今年も残すところあと十数日となり、もはや年末の風物詩とさえなったM-1が明日開幕する。今年は出場ラストイヤーとなる笑い飯の悲願の初戴冠なるか、南海キャンディーズの再登場、さらにはキャンパスナイトフジ視聴者にとっては我らがハライチがどこまで優勝戦線に食い込めるかなど、一見話題性は豊富に見える。
でも、僕の心中では、実はそれほどたいして盛り上がってはいない。手前味噌ながら、僕のような人が結構多いのではないだろうか。昨年NON STYLEの優勝で幕を閉じた際に、いや、本当はもっと前からその“予兆”はあったのかもしれない。それは、どちらかの浮気が発覚して劇的に終わる恋愛ではなく、それとなく徐々に赤い糸がほつれていってやがて幕切れるようなそれだ。だからはっきり告げれば、僕の中でM-1はもう「終わった」のだ。
終わった恋愛のその原因をああだこうだと議論するのは野暮な話であるけれど、ことにこのM-1からの心離れには、個人的な――でもきっと幾人かの人は共感してくれるような――理由が挙げられるような気がする。
僕の中でM-1が終わった理由。それはタイトル通り、M-1戦士が生まれたことなんじゃないか、と思う。いったいどういうことか。
これは、総合格闘技の成り立ちに例えられるかもしれない。
総合格闘技もしくはバーリトゥードという、いわゆる目つき金的以外なんでもありの格闘技は、90年代前半にアメリカでUFCが定期開催されたのがきっかけに広まっていった。一見「なんでもあり」というそのルールの特殊性に目がいきがちではあるが、それだけではない。当初のUFCにおいては、出る側だって「なんでもあり」な状態だったのだ。
柔道家や空手家、プロレスラーからただの力自慢のおっさんまで多種多彩。海のものとも山のものともつかぬ大男や単なる怪力自慢が集う中行われたそれを、最初に見た人はおそらく「これは公にして見せ物にしてはいけないのではないか」と不安にさえ駆られたのではないか。それほどまでに、むき出しのバーリトゥードというものには当初、見る側を幻惑する秘境性とスキャンダラスな魅力を兼ね備えていた。
そんなあらゆる「他なるもの」のごった煮としてスタートしたのが総合格闘技であって、当然のことながら当初から厳密な意味において「総合格闘家」と名指しされうる存在がいたわけではない。パンチやキックといった立ち技が得意なやつがいれば、寝技一辺倒のやつもいた。能力値を六角グラフに表すとしたらみな、極端な山があれば極端な谷もある。そんな“非総合的な”総合格闘家が、ごろごろいたのだ。
しかし、時代が下ればどうなっただろう。
競技人口の増加や社会的認知の上昇、戦術的、技術的な研究と革新によって、個々の選手の能力は全体的に確実に高くなっていった。たとえ巧くならない苦手な部分があったとしても、いかに凌ぐかという先達からのノウハウの蓄積によって、それはカバーされていく。結果、現代においては標準的でオールラウンドな、まさに言葉の如くの「総合格闘家」が、この競技のトップ戦線を担うようになってきている。
僕はその「総合格闘家」というプロの「誕生」を悪いとは言えない。格闘家はお金をとるプロの仕事であって、街のチンピラのストリートファイトではないのだから。だけども、その格闘家の「総合化」によって、逆に失われたあの、スキャンダラスな魅惑もあるのではないか、とは思うのだ。
そして、実はそれと同じようなことが、M-1でも起こっているんじゃないかと、僕は思っている。
第一回大会を、思い出してほしい。優勝候補筆頭の中川家優勝という盤石の結果で記憶される第一回であるが、実は彼ら以外の幾組もののコンビが成功とはほど遠い「大ケガ」をして大会を去っていったのだ。それは、当時前代未聞だった1000万円をかけての漫才コンクール「M-1」への、各コンビの適応の失敗の証左であるけれど同時に、そのようにまだ「M-1」という形が括弧としてできていなかったが故に、いろいろな逸材が副産物としてあの大会から世に出て行った、とも考えられるのではないか。
かつて(といっても3,4年前までの話だけれど)僕らがM-1という大会に対してした熱狂とは、そもそも歴史のないその大会の権威に寄っていわば偽造されたものなんかじゃなかった。そうではなく、どういう広がりを見せていくかさえまだわからないそのM-1という大会の「生成過程」そのものと、その生成過程の中でM-1に対して適応不全を起こした病的な、ひょっとしたら不気味ですらあった芸人たちの光景に対する熱狂であり、感動だったのだ。
しかしどうだろう。昨年の覇者NON STYLEにしろ、ここ数年決勝に残るコンビの漫才その多くは完成度は高く、だだすべりをする危険性はほとんどないものの、巧妙にM-1を獲りに行く、まさに「スタイル」が横行していたような気がしてならない。それはまさにM-1の決勝に進むことが決定してから、いや実はもっと前から練られていたものなのかもしれない。それがまさに「M-1戦士」という型であって、そしてそのM-1戦士の登場して賞を取っていくということは同時に、M-1という大会自体が確固たる枠組みの完成を、もはや大幅なスタイルの変更は不可能な硬化を始めた兆候だったのではないか。
そして、そんな硬化を始めたM-1の中で戦うM-1戦士の漫才に笑えはすれど、もはや僕らは鳥肌が立つほどの熱狂を覚えることは、できないんじゃないだろうか。
と、そんなことを前日に書いておくのも、実はそんな僕の高飛車な物言いをあっさり覆すような面白い大会になってほしいという願いが少なからず残っているからかもしれない。もはや完成されたM-1でウケる方法をとらない、M-1戦士ではないコンビによる、M-1タイトルの「強奪」を期待したい。