いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「働かざる者食うべからず」はそういう意味で、「正しい」。

新年から、ネットという情報の海にもまれていては作業も何もできやしねぇということで、意図的に情報のアンテナの感度を鈍めているものです。
小飼弾「働かざるもの、飢えるべからず。」を読んで - phaの日記

賛否両論入り乱れているこの記事なのだけれど、僕が読後に最初に思ったのはこういうことだ。


なんだid:phaさんって、ちゃんと働いてんじゃん。

僕は昔からずーっと、できるだけ働かずに一生ふらふらして生きていきたいって思っていて、どうやったらそれが実現するか必死で考えてきたし、いま若干それを実現している。死ぬまでこの調子でいきたい。

http://d.hatena.ne.jp/pha/20100121/1264080583

つまり僕は、phaさんがこれまで「できるだけ働かずに一生ふらふらして生きていきたいと思っていて、どうやったらそれが実現するか必死で考え」るという形の「労働」をしてきたのではないか、と思うのだ。飢えないためにはどうすればいいかを考えるのも、凍死しないためにはどうすればいいかを考えるのも、ニートの社会的存在意義についてブログにて熱弁を振るうのも、みな「一生ふらふらして生き」ていくことを実現するための、労働なのではないか。それも、立派な「知的労働」だ。

phaさんが生きていくためにしていることが「労働」だとして、それは普通に会社に就職して普通にお給金をもらって暮らしを立てるのと、何がちがうかというと、前者は「ある一定期間働いた対価としてお金をもらう」という形態ではなく、つまり「企業」というプラットフォームを介していないということだ。前者に対して電卓を弾いてだすことのできる金銭的価値は、後者に比べれば低いだろう。しかし、「贈与」として考えればどうか。


ニートベーシックインカムの恩恵に預かるのは不公平だと批判する人たちというのは、この「金銭的価値」に乗っ取った問題のとらえ方をしていることがわかる。でも社会って、その金銭的価値というものだけで回っているのだろうか。現にphaさんは読者の人から献本をされ(羨ましい話だ)、それを読み、その感想をこうしてブログで披露することで、多大な影響を多くの読み手に与えた。アドセンスなどで多少の金銭を儲けているかもしれないが、忘れるべきではないのはおそらくそれ以上に、僕らそれぞれがこの記事を読むことで何らかのことを考えさせられたということ、啓発されたことということだ。金銭では量化できない“それ”を、僕らは不当に低く見積もっていやしないだろうか。

要するに金銭かどうかに関わらず、社会の成員として僕らは影響し合いしているんじゃないだろうか、ということだ。



「働かざる者食うべからず」はそういう意味で、「正しい」。でも僕が最近思うのは、どんどん時代は「“働き方”を考えざる者食うべからず(というかどんどん食えなくなっていく)」になっていってるんじゃないか、ということだ。
ほとんどの人のもとに生活に必要なものが行き届いた今の時代、それまでのやり方で全うに働いたとして安定した将来が待っているとは限らない。それよか、全く新しい「仕事」を生み出さなくちゃならないのではないだろうか。全く新しいということはつまり、まだ「誰も知らない」ということでもある。「知らない」ということは「無い」ということであって、それを「考える」というのは「探す」というよりも「作る」に近い。


人類史上どんな時代も社会も芸術も学問も、ある程度の成熟を向かえて既存のパターンは全部やりつくしちまったぜというどん詰まり状態に陥った時、全く思いも寄らぬ方向からガツーンと殴られるような衝撃を加えられ、舵の向きが変えられてきた。その「ガツーンと殴られたような衝撃」というのは“革命”とか“パラダイムシフト”とか“ブレイクスルー”とかいろいろな呼び名を持っているのだけれど、「全く思いも寄らぬ方向」というのはつまり、ここでいうニートのようにその時代の「真っ当な生き方」や「体制を占める価値観」を逆流するかのような、そういう生き方をしている人たちなのだと思う。


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