いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「サブカルチャーとしてのチェ・ゲバラ」と「マルクス主義革命家としてのチェ・ゲバラ」

miyata1さんのエントリー。

ニュース番組が、石川県にある美術大学が変わった卒業式をする、ということで、その映像を流していた。卒業生がコスプレして卒業証書をもらうことが変わっているらしい。
チェ・ゲバラのコスプレ - 続・自我闘病日記

へぇー、こんな学校があるんだぁと思いながらも、暗鬱な気持ちになる。
オタクやコスプレはサブカルチャーであって、もはやカウンターカルチャーではない。相手たるもの(メインカルチャー)への異議申し立てをする気などなく、外に向かって発しているメッセージがあるとすればそれは「うちらは好き勝手やってますからかまわんといて」ということくらいだろう。
そしてそのサブカルチャーは、そのメインストリームへの「無頓着さ」が功を奏してか(その点「見返したるで根性」がギンギンにあったカウンターカルチャーが瓦解したというのも皮肉な話だが)肥大しつづけ、今やどちらがメインかサブかなんて判別つかないし、判別しても意味がないという状況になりつつある。
にもかわらず、こういうことをすることで、自分たちの「特異性」を確認できたつもりになれ、自分のナルシシズムを満たせるのかということを考えると、暗鬱となるのだ。でもしかし、ポストモダンにおいて重要なのは、公の場における客観性などではなく、何にもまして主観という名のリアルなのだから、その人が「俺たちって変わってる!」と思えたなら、誰がなんと言おうとそれは変わっているのであるからそれでいいのかもしれない。


ところで、チェ・ゲバラが若者にもてはやされ、しかもそれを上の世代がなぜ容認するのか。

答えは簡単である。ゲバラが理想とした共産社会を誰も望まなくなってしまったからである。
同上

チェ・ゲバラを大胆にも(?)、精神分析的に解体してみよう。彼を構成するのは、今若者にウケている「サブカルチャーとしてのチェ・ゲバラ」、彼の見た目、つまりイメージ(=想像界)の要素と、miyata1さんが紹介しているとおりの「マルクス主義革命家としてのチェ・ゲバラ」、イデオロギー大文字の他者(=象徴界)としての要素だ。そしてmiyata1さんが指摘するとおり、若者たちは彼のイメージ(想像界)の部分にしか同一化してないように見える(できないのか、しようとしないのかわからないが)。そこからは、彼が「理想とした共産社会」という大きな物語がすっぽり抜け落ちているようなのだ。だからこそ、チェ・ゲバラのコスプレは、するほうもそれを眺める方も、平然としていられる。


加えていえば、「サブカルチャーとしてのチェ・ゲバラ」(想像界)は横の軸であり、「マルクス主義革命家としてのチェ・ゲバラ」(象徴界)は縦の軸だ。僕が思うに、権威や威厳という名のこの縦軸が失墜した後に今あるのが、「友達のような親子」や「友達のような教師」(うぇっ!)という類のものなのだと思う。親や教師が象徴的な他者にはなり得ず(コスプレを見てニコニコしている学長!)、すべてが子供にとって鏡像にしかなりえない、平坦な横軸を飾る想像的他者に留まってしまう。

ここで問われるのは欲望のありかである。

彼や彼女はなにも変わったことをしていない。変わったことをしていると誤認できるのは、欲望を欲望していないことを忘れてしまって、その結果、イメージに同一化しているだけであることが分からないからである。
同上


ここでふと、精神病者には自分の欲望がない、というのを思い出した。ラカン派の精神分析においては、成長過程で想像界の上から象徴界による「意味づけ」が、何らかのミスで行われなかった際に発病するといわれているのが精神病である。では、大文字の他者を知らないポストモダンの若者たちは、いつか精神病になるのだろうか?それともまた別の、僕らには見当もつかないところに大文字の他者を持っているのだろうか?

  • 参考文献

ラカン派精神分析入門―理論と技法

ラカン派精神分析入門―理論と技法