いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

子供を作るってのは、世界に不確定性のかたまりをぶち込むってことなんだ

http://togetter.com/li/36234
「親の言う事を聞くことは良いことなの?」という議論の本題とは逸れているのだけれど、どさくさに紛れて気になったことと、最近思っていることを少々。



GkEcさんというこのトピックを立てた人が中学生だというのをあげつらい、その人生経験の未熟さにて論を退けるというのは、そもそもここでGkEcさんが疑義を唱えている温情主義(「パパの言うとおりにしとけばいいんだ」等々・・・)的なもの言いだから、なんだかなーと思うのだけれど、僕はちがった観点からこの議論はどこかちがうんじゃないかと、思うわけだ。


議論のある箇所から、「子供を作る」(僕自身には残念ながら「作る機能」がついてないのであくまで「作ってもらう」だが以下略)ということを、「出資」や「対価」という経済学の言葉で語られはじめているのだけれど、そのことについてもっと慎重になるべきではないだろうか。
別にそれは、「腹を痛めてあんたを産んだのに(ノω・、)」的な道徳論を説きたいわけではない。むしろ経済学のうちからの内在的批判だ。



「出資」や「対価」というものについて考えるとき、暗黙裏に大前提とされているのは、その「出資」による「報酬」や、「労働」による「対価」を受け取る主体が、前後で同一性を保っている、ということだ。
「契約」というのは約束事であって、それが字義通り遂行されることはもちろん大前提だが、それは契約者同士の主体の同一性の裏返しでもある。


ふつう、僕らは商品を買ったときのその「効用」を吟味する一貫した同一性が必要とされる。イチゴ味のチューインガム「買う前」のあなたと「買った後」のあなたは、定義上一貫していなければ務まらない。
口の中でクチャクチャやりだしたあとに「やっぱバナナ味がよかったー」とか「そもそもガムいらなかったし」とか言われても困るわけだ。


はたして、このような経済学的な主体の同一性が、子供がいる/いないという議論で適応できるのかどうか。
もちろん子供を産み育てるということは、周知の通りきわめてお金がかかることだ。
その意味で「経済活動」といえる。
以前、千原ジュニアが親から「あんたを育てるのにかかったお金」と金額の書かれたファックスを送られてきたという笑い話をしていた。たしかにそういった金銭という数値で残るものもあるが、それだけでもないだろう。


最近、哲学者の東浩紀社会学者の宮台真二が『父として考える』という対談本をだした。


父として考える (生活人新書)

父として考える (生活人新書)


稀代の両学者である。
子供がいようといなかろうと、何でも答えてくれそうな両者である。
その二人に、わざわざ「父」という観点から考えるにいたらせたのには、二人にとって「子供がいる」という事実性が、「子供がいない」ときには気づき得なかった何かを気づかせてくれたということだろう。
もっと大げさに言えば、両者の思想に少なからぬ影響を与えた、と考えてもいいんじゃないだろうか(このように頼りなさげに書いているのには、僕がまだこの本を読んでいないということが少なからぬ影響していることはまちがいないが…)。


あるいは、もうずいぶん昔になるが、奥田民生が『息子』という曲を作ったとき、何かのインタビューで「子供がいないうちに作っておきたかった」という珍妙な受け答えをしていた。
もしかすると奥田も、「子供がいない自分」で書ける曲と書けない曲、「子供がいる自分」になって初めて書ける曲、あるいはもう書けなくなる曲があるということを、直感的に察知していたんじゃないだろうか。


「子供を作る」とそれだけで、「彼」や「夫」から、「彼女」や「妻」から、「父親」と「母親」に続柄は代わる。
しかしそれ以上に、そういったなにがしかの心境的変化がもたらされるかもしれない。
それは起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。
ただ、起きるか起こらないかわからない以上、「子供がいない自分」にとって「子供がいる自分」はやはり「わからない」。
そういう意味で、僕は「子供がいない自分」で「子供がいる自分」の「出資」や「対価」について考えても、意味がないと思うのだ。
今の「子供がいない自分」で考えた子供への「出資」の額が、「子供がいる自分」にとってはまったく話にならないほど安いかもしれない、反対に高いかもしれない。
「対価」についても同様だ。


だから、経済的原理で子供にまつわる「出資」と「対価」のすべてについて考えるのは、「無意味」に思えるのだ。



こんな感じで、最近「子供がいる」ということについて考えたりする。
というのも、僕はもう25歳だ。
25歳といえばまっとうな大人なら子供の一人や二人はいても、まったくもって不思議ではない。
地元の友達とはほぼ縁を切っているのでその近況は知り得ないが、人の親になっているという人間も少数派ではないだろう。
二十歳に子供が産まれたとすると、今年その子は五歳になる。
他人ごとならこれはそれとなくやりすごしてしまうが、自分に五歳児がいたと想像をめぐらせてみるとわかる。
これははっきりいって絶対的に、「とてつもないこと」なのだ。


自分の手の中に、自分とパートナーが全力で守ってやらなければならないいっぱしの「人間」が、いっぱしに呼吸しながら生きているのだ。
これは良くも悪くもまるっきり「とてつもないこと」ではないか。


「とてつもないこと」というのは少しわかりにくいかもしれない。
言い換えれば、僕がこう「とてつもないこと」として恐れおののいているのは、「途方もなく膨大な可能性」の別名なのかもしれない。


いそいで弁明すると、別にここでいう「可能性」とは「末は博士か大臣か」的なその子の能力的、内在的なポジティブな可能性だけを指しているわけじゃない。僕は自分の遺伝子をもった子供がそこまで上りつめると確信できるほどにおめでたいわけではない。


その子供は「末は博士か大臣か」でもあるし、同時に「末は大量殺人鬼か国際的テロリストか」でもある。
その「可能性」はもちろん、生まれる前からすでに始まってる。
五体満足で生まれてきてくれるかもしれない。なんらかの生得的疾患を持って生まれてくるかもしれない。
ここでいう「可能性」とはだから、天井知らずであるし、底なしでもある。
そういう意味ではこの「可能性」は、「不確定性」と言った方がもっとわかりやすくなる。


しかもそれはその子だけ収まり得ない作用をもたらす。僕やパートナーもおもいっきり恩恵/被害をかぶることになるだろう。そんな小さな規模には収まらない。社会そのものが、その子がいなかったときとは少なからずちがったものになったはず。その子がいるだけで、だ。

子供について考えるとき、僕はその子の持つ途方もない「不確定性」に圧倒されるわけだ。



このまま死ぬまでボケーッと一人で、あるいは僕のような人間と一緒になってくれるという人がいたとして二人で、手をとりあって人生を歩んでいくとしても、おそらく変化というのはいい意味でも悪い意味でも「たかが知れている」。おそらく、考え方の根本まではほとんど変わり得ないだろう。


だから、ご託を述べずに子供作れと、いいたいわけじゃない。
そもそも「子供を作る」ということに、そこまでポジティブなイメージだけもっているわけじゃない。
そうではなく、冒頭に書いたように「僕」そのものが良くも悪くもまるっきり代わるかもしれないというほどの「不確定性」が、自分の子供がいて、その子とともに生きていくという人生には秘められているということだ。
結果的に子供を作らないという選択肢があって当然。
ただ、「子供がいる」という人生にはとてつもない「不確定性がある」、そのことだけは勘定に入れて決断したとしたら、後にそのことにまつわる後悔は少なくなるんじゃないだろうか。


と、奥田民生のように「子供がいない僕」でこう記しておく。