![イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ [DVD] イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ [DVD]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51M03HSQAOL._SL160_.jpg)
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90分にまとまった映画だが、前半はグラフィティアートの説明にあてられるといっていい。グラフィティアーティストの「作品」は、見つかれば塗りつぶされたり撤去されたりするし、描いているところを警察にでもみつかれば逮捕される恐れがある。彼らの作品は、一般的には「落書き」とみなされるからだ。
このことが、永続的に保存され広く鑑賞されることを想定された既存のアートへのカウンターとしてのグラフィティアートの立ち位置といえよう。彼らはアートと犯罪の境界線、もしくはアートと非アートの境界線に立つ芸術家、といえるかもしれない。そこには、無価値であることが価値なのだという転倒した価値観がある。
しかし、そんなバンクシーの「作品」さえも飲み込み、価値づけしてしまう「引力」がアート・ワールドにはある。これにはバンクシー自身も驚き、少し呆れるような様子をみせていた。どんな設置の仕方でも、アートがアートとして表出したその瞬間、否が応でも「アート」として成立してしまう、させてしまうアート・ワールドのエゲつなさを見せ付けられる。
と、そこまでのプロセスを、映画はあるもう一人の男を主人公にして語る。それは、四六時中カメラが手放すことができないアメリカ在住のフランス人、ティエリー・グエッタだ。
彼はグラフィティアーティストらを無目的に撮影し続け、膨大なテープを積み重ねていた。そしてついに、彼が撮影を熱望していたバンクシーにさえたどり着き、あるトラブルをきっかけに彼の「盟友」にまで昇格する。
そしてバンクシーに諭される。今こそ、俺たちを撮ったテープをまとめ、映像作品にするべきだと。
そんなつもりは(おそらく)なかったティエリーだが、バンクシーに感化され、ドキュメンタリ映画を作ったのだが……。この映画のデキは散々で、あのバンクシーでさえ絶句するという非常事態。
バンクシーがインタビューで一瞬言葉をつまらせた瞬間を観ると、彼はバンクシーにある意味で勝ったようにさえ思えてくる。もはやどんな作品を作ってもアート・ワールドに取り込まれてしまうバンクシーに対して、ティエリーは正真正銘、誰も評価しないような「ゴミ」を作ってしまったのだ。
人の好いバンクシーは直接酷評はしなかったが「これ以上俺たちを撮らせるわけにはいかん」ということで、彼に作品制作を薦める。体よく追っ払おうとしていたと思うが、これも真に受けてしまったティエリーくん。グラフィティアーティスト・ミスターブレインウォッシュ(MBW)としてデビューする。
どの世界にも秀でた者がでてくると、それに醜悪な模倣が生まれてくるのだが、MBWはまさにバンクシーやウォーホルの酷い模倣である。
彼の作品は見た目は「アートっぽい」が、発想が何もない。そこが酷いのだ。例えば、プレスリーの写真のギターを銃にとりかえた加工をしている作品があるのだが、別にそれは何かを風刺しているとは思えない。バンクシーっぽくモチーフを改変しているが、そこに意図がないのがバレバレなのだ。
やがてMBWは、誰にいわれるでもなく大規模な個展を開催を計画してしまう。ここまで来ると彼はさながら、バンクシーが生み出し、彼にさえ制御できなくなった「モンスター」だ。
コンセプトもなにもないデタラメな個展は、その傲慢な話の進め方でスタッフの反感を買いながらなんとか開催にこぎつける。バンクシーらグラフィティアーティスト仲間の嫌々ながら(この映画に出てくるグラフィティアーティストはみな人がいい)の宣伝が功を奏してか、会場前には長蛇の列ができている。
ついに開場となったとき、彼の個展は大酷評を受ける、、、、どころか観客に受け入れられ大成功してしまったのである!!!
そう、この映画はアートの世界に感化、もとい洗脳(まさにブレインウォッシュ!)されたド素人の悲哀を映しているが、同時に「アーティスト症候群」にり患した鑑賞者の姿も映していたのである!!

アーティスト症候群---アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫)
- 作者: 大野左紀子
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
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(大野さんによるこの映画の批評も)
ということで、一番の怪物は、バンクシーの生み出したアート・モンスターMBWまでも飲み込んでしまったアート・ワールドの方だった、というオチ。
皮肉なことにクライマックスでは、MBWの個展がまさか上手くいくと思っていなかったバンクシーらグラフィックアーティストが、アートの側からこの驚きの事態への困惑を語る。
バンクシーがこの映画の最後に「誰もがアートに関わるべきだと思っていた でもそれは間違っていたね」と語る。それは「アーティストの評価は難しい。時がくれば僕が本物かどうか分かるよ」と、本物に決まってんだろという顔で語るMBW、元ティエリー・グエッタ氏とは対照的だ。
現代思想界隈ではこれと似た「ソーカル事件」という有名な話がある。デタラメな数式を使った現代思想の論文が、査読を通ってしまったという実際に起きた事件だ。
もっと一般的にいえば、「人の話は通じているようで実は通じていない」ということだ。そして、「通じていないのに成り立っているコミュニケーションもある」ということだ。バンクシーとティエリーの間でもそうであり、さらにはアーティストと観客の間でもそうなのだ。
売れないメタルバンドを追った『アンヴィル』を見たときも感じたが、ドキュメンタリとは思えないほどストーリーが出来上がっている。
「モンスター」と評したが、まさにバンクシーとMBWの関係は、フランケンシュタイン博士と彼が作ったモンスターと同じである。自分が作り出してしまった「創造物」が彼の制御をできない暴走をはじめてしまうというのは、その後も幾度となく語り継がれたストーリーの「型」だ。
それだけに、この映画は「フィクション」でないか? あるいはMBWはバンクシーでないか?という疑問が頭をもたげてくるのも無理はない。全てができすぎているのだ。
しかし、MBWはどうも実在するらしい。ぼくはそれでよかったと思う。もしこれが最初から最後までバンクシーの「創作」であったら、「やられた!創作かよ!」と驚かされるが、同時に失望も味わっていただろう。なぜならそれは、「夢オチ」みたいなものだからだ。
衝撃映像は実際に起こったことだからこそ驚けるのだ。今の時代、動画でさえ簡単に加工できるが、加工によって生まれた衝撃映像などつまらない。それと同じ理屈である。