いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

セクハラのつづき

一昨日のエントリーでコスモスさんからコメントをいただいた

一昨日僕は、セクハラというのは何が何でもセクハラになるというのではなくて、セクハラにならないコミュニケーションの文脈というのもあって、それを勘違いで踏み外してしまうことによって巻き起こったことこそ、セクハラなのではないかということを書いた。
そのことに対して、コスモスさんからこういう指摘をいただいている。

セクハラ問題はもっとドロドロした話だと思うな。多くの場合、何かしらの悪意が表出しているんだと思う

要するにこういうことだ。文章の読解においても、読み手の勘違いなどによって「誤読」は起こる。しかし、その誤読の中には「意図的な誤読」「悪意ある誤読」があるということも忘れてはならない。言い回しやニュアンスを少しいじくるだけで、時に相手の意図した文脈はいかようにも歪められるということを、僕たちは知っている。
もちろん文脈を偶然に踏み外してしまうミスによっても、セクハラは起こる。しかし、例えばセクハラをすることによってセクハラされた側に心の傷を追わせることそのものが、セクハラした側の目的であったとすれば、この「文脈の読み違い」という解釈ではすまされなくなる。
無知をよそおった悪意、というやつだ*1


僕自身、前回のエントリーを書いている時点で、このセクハラする側のセクハラをしているという「自覚の有無」についても考えがよぎった。しかし、ガラにもなくその時は性善説に立って、いわゆる「無知によるセクハラ」が「多」いと書いたが、ここまでセクハラという語とその意味が浸透した昨今において、それでも無自覚のままセクハラをしてしまうという人の方が、まれなようにも感じられる。


むしろ、前エントリーに書いた「文脈の読み違い」によって起こる「無知によるセクハラ」というのは、もはや「夫―妻」「彼―彼女」などの関係の内部においての方が多いのかもしれない。これはきわめて当たり前のことだが、相手が夫だったとしても妻だったとしても、彼氏だったとしても彼女だったとしても、いついかなる時でもお尻を触っていいわけではない。おそらく相手にだって、「お尻を触られたくない」時と、「お尻を触られてもいいかな」という時があるはずだ。しかし、世間ではこの当たり前が当たり前でない家庭や恋愛だってある、ということを伝えきく。


と、ここまで考えてみて、夫婦間の、恋人間のセクハラって、なんか変な言葉だなと思っていると、気がついた。僕らは常日頃、そういうのをDVやデートDVと呼んでいたのである(もちろんDVする人の中にも、無知をよそおった悪意はあるだろうが)。


僕らは普通、親密な相手との関係ほど「以心伝心」、10言えば100が伝わる関係であると思い込んでいるが、実はそうでないこともある。いやむしろ、普通以上に親密であるということが担保されているがゆえに、僕らはその関係性の中で野放図に振る舞ってしまうのかもしれない。でも本当は、家族という関係性のなかだろうと、恋人という関係性のなかだろうと、相対する人がこちらと同じ人格をもった一存在であるかぎり、「相手の心情を推しはかる」というめんどくさくもあり時に楽しくもなる作業から、僕らは一生逃れることはできないんだ。

*1:あとこれもコスモスさんによる指摘だが、セクハラされる側にも、相手に意図的に誤読させるような文脈をつくっておいてセクハラを訴えるという「悪意」も考えられる。