いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ブブゼラとワールドカップに見る「文化」の問題

ワールドカップが先日開幕したがそんな中、以下のような記事を読んだ。

ブブゼラ禁止検討…仏エブラ「眠れない」

 
スタンドで吹き鳴らされる民族楽器ブブゼラの使用禁止を南アW杯組織委員会が検討していることが13日、分かった。ジョーダーン組織委員長が「放送関係者などから苦情が来ている」と明かした。フランス主将のDFエブラが「耳鳴りで夜も眠れない」と話すなど、選手にも不評だ。


http://www.sanspo.com/soccer/news/100614/scd1006141012016-n1.htm


今シーズン西武から阪神に移籍した助っ人外国人のような名前のこの民族楽器だが、実は昨年同じ南アフリカで開催されたワールドカップの前哨戦的な大会、FIFAコンフェデレーションズカップにおいても、中継中にけたたましい音色をとどろかせ話題をさらった。あの、無数の蚊が飛び回っているかのような「ブーン」という音。テレビでもあれだけ聞こえるのだから、四方から鳴らされるピッチ上では想像絶する騒音になっているはずだ。コンフェデ以降、各所方面から少なからぬ苦情が届いていたというが、FIFAはそういった反対の声を押し切り、結局この民族楽器の本大会会場への持ち込みを容認したのだが、それが今このように問題化しつつあるのだ。


これは、その土地にもともとあった文化と外来のグローバリズムとの関係を考える上で、かっこうの一例ではないだろうか。



FIFAの「世界戦略」は、94年のアメリカ大会に始まる。以降フランス大会をはさみ、アジア初の日韓、ふたたびドイツ大会をはさみ、今年2010年にようやくアフリカ大陸に初上陸したことになる。そんなFIFAの手がけた「輸出品」がフットボールというスポーツであったことは、ある意味象徴的だ。というのも近代スポーツというのは、どこで、だれがしようと、同じルール、同じ基準、同じ規格という均質さが大前提になっているからだ。世界の均質化をめざすグローバリズムとは、当然水が合う。


一方、これはよく言われることだけれど、五輪やサッカーW杯を開催できるということは、国の威信でもあったりする。日本の東京五輪が当時そうであったように、国際的な大会を開く能力を示すことは、自国の近代化が完了したことを世界に証明することにもなるのだ。

だがそれは、単なる「オレたちの近代化を見よ!」ではない。自分たちの文化を根絶やしにした上に先進国の文化を新しくとってつけるのではなく、発展にはそれぞれの国の特徴、色が必要になる。結果、それはいわば「“オレたち流”の近代化を見よ!」ということになるだろうか。ポストコロニアルの問題といえばそれまでだけれど、そういった発展の先にある所産の一つが、今回のようなブブゼラのスタンドへの持ち込みなのだろう。


ただ、「“オレたち流”の近代化」という表現ではこれが単に開催国側の一方的な横暴のように聞こえるけれど、おそらくFIFAの側にも「アフリカならでは」という特色を「演出的効果」として狙っていたという思惑が、少なからずあったんじゃないだろうか。なによりもブブゼラの持ち込みを許可した張本人は、FIFAの親玉ブラッター会長なのだから。



ジョージ・リッツァという社会学者が書いた『マクドナルド化する世界』という著作がある。


マクドナルド化の世界―そのテーマは何か?

マクドナルド化の世界―そのテーマは何か?


マクドナルドというのはグローバリズムの権化のような企業だけれど、リッツァはこの著書の中でマクドナルド流のグローバリズムを、「同質性と異質性の混融」と呼んでいる。
今や僕らは世界のどこに行こうと、マクドナルドのあの黄色のMの字を見ずにすむ土地は残されていないといえるくらい、かの企業のネットワークは世界に広がっている。
だが、そうはいってもイタリアのマックにはイタリアでしか注文できないメニュー、メキシコのマックにはメキシコでしか注文できないメニューがあるはずだ。日本なら「チキンタツタ」や「月見バーガー」がそれにあたるだろうか(僕も家族旅行でハワイに行ったとき、朝食のあてがなく一回だけハワイの「朝マック」に入ったことがある)。そういった、メニューの中で微細な「差異性」がかろうじて保たれた、世界を覆う「同一性」こそがマクドナルドなんだと、リッツァはいう。


ワールドカップも、この「同質性と異質性の混融」としてとらえることができる。ピッチ上で繰り広げられるのは高度なテクニックのプレイなのだけれど特徴のない均質なフットボールであり(ちかごろ、スペイン代表やバルセロナ以外、本当にチームの特色がなくなったと思う)、一方それを彩るスタンドからは“南アフリカらしさ”を演出する差異性としてのブブゼラの音色が鳴り響く。今開催中のそれは、さしずめW杯南アフリカ“支店”なのだ、と。


ワールドカップにてブブゼラがスタジアムで鳴り響いている背景には、南アフリカの開催国側としての威信と、FIFA側のグローバルマーケティングとしての思惑が、そのように微妙に交叉しながら絡み合っているんじゃないだろうか。



問題はしかし、いざ大会が始まってみると、先に書いたとおり「非アフリカ大陸民」にとっては、ブブゼラの音色が“不快”以外なにものでもなかった、ということだ。大澤真幸の言葉を借りれば、グローバリズムによって十二分に近代化と均質化をとげていたはずの、「他者性なき他者」になっていたはずの南アフリカW杯の内部には、やはり僕ら外来人にとっては抜けがたい違和感、不気味さ、価値観の齟齬をもよおすとらえがたい余剰、「他者性」があったということなんじゃないだろうか。


『排除型社会』の中でポストモダン流の犯罪学を活写したジョック・ヤングは、文化多元主義の隘路といえるものを射貫いている。


排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

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文化多元主義というと、お互いの文化を尊重しあおうよ、仲良くしようよというまことに高尚な理念のもと叫ばれている、一見すると穏和で寛容な主義主張のように思える。だが実際のところ、他者との急激な接近は、主体のなかでアイデンティティークライシスを引き起こし、「他者」とフレンドリーになるどころか、露骨な排外主義を生み出す、というのだ。
ちなみに、自らのアイデンティティーも投げ打って他者と関わる「変容文化多元主義」という長ったらしい主張を唱えていたけれど、そんなの実現するんだろうか。



これはスポーツライター金子達仁の近著を読んで初めて知ったのだけれど、久々に優勝を飾った16年前のアメリカW杯は、ブラジル国民にとってもっとも不人気な大会として記憶されているという。やはり「サッカー不毛の地」のアメリカでは、盛り上がる土壌が無かったのだ。またその8年後の日韓大会も、6月はジメジメした梅雨だったということも相まって世界的にはけっして評判は高くない。
それらの評判を鵜呑みにするならば、ヨーロッパやもともとフットボールが盛んであった南米以外では、未だW杯は「成功していない」ということになる。


W杯が世界を一周したとき、僕らは「人類みなキョウダイ」と肩を組むことができるのだろうか。それとも「やっぱりあいつらキモい、意味わかんね」となるんだろうか?


※調べてみると、ブブゼラは1960年代に発明されたといわれていて、その歴史は実は浅い。伝統や文化として決して古くないけれど、実体的な年数よりもそれを吹き楽しむ人たちがその音色を血肉化し、その音色を心地よいものとして受け入れている以上、別にこの論に影響はないと思う。