いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

紙の本は亡くならない、とはいえない。ただもし電子化したなら、フェティシストは去っていくだろう。

興味深く、野心的なエントリー。
http://d.hatena.ne.jp/tempai/20090516/p1


コメント欄でも少なからずの人が、「本と音楽メディアは同列に語れないでしょう」的な反論を寄せている。どちらかと言えば、僕もそれに与したい。
僕も含む大多数のはてな市民がこのエントリーに関心を寄せ殺到するのは、書籍の電子化によってもたらされる「利便性」とはまた異なる次元にあるいわくいいがたい紙の本の「何か」に僕ら本読みが魅せられていて、このエントリーではおそらくそのことをほとんど考慮に入れられていなかったからではないだろうか。いや、もしかするとこの「紙の本滅亡論」の存在それ自体によって、その理論的整合性を度外視しても、その「何か」を喪失してしまうのではないかという不安を僕ら本読みにかき立てた結果なのかもしれない。


僕らが紙の本、つまり物質としての本に惹きつけられる、その理由とは何か。
この点において、「ページをパラパラとめくる楽しみや印刷された紙の味わい――そういったもの」という出版社CEOの冒頭で引用された発言は、一見心許ない根拠のようでいて、実は紙の本の亡くならない最終的な拠り所になるのではと、僕は思う。
彼の発言は、利便性や機能性では還元しきれない僕ら読者を惹きつける紙の本のその「何か」を言い当てている。それは「フェティシズム」だ。


僕らは情報を得るためだけに本を得ているのではない。いや、少なくとも幼い頃、つまり「本読み」としての「デビュー当時」は、童話や昔話といった「情報」を得るために、親などからそれを読み聞かせてもらったり、自ら進んで読んでいたりしたのかもしれない。しかしそれ以降少なからずの本読みたちの間では、「情報を得るため」に「本をめくる」という理由と行為に、転倒が起き始めるのだ。おそらくそこに、紙の本へのフェティシズムの始まりがある。
書籍へのフェティシズムといったってしかし、いろいろある。本を買うと、ろくに読みもせずに書棚にしまってしまう人。装幀を気に入り、気に入った本を集め、適宜読む人。


僕はその中でもわりと正統(?)な、(内容で選んでいるものの)「本を読むことを通して本にフェティッシュに浸る」というタイプのそれを考えてみたい。
繰り返すが、僕ら本読みは本から何らかの情報を得るためだけに、本を読んでいるわけではない。その形式そのものに、僕はフェティッシュの鍵があると思う。では、その形式とは何か。それは、僕ら日本語読者の左手を「未知なるページ」に添え、右手を「既知にしたページ」に添えるという、あの読書スタイルのことだ(もちろん、洋書や左から右へ進む本はすべて逆になる)。おまえは何当たり前のことをいってんだ、と言われるかもしれないが、実は「本を読むことを通して本にフェティッシュに浸る」嗜好を持つ人にとっては、この形式こそが重要なのだ。


読み始めの頃は、右手の触るは薄っぺらい「既知にしたページ」と、左手の触るは厚い「未知なるページ」。このころはまだ、両者の間にはぬけがたい厚みの差がある。しかし時間を得るごとに、地道にページをめくって読みすすめていくうちに、徐々に両者の厚みは拮抗していく。十分に読み勧めていった後、気がついたときにはほら、右側には既知のページが物質として僕らの手の中にずっしりと収まっているではないか。それに気づいたとき、(少なくとも僕という)本読みは得も言えぬ読書の「達成感」を得るのだ。その達成感の有無は、本の内容とあまり関係ない。


実はこの、自分が「既知にしたページ」を物質として味わえることにこそ、「本を読むことを通して本にフェティッシュに浸る」類のフェティシィズムが隠されているのではないか。もちろん字も追っている。内容も頭に入れている。いや、だからこそ自分の「既知にしたページ」が物質化される書籍という媒体に、僕らは没入するのかもしれない。


本を「読み始める前の僕」と、「読み終えた後の僕」は少なからず別人だ。その2人の僕の「違い」を教えてくれるようなものは何もない、ように見える(難しい本を読み終えて、少しやつれるとか、精悍な顔つきになる、ということはあるかもしれないが)。実はしかし、一つだけある。読書「以前の僕」と「以後の僕」、その違いを唯一担保してくれる物質があったとすればそれは紛れもなく、その右手がつまむその紙の本の「既知にしたページ」に他ならない。


だから紙の書籍が亡くなる、ということは起こらないと思う。もちろん、何が起こるかわからないのが世の中だ。だから100%亡くなるとは言えないように、「100%亡くならない」とも、実は言えないだろう。


ただ、もし書籍が何かの都合で完全電子化されたのなら、少なからぬ読者は電子化された新刊本からは去っていくだろう。そして、完全電子化以前に印刷されていた物質としての紙の本だけを、終生繰り返し、死ぬまで読んでいくのだろう。


おそらく、その電子化した書籍には背を向ける人たちこそが、「紙の本」に固着するフェティシストなのだと、僕は思う。