるジレンマ

お笑いを、しかも一介の視聴者がネットで語ることほど愚かなことはないということを基本的な生きる指針としながらも、やはり一年に一度や二度は「こじらせてしまう」ことが今でもあり、今日のこの文章もその「病態」であると思っていただきたい。

今回こじらせてしまったのは、何を隠そう先ほど新生プロフェッショナルの第一回、松本人志の回を見たからである。



考えたいのは、人を笑わせることを生業にする者の持つ、根源的なジレンマについてだ。

お笑いをほかの仕事と呼ばれるものと一線を化しているのは、それが必ずしも「でき」で評価されるわけではない、ということだろう。ほかの職業なら「でき」が悪ければ文句なくその人の評価も悪くなる。だが、お笑いの場合はそうではない。できが良かろうと悪かろうと、面白ければ勝ち、つまらなければ負けなのである。

その点では、即興的で打算的であろうと、練りに練られた精巧なものであろうと、同じ土俵に立たされる。ある意味では平等であり、ある意味では不平等なシステムだ。


その点で、松本人志という人間は、お笑い界にジレンマの亀裂を生み、自身もそのジレンマを抱えながら活動する存在だ。以前、こういう秀逸な増田を読んだ。

あるときを境に、松本は笑いを語りだした。あまりに大きくなりすぎたせいで、誰もがその禁忌を許してしまった。それは欽ちゃんにさえ許されなかったことなのに。松本は遅れてきた世代の芸人たちに大きすぎる影響を与えただけでなく、視聴者のあり方さえ変えてしまった。松本のように笑わせることはできなくても、松本のように芸人を評することならできる、あるいは、できるような気がする、できている気分になら浸れる、そんな視聴者を大量に生み出したのだと思う。その結果、ぼくたち視聴者は「ただゲラゲラ笑う」という行為に後ろめたさや劣等感を覚えるようになった。


ラーメンが松本人志

最後の一文なんてのは、今これを書いている僕自身にグサッと刺さっているのだがそれはさておき、ある分野が成熟していくにつれ、そこに「批評性」が生まれるのは、不可避のことなのかもしれない。逆にそうやって批評を打ち立て進歩を模索しようとしないのは、それはそれで不健全といえよう。


だが、その批評性と構造的に齟齬を起こす要素を、ことにお笑いの分野が孕んでいたとしたらどうだろう。



今回、プロフェッショナル本編に先駆けて金曜日に放送されたコント番組、『MHK』。誤解を恐れずに言えば、というか誤解でもなんでもないだろという話だが、そこまで「面白くはなかった」。

つまらない、とまでは言わない。笑ったことも幾度となくあった。だがそれは含み笑いだったりクスリと笑うといったもので、要は爆笑を誘う爆発力はなかったのだ。それはもちろん僕の「感性」(ずるい言葉だ)のせいかもしれない。ただ一つ言えるのは、ここで松本人志の腕が落ちた、センスが枯渇したということを言いたいわけではない、ということだ。


というのも、彼の即興性というのは今でも抜群に面白いと思っている。(復活を待望している)「ガキ使」でのフリートークや、DXでのゲストイジりを見るにつけても、抜群に面白い。面白すぎて、なんでこんなことがアドリブでいえるのかと、笑えないときもある。

だがそれらは、先のドキュメンタリを見るとわかるとおり、あらかじめ予期されていない、即興によるものなのだ。即興というのはある種、「霊媒」に似ている。その場でふっと頭に降りてきたアイデアをアウトプットするのだから、もちろん「自分の作品」ではあるだろうが、理詰めで吟味して考えて作って行くものに比べれば、やりがいは損じるだろう。そして、即興であるということは同時に、批評する余地もなくなっていく。


そこには、自由連想法で自動筆記を企てた古のシュールレアリスムの作家たちにも通ずるジレンマがある。シュールレアリストたちは、たしかに反響を与えた。理詰めでは考えのつかない語と語の組み合わせ、不整合を起こす文法は当時は画期的と評価されたのだ。だがそこには、はたしてそれが「自分の作品」なのかという問題が残る。作家性はフィクションであるとうそぶくことは可能であるが、頭ではフィクションとわかっていても、実感として未だに「作家性」や「個性」を抱えている者にとっては、たとえ自分のものだろうと、自分にもよくわからないものを表出するということ、さらにそれによって自分自身が評価されるということは、やはり腑に落ちないこともあるだろう。


「笑いは、生もの」というのは、ドキュメンタリの最初の方で文字として引用され強く打ち出された松本の言葉なのだが、その言葉は今回のコント作りのために何度も、何時間、何か月もスタッフと集まってアイデアを練るという彼の行動と、真っ向から対立している。おそらくドキュメンタリ製作者としては、最後に紹介されたあるコントのオチの部分を口にする寸前にとりかえたというところに、彼の即興性、前段の発言の裏付けるものであることにしたかったのだろうが、それは詭弁にしか思えない。


そんな彼の「お笑い芸人としてのジレンマ」が、もっとも象徴的に表れているのが、ここ最近の映画制作だろう。彼はここ数年、多くの時間と力を割いて映画に関わりながらも、正直な話、その作品は今のところそこまでの評価は得られていない。そこにはドキュメンタリ映画を除いて多くの映画は、細部まであらかじめに練りに練って行われるものであり、映画製作ほど、そこに「即興性」の入り込む余地がないものも、ないからではないだろうか。


この番組で初めて知ったのだが、だからこそ、三作目となる次回作は、“最強の素人”の野見さんを主演に迎えるのではないだろうか。


野見さんは一介の素人である。たぶん、彼に直接「おもしろい話してください」とリクエストしたならば、ひどいことになるだろ。だが、そんな野見さんの“面白さ”にかつて我々は魅了されたのだ。野見さんの面白さというのは、その行動の不可解さであり、批評のしようがない即興性に他ならない。精密に構築された細部を、野見さんの予想不可能性を解き放つということでぶっ壊すという「止揚」を彼が思いついたと考えるのは、これまた深読みのしすぎだろうか。


とにかく、おもしろくもあり重苦しくもあるドキュメントだった。