いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

コミュニケーションの必要性の無さに耐えられない人たち

前から思っていたのだが、新入生あるいは新入社員にとっては、GWというのはむしろないほうがいいのではないだろうか。5月あたまぐらいは、ちょうど新しい生活環境で、新しい生活習慣の型ができはじめる頃だ。そこでいきなり一週間を超える連休をもらい、大学や会社から離されては、せっかくできかけていたその型がリセットされてしまうかもしれない。彼ら新人の場合は、例えばもっと慣れているであろう年末あたりなどに、連休を振り返えて挙げてもいいのではないだろうか。


まあそれはともかく、今週号のAERAに興味深い記事が(関係ないが「森田健作知事の剣道2段は『自称』」も面白かった)。

GW退学を防ぐ大学お友達対策 AERA NO.23


記事中でも紹介されているが、新入生にとって大学というのは実は、入学前式の前から始まっていたりするのだ。それはどういうことか。
おそらく多くの大学では、大学生協やサークルなどの団体が入学式の前の3月末あたりに、新入生向けに大学の周辺地域を巡る観光ツアーなど歓迎イベントを開催している。入学式前のことだから参加は本人の自由なのだが、実はそこで顔を広げておくのが、意外に重要だったりする。特に知らない街での初めての一人暮らしが心細いという者同士ならなおさら、その場で早くも濃い友人関係をつくっていたりする。

「大学は入学式以降っしょ!」と思って鷹をくくっていると、入学式以降にのこのこ登校してみて、すでに友人関係を作っている周りの同級生に驚かされることになる(現に僕は驚かされた)。実はここに躓きの石があるのだ。そしてそのように入学当初に躓いた人の中には、GWで気がゆるんでそのままドロップアウト、という人もいるのだろう。


以前、コミュニケーション弱者について書いたことがある。聞くところによると「非コミュ」ともいうんだそうだが、言い換えれば彼らは「人間関係の必要性の『無さ』に耐えられない人たち」なんじゃないかと思う。


だからこそあの「怖い人」は、元増田さんと自分の関係性にわざわざ「こういう風に適当な会話をすればいいんだよね」と声に出して補助線を引いたのだ。
だからこそ僕の元同級生は、僕に突然「友達になってくれる?」という「契約」を持ちかけたのだ。


どこの大学の学則にも「友達をいっぱいつくること」なんてバカげたものは載っていないだろう(おそらく)。友達がいたって、友達がいなくたって、学校は卒業できる。しかし大多数の人にとっては、学内に一人も友達、知人と呼べる存在がいないという状況が辛いだろうということだけは、想像に難くない。仕事や恋愛でない限り、残酷なことかもしれないが僕らが交わるほとんどの人間関係に必要性はない。でも不思議なことに、僕らはその必要性がないはずの人間関係の希薄さに、時に孤独を、苦痛を感じるへんてこな生き物でもある。結局、必要性の無い人間関係であっても、その必要性とは別次元で僕らは欲望していることとなる。


ではそんな非コミュの人たちを、必要性の無さに耐えられない人たちをどうやってコミュニケーションに参加させるのか。コロンブスの卵のようだが、一つ簡単な答えがある。彼らのコミュニケーションに、必要性を与えればいいのである。「参加しなければならない講義である」、という必要性を。

記事では、他の学生とコミュニケーションすることそのものを目的にした授業のある大学が紹介されている。「今の時代、人間関係の作り方も大学が教えなきゃならないの?」という批判は、当然あるだろう。しかし、現に大学において成績という学生の本分たる領域とはなんら関係のない別次元において、そうやって学外にはじき出されていく人が少なからずいるという事実がある以上、最低限「コミュニケーションのインフラ」を大学側が整えてあげてもいいんじゃないか、と僕は思った。最初のうちは、それでいいのだ。