いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

本と人間の相関

読書っていうのは不思議な体験で、二度読んでも三度読んでも受ける印象が同じとは、実は限らないわけだ。表紙もページに並ぶ文字の数も配列も、何から何まで同じなのだけれど、もう一度読むと一回目とは確実にちがう感覚を得る本が、なかにはある。


一度目に読んだとき、書かれている内容以上に文章が難しく思え、読み終えたけれどなんだか全然頭に入ってこなかった本も、読みたくなって二回目に手に取ったときにはその意味内容、論理構造がすいすいと頭に入ってくるという体験、文面上の著者の思考と読む側の僕の思考が喧嘩することなく寄り添うような体験が、一度や二度成らずともある。その一方で、初回には納得して読めた本でも、二回目には承伏しがたい内容がそこに書かれてあったという経験も。このことは、読まれる本の側というよりも読む側の僕という人間を、変数として差し挟まなければ解けない謎だ。僕が変わったから本が変わったのだ。


僕の何が変わるかはもちろん、僕の個人的な成熟(および退行?)によるところが多いのだろうけれど、そういう単線的な成長では語れないような、その本に僕の方が向いている時期と、向いていない時期が、きっとある。


この世には二種類の本がある。「外的な必要性に駆られて読むことになった本」と「今僕が内的に読むことを欲している本」、この二つだ。すべての前者がその時の後者と重複するならいいのだけれど、そうとはいえない。むしろ、なぜだかわからないのだけれど前者は著しく「今僕が全然まったく内的に読むことを欲していない本」として僕の前に立ちふさがる。だからこそ、僕はこの「外的な必要性に駆られて読むことになった本」を読み解くのに苦心する。


読書を一回性の体験にとどまる限り、初読の印象がその本の評価に直結する。だから向いていない時期に読んだ本は、向いている時期にもし読んでいたとするときのその本より、僕は不当に評価してしまうことになる。これは本にとっても読む僕にとっても、不幸な話である。
そういう意味で、本と似てるものがある。


人だ。


この20数年そこらのまだまだ振り返るのには短い人生だけれど、それでもいろいろな人が僕の前に現れた。そのすべての人たちと僕が未だに良好な関係を持っているわけでは、もちろんない。手元に残ったのは、その中のごくごく一部でしかない(ここでケータイのアドレス帳を開く。あれ、30件を超えてないなぁ…)。ある人たちとはうまく親しくなれないまま、疎遠になっていったわけである。
しかしこうも考える。あの当時、僕がまた「別の僕」だったとすれば…、彼らと実はもっと別の関係性も築き得たんじゃないか、と。


もし、僕があのときまた「別の僕」だったとすれば、ある人は僕が竹馬の友と呼べる存在になっていたかもしれないし、またある人は僕が恋人と人に紹介する人になっていたかもしれない。そう考えると読書って人との関係に、けっこう似てる。
「俺と合わなかったヤツ」に今もう一度会ってみたら?変わるかもしれないよ。