いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

M-1論=松本論になってしまう

お題が「テレビ」になったということで、この際聞いておきたい。
一番面白いのはやはり、ダウンタウン松本人志ということでいいか、ということを。もちろん異論は認めないが。

今年もあと12月を残すだけとなった。12月といえば、もはやお笑いフリークにとっては欠かせない年に一度の一大イベント、「M-1」の季節である。あの大会が如実にあらわしている。あの番組を視るものにとって重要なのは、出場者の繰り出す漫才のネタであると同時に、時折カメラに抜かれる真剣に審査する松本の表情だ。そしてさらに言えば、あの番組の感想として真っ先に思い浮かぶのは、自分がだれを面白いと思ったか、ということではなく、松本が最終ジャッジで誰に投票するか、ということなのである。つまり面白いのはもはや我々が主観的に面白いと思ったものではなく、松本が面白いと思い、松本の承認を得たものなのである。するとどうだろう。M-1を獲ったコンビが、はたして一番面白いということになるのかどうか。
今や優勝したコンビは次の年に、テレビ局の垣根を越えて「前年度M−1チャンピオン」として紹介され、あわよくば活躍の場を与えられる。M-1がこのように、朝日放送というローカル局の主催する小規模なコンテストにとどまらず、テレビ界全域に影響力を及ぼすことになったのはひとえに、主催者島田紳助が松本を審査員の一人に迎えたということにつきると言っていいだろう。M-1が出場者にも視聴者にも緊張感をもたらすのは、あれがもともと伝統のある大会だったからではない(その証拠に初開催は2001年だ)。審査員席に松本が座っているからなのである。

問題は、いったい「ポスト松本人志」があるのかということである。松本を超える、進化系の笑いはあるのか。彼はもう45歳であり、ほかの同年代の芸人がテレビから姿を消していったり、「飯食いタレント」と揶揄されるようになったりしているなかで、未だテレビという媒体で「お笑い」をやっている。
お笑いというのはある種のセンスであり、センスが古ぼけてしまえば、見る人を笑わせられなくなり、次第に活躍の場を狭めていくはずである。なぜ、松本はまだそこにとどまれるのか。
なぜかというとそれは、もはや我々のセンス自体が「松本的なもの」に染められてしまったからではないか。もともとは見る人の主観的なものであったはずの「面白い」という判断それ自体が、松本のセンスと分かちがたいものになってしまったのではないか。

その証拠に、確かに松本の笑いのセンスは落ちていないかも知れないが、逆に上がってもいないという気がする。今週の「ガキ使」で視る彼も、Youtubeで視る昔の彼も、余り差はない。

であるからして、「ポスト松本」がないのは当然のことだ。彼の主観によって、「面白い」を我々は判断させられているのだから。松本人志は我々にとって、笑いを与えてくれるものとして愛すべきであるとともに、決してそこから逃れられない「呪縛」のようなものとして憎むべきでもある、アンビバレントな存在なのである。