いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

秋葉原の事件について

9・11のとき、あなたは何をしていたか?10年近く経った今でも、僕はあのニュースを知ったとき自分がどこで何をしていたか、それを鮮明に覚えている。
あのテロについて興味深く思ってしまうのは、僕らがあれを語る際常に、「あのとき自分はどこで何をしていたか」ということを、盛り込んでしまうところだ。皮肉なことに、僕らはあのテロを通して、あの頃にはまだ知り合っていなかった人たちと、同時的体験をしたという実感を得てしまう。それはまさに、人の死によって自分が生きている、ということを確認しているということだ。

昨年の今日に起きた事件も、実はそれと同じような側面を持っている。昨年の今日、僕は何をしていたか。やはりそれも、僕は鮮明に覚えている

この事件についての識者による論考集を、遅ればせながら先日読んだ。

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

雇用問題、家庭問題、コミュニケーションの問題(モテ/非モテ)。それらの各所方面の気鋭の論者たちが、それぞれの視点からこの事件について光を当てている。そして、そのほとんどが的を射ていて、時に納得させられる。


しかしそれって、よく考えてみればおかしなことである。どの視点から考えても妥当な解釈が生まれるということは、実は何も言っていないのと同じなのではないだろうか。この事件の裏にあるのは、雇用問題であり家庭問題でありコミュニケーションの問題であると同時に、実はそのどれでもないのではないか。ここで真に問題にすべきは、そのような数多の解釈を吸引し妥当にさせるあの事件の求心力、あの事件の「魔力」みたいなものだと思う。


あの事件について、最も僕たちの目を引いたもののひとつは、犯行前に彼がモバイルサイトの掲示板で披露したその自意識の過剰さ、これである。
事件前のネットでの書き込みを見る限り、彼は事件後にこの手の分析本が出版されるだろうということ、言ってしまえば「こうなること」は織り込み済みだったはずだ。各界の著名な評論家に彼はその「心理」を分析され、事件の「腑分け」がなされていく。重要なのは、その解剖結果の正否ではない。解剖されることそのものだ。 それを鑑みると皮肉なことに、この手の本を最も待望していたのは、僕ら消費者ではない彼自身だったのではないか、と思えてくる。そういう意味で、この事件はもしかすると、日本の犯罪史上類を見ない、「動機に先立って行われた事件」、なのかもしれない。彼をめぐる語り、「彼がどうしてそんなことをしでかしたのか?」ということに対する答えを欲して、この事件は起こってしまったのではないか?


テレビのワイドショーを視ながら、変な人たちだなぁと思ったことが一つある。それは、犯行前に犯人が残した「夢=ワイドショー独占」というメッセージを紹介したその口で、なおも放送時間の大半をこの事件についてしゃべり続けた、ということだ。彼らテレビマンは、犯人を片っ端から非難しながらも、犯人の欲望を叶えてしまっていたのだ。


さらにこの事件の「魔力」みたいなものは派生していた。事件直後から、2ちゃんねるなどでは「自分もやっていたかもしれない」という、賛同ならずとも「共感」に近い書き込みがあったということを聞く。いやしかしこれは間違いだろう。あの日秋葉原を恐怖に陥れた容疑者と、大多数のメディアを通してあの事件を享受した上で「やっていたかもしれない」と思う人たちには、実は千里の径庭がある。しかし、それにも増して、社会そのものの不和を象徴しているかのように見えるあの事件を目の当たりすると、自分たちの「生きづらさ」があの犯行と地続きにつながっている、ように僕らは錯視してしまう。


事件以降、直接は関係ないものでも、その論考の正当性を担保するためにが、あの事件があたかも「ジョイント」のようにして使われた社会評論を、僕らは飽きるほど読まされてきた。それら数多の社会評論によれば、「秋葉原連続殺傷事件が象徴するとおり」今、雇用問題が切迫しているし、「秋葉原連続殺傷事件が象徴するとおり」今、家族が瓦解しているし、「秋葉原連続殺傷事件が象徴する通り」今、他者とのコミュニケーションが貧困化している。
あの事件の「不可解さ」は、そのように各人の解釈やその世界観(=文脈)を正当化し、強化することに与してしまうのだ。


あの容疑者にもし、犯行に駆り立てるなんらかの動機があったとしたら、それは実存への問いだろう。「俺って何なの?」という問い。その問いに対して僕らは、あの事件を解釈し、動機を探り当てることによって、「返答」してはならないと思う。時代という文脈の中に、首尾よくこの事件を納めてしまうことそのものが、この事件を「成就」させてしまうことなのだから。


もちろんそれを彼固有の問題に回収してもならない。同時代を生きる僕らが、彼と全くつながっていないという逃げ方も、ここでは許されないだろう。口の中のそれを、単に異物として「はき出す」でもなく、解釈して「飲み込む」でもなくその中間にとどめて、口ごもること。そののど元の異物感の気持ち悪さに、これからも僕らは耐えていくしかないのだ。いつまでも、あの事件を解釈し終えてはならない。