アマゾンレビューにコメント機能がついたのはいつぐらいだろうか。コメントを書くにはアカウントが必要で、自分でレビューを書いている人間には、批判的なことを書くと「いいえ」で報復されるかも、という恐れがある。そのせいか、あまりコメントは盛り上がっていないのが現状だ。もっともレビューを書かないアカウントをとって思う存分批判するというやつは、まぁAmazonではなくてもどこのサイトにもいるのだろう。
いろいろ見ていると、評論家の小谷野敦さんの最近出た小説『美人作家は二度死ぬ 』
- 作者: 小谷野敦
- 出版社/メーカー: 論創社
- 発売日: 2009/01
- メディア: 単行本
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そのレビューのコメント欄では、著者の小谷野さん自身とレビュアーが議論している。なんか後味の悪い終わり方になっている。読まないで書いたり、間違ったことを書いたりするというのは、もちろん書き手に非があるのだが、それを指摘されたレビュアーが繰り返し掲げるのは、「一消費者」という論理だ。そこでお互いがすれ違ってしまう。いわばこれは、評論とレビューのすれ違いだ。
僕からすれば、村山由佳と小谷野敦を並べるなよ(あまりに離れすぎていて、両者を比べても意味はないだろ)、と思うのだ。しかしそんな批判も、この人のように「私はレビュアー(消費者)であって、批評家ではない」と言われればそれまでなのだ。
本は商品である。商品である以上売れなければならない。その商品を買うのは誰か、消費者である。消費者は強いのである。
もはや文芸評論に文学作品を通して現実社会を写しとる役割は失われた、といわれて久しい。その代わりに台頭してきたのがこのレビューだ。カスタマーレビューはあくまで消費者の意見であって、批評ではない。今それの購入を検討している人に、購入するか否かの「参考にされる」ものなのだ。なのだけれど、僕なんかはまだレビューに評論的なものの期待を込めてしまうたちがある。
本でも例えばこういうレビューがある。
文章がだめでした。よっぽど肌に合う人じゃないと読了できないと思う。それくらい独特。
店頭で内容を確認してから購入を検討すべき本。
数年前に某純文学賞を獲った本のレビューの抜粋だ。この二行で、なんと50人以上の人が「参考になった」のボタンを押している。例えば、「なぜ文章がだめなのか」「なぜ肌に合わないのか」「なぜ独特なのか」を考えるとそれは評論になるのだろうが、レビューにはそんなこと求められちゃいないのだ。あくまでそれは、消費者の意見なのだから。
僕自身もレビューを書いている。書いていて「もちろんこれは批評ではない、批評ではないのだけれども」という、レビューには居直れないためらいがある。この「だけれども」のところで、レビューだからといってレビューに居直りたくないという逡巡があるのだ。
レビューである以上、いくら評論ぶったところで、それは同じサイトのアダルトビデオのレビューと相違ない。レビューに求められるのは、「それで抜けるか抜けないか」。読む人が見るのはおそらくそこしかないのだし、レビューの書き手にもそれ以上は求められていない。これは僕のワガママではあるけどしかし、そんなレビューでもなお、読んだ人に「このレビューよかったな」と思ってもらえる、「優秀なアダルトレビュー」はあってもいいし存在すると思う。