いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「五反田に行けない」松本人志を僕らはまだ知らない

松本人志が結婚した。このことを知ったのは今朝方のニュースだったのだが、あの時間帯の番組特有の15分おきの同じ情報の繰り返しでさえ、なんども何度もながめ、聞き入ってしまった。それほど僕の中でのこのニュースの衝撃度は、大きい。

4月にも、衝撃的なニュースはあった。草なぎ君がすっぽんぽんになったあのニュースが。あのときも、その第一報をどこで聞いたかは覚えている。東横線の急行の渋谷駅発車を座席で待っていたとき、向かいのおじさんが広げた日刊ゲンダイの一面。もちろん詳しくは読めなかったけど、「草なぎ」「公然猥褻」の文字だけで、僕は即座にケータイのモバイルサイトの掲示板を開いてしまった。


それぐらい衝撃度の高い今回の結婚のニュースなのだけど、なんと言えばいいのだろう。草なぎ君の時とは衝撃度の「質」が違うのだ。

草なぎくんのあのニュースは僕にとって、徹底的に「でたらめ」だったからこそ衝撃的だった。これは変な例えなのだが、3組のカード群があるとする。1枚目のカード群は「人物」、2枚目のカード群は「場所」、3枚目のカード群には人物のやる「行為」が書かれてあるとする。これは、その中から一枚ずつ順に引くというゲームだ。そして、その試行によって選ばれたのがたまたま、「草なぎくん」が「赤坂の公園」で「すっぽんぽんになる」という組み合わせのセンテンスになったのだ。それを選んだ僕らはおそらくゲラゲラ笑ってしまうのだろうけど、そんな「ゲラゲラ笑ってしまう」ことが現実になってしまった。それくらいのでたらめさが、あの事件にはある。もちろん、カードの組み合わせ上それは「あり得た出来事」なのだけど、それ以外の組み合わせも同時にあり得たわけで、その中から「草なぎくんが赤坂の公園ですっぽんぽんになる」という現象だけが特権的にあり得るとは、確立としてはならない。それ故に、このでたらめさというのは、僕の全く見ていない方向から「バチーン」と殴られたという類の衝撃だった。


それに対して、今回の結婚はちょっと違うような気がする。今回の場合は、結婚するのが「松本人志だからこそ」驚いたという感覚だ。
当たり前だが人間誰だって、公の場ですっぽんぽんになることよりは、誰かと結婚することの方が断然確立が高いわけであり、そういった衝撃度では草なぎ君の件には遠く及ばないはずなのだけれど、その当事者が松本人志なだけに、それは衝撃的なのだ。僕らは「松本人志なだけに」、彼を結婚から遠ざけていて、当たり前に彼には結婚する権利はあるのだけれど、そんなことは起きないだろうと思っていた。だからこそ、それが現実に起きたことに驚いてしまうのだ。


ではなぜ、僕の中では「松本は結婚しないだろう」という先入観みたいなものができてしまっていたのだろう。思うにこれは、「私生活」と芸人の「芸風」の関係にあると思う。
例えば明石家さんまの場合、私生活では「一度結婚した後離婚して、今はシングル」という事実が、今のさんまというタレントとしてのキャラクターの構成に多分に影響している。毎週頭の軽そうな女の子たちと恋愛について真剣に舌戦を繰り返すことも、いい歳して毎年、その年のぐっときた美女たちを発表していき自分が「現役」であることを誇示する彼の芸風も、この「一度結婚した後離婚して、今はシングル」という彼の私生活があるからこそ成り立ち、面白く思えるのだ。あるいは島田紳助は、「若いときに結婚して、(すったもんだはあったものの)その奥さんとずっと連れ添っている」という事実が、彼のトークに既婚者特有の「リミット」を設けて、そのリミットを守っていたり守れなかったりするところに、彼の芸風があるように思える。
このように、私生活によって芸風が影響されるのだ。本当はそのような相関関係になっているのだけれど、テレビで彼らのお笑いを見続けると、いつしかこの「私生活」から「芸風」へという影響関係にブレークスルーが生じるのではないか。つまり、彼らのアクの強い「芸風」を見続けるうちに、僕は彼らに「他の芸風もありえた」という可能性が見えなくなり、むしろその芸風こそが本源的であり、そこから私生活が決定される、という錯視を起こしていたのではないか。


今まで、「松本人志」を構成する要素には、彼が「シングルである」という事項が存在し、さらにそれが彼の芸風に多分に影響力を有していただろう。もちろん彼は「一生結婚はしない」なんて言っていない。しかし、僕の中では彼の確固たる芸風によって、知らぬ間に彼の私生活をも構築されていた。だからこそ、僕には「松本人志が結婚する」という可能性が、欠落してしまっていたのだ。


相方浜田はこのことを早々と、「もう五反田には行けませんね」と祝福した。まさにそうである。芸風によって私生活が決まるのではない。当たり前だが、私生活によって芸風に少なからずの変化がもたらされるのだ。
「五反田には行けなくなった」松本人志が、いったいどういうお笑い芸人になるのか。それを僕たちは、まだ知らない。