いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

はやぶさの件でNHKが叩かれたのも、一種の「シチュ」なのである

あとで食べようと置いておいたら思いのほか冷めるのが早くて、結局ほおばったときには期待していたほどおいしくないという苦い経験をよくする。今回も、思いついたままほっといたら一気にネタとしての新鮮度が低下していったのが、「はやぶさ」である。



調べれば調べるほど、この小惑星探査機が宇宙にて成し遂げた人類史上に残る科学的功績の大きさには目を見張るものがある。持って帰ったものはどうも期待できそうにないようだけれど、実は帰ってくるまでにこの探査機はすでに多くの前人未踏を踏んでいたわけだ。


だが、今回のこのはやぶさの主にネット上でのブームというのには、その科学的功績への賛美とはまた別の側面があったということも事実で、それはつまり、はやぶさを擬人化して描いたイラストに象徴されるような、地球への帰還の途上に燃え尽きてしまったかの機械への情緒的なコミットメント、いわば感情移入だ。

今回のブームには、もちろんその核には純粋なる科学的叡智への注目はあれども、それと同時にそういった、(たぶん僕と同じようにこれまで宇宙工学などとはまったく無縁であった人々による)情緒的なコミットメントがからんでいたということは、想像に難くない。



ではなぜ、人々ははやぶさに萌えた、もとい、情緒的な側面から熱狂したのだろうか。
それは物語構造的な理由があると思う。
批評家の大塚英志はその著書の中で、村上春樹の小説の中の特に初期の作品は「行きて帰りし物語」であると、主張する。


大塚はトールキンの『指輪物語』の訳者である故・瀬田貞次の論を引き、瀬田がマージョリー・フラックの絵本『アンガスとあひる』を例にとり説明した、「生きし帰りし物語」に注目する。


瀬田は、『アンガスとあひる』の劇中にて黒のスコッチテリアであるアンガスが垣根の向こうから聞こえる声が気になり、その主を確かめようと垣根の向こう側に行き、再び逃げ戻り、ソファーの下に逃げ込むという流れの中に「行きて帰りし物語」が象徴的に示されている、と説明する。これが彼のいう「行きて帰りし物語」だ。


ここでキモは、垣根の向こう側がどこであったか、もしくは何があったか、ではない。そうではなく、「「向こう側」と接触し、「こちら側」にあることの安寧を確認する手続き」(『物語論で読む村上春樹宮崎駿』p52)だと、大塚はいう。重要なのは構造であって、構造内にて「向こう側」として代入される変数は任意なのだ。
つまり、垣根の向こう側はたとえ「地獄」であろうが「天国」であろうが、「子供にとっての両親の寝室」であろうが「男にとっての女風呂」であろうが、そして当然、「探査機にとっての未知なる小惑星」であろうが、構造としてはきっちり成り立つのだ。


ここで僕が言いたいのはもちろん、はやぶさのたどった運命が、丸っきりこの「行きて帰りし物語」だった、ということに他ならない。『指輪物語」』や村上春樹の『羊をめぐる冒険』は、典型的にこの構造をとっているのだけれど、大塚はさらにあの『スターウォーズ』などのハリウッド映画にも、この「行きて帰りし物語」をもうすこし複雑化した神話構造が通奏低音していると説く。

実はこの物語の構造分析は、これはこうであれはああでというように当てはめていき、どんなに奇抜に見えようと「物語はみな一緒」というその凡庸さを際立たせることにしかならず、きわめてつまらない。
だが、この「行きて帰りし物語」という話法にて、今でもサブカル領域にて数多くのストーリーが量産され続けていている。はやぶさの帰還に端を発する一種の騒動はおそらく、きわめて“サブカル的”と考えていい。



ところで、気になったのは、例のNHKを筆頭としたテレビ局のこのニュースへの冷めた姿勢に対する、はやぶさ帰還を歓迎したネット民たちの批判、苦情、怒りである。はやぶさ帰還のニュースは、後々には報道されたものの多くは事後的で、生中継でとりあげたところは皆無であったという。それがネット民の怒りを買ったのだ。
しかし、である。どうしてそこで、マスメディアへの怒りがメラメラと燃え上がったのか、それが個人的にはすごく興味深い。もはやテレビの「腰の重さ」を多くのこの国の多くの人が知るところだろう。編成部を頂点としたトップダウン式のかの組織では、そういった突発的に発生した事象への対応は、ネットに比べればはるかに遅い。さらに、はやぶさ帰還に対する告知等が直前までほとんどなかったところから、テレビ各局が生中継に踏み切る可能性はないに等しかったことは、良識あるネット民ならばわかるはず。にもかかわらず、なぜに苦情がいったのか。

そうではない。むしろこのケース、「チクショー、はやぶさを無視しやがって」とテレビ各局、ひいてははやぶさを関知しない世論全体に対して批判を向ける、いや、はやぶさの代わって“義憤”にかられることそのものが、このはやぶさ帰還を盛り上げるための一種の「シチュ」だったんじゃないだろうか、と思えてくる。




例えばこういう「筋書き」だ。
…その危険性のあまりこれまでだれも志願しなかった未開の森「イトカワ」への冒険。ただ一人手を挙げ、王国の先遣隊として出兵した勇敢な戦士はやぶさは、途中様々な困難に遭いながら、数多の猛獣潜む深緑の森からようやく帰還の途に就く。
ここでだ。王国の国王から国民までそろって、諸手を挙げて戦士の帰還を祝福するエンディング。それももちろんありうるが、「サブカル的話法」ではそれよりも、何らかの事情により探索の計画自体が王国の執務部の手によりなきものにされ、はやぶさは王国から「裏切り」に遭うという展開が多いんじゃないだろうか。すくなくとも、はやぶさが裏切られることによってストーリーは悲劇的に盛り上がり、それを追う読者もはやぶさへの感情移入を高めることはできる。そしてなにより、物語が多層的になっていくではないか。


アニメやマンガ、ライトノベルにそこまで明るくない僕であって、正直こういうストーリーが本当にあるのかどうかは定かではない。近似するストーリーでも、思いつくのはウルトラマンジャミラの回くらいが精一杯だ。だがそれでも、この「無視された戦士にかわって義憤にかられるシチュ」というのが、ありうるだろう。


国家は四年に一回しか見ないような玉蹴りにうつつを抜かし、厳しい旅から帰還し今きら星のごとく燃え尽きようとしているはやぶさを、亡き者にしようとしてやがる。そういった「シチュ」も、実ははやぶさへの「情緒的コミットメント」であり、「サブカル的消費」と関係なくはない、むしろその一端だったわけだ。


ところで、こういったはやぶさの科学的功績とはほとんど無関係のところで繰り広げられた情緒的な「サブカル的消費」に対して、批判的な考え方もあるだろう。お前ら全然わかってねぇよ。どうせ半年経ちゃあ忘れるし、次思い出すのはせいぜい「一回忌」だとかぬかして一年後だろ?とか。


しかし、僕は別にいいではないか、と思うわけだ。「箸が転がってもおかしい年頃」というのは、一般的には(主に思春期の女の子である)対象への否定的見解であるけれど、角度をかえれば「箸が転がっ」たくらいでもおもしろがれるという、それは一種の認識上の「能力」とも考えることができる。
ある人の人生において楽しいと思えることが100個あったとしよう。もしその人がはやぶさの帰還に独自の物語性を見いだし、それを嬉々として迎えられる感性の持ち主であったなら、楽しめることは101個となり、嬉々として迎えることのできない人よりも楽しいことが一個上回る。一個でも上回る以上、それは生きてる上で得なんじゃなかろうか?