いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

神秘的な少女たちと、それに魅せられる少年たち


ヴァージン・スーサイズ [DVD]

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ソフィア・コッポラは、「ヴァージン・スーサイズ」において男女の性差にまつわる物語を―とりわけ少年少女時代のそれを―男の子の目線から再現することに成功しているように思えた。

どうしてこの映画は男によって語られるのか。おそらくそれは、男にとって女性がよくわからない存在だからだ。幼くてどこか芋っぽい男のグループと、大人びた美しき姉妹。その関係性から想起されるのは、高校時代よりもっと昔の少年少女の時代、男が何を(身長、勉強、運動・・・)するにつけても女の子に負けてしまう時代の記憶である。そのころの隣の席の女の子は、私がたとえ爆発して内臓をぶちまけたとしても、気にも留めないのではないかというくらいに周囲(男)に対して無関心だった。彼女たちの関心は全て、彼女ら自身に回収されていたような印象さえあった。その異常なまでの無関心さに男は惹かれ、自分の惨めさをも思い知る。今思えば、女性をあがめる経験とは、根本的にはこの少年少女時代が最初で最後だったのではないだろうか。

そんな少年たちにとって何が見たくないかというと、そのような憧れの神秘的な少女たちが失敗を犯すことや、貶められること、屈辱的な経験をすることだ。それ自体は少年に何の実害ももたらさない。しかし少年の中には神秘的な少女像ができていて、それが崩されるという点において実は見ているだけの彼らも傷ついている。

この映画の姉妹たちもその屈辱的な経験する。ダンスパーティでベストカップルに選ばれるという幸せの絶頂、そしてラックスは彼氏とフットボール場でついに結ばれる。その後である、どん底に突き落とされるのは。彼女が目覚めたとき、あたりは霧がかっていて薄暗い。夢心地は霧が晴れるかのように覚めていく。そして彼女と観客は同時に気づく。ロマンティックでもなんでもない。これはただの「青姦」、野外ファックじゃねぇかと。彼女が青姦された上に、男にやり捨てられてしまっただけではないか。その事実を知っているのは、見捨てた男と見捨てられた彼女、そして我々観客だけである。この映画において私たちは、知ってはいけなかった、知りたくなかったことを知るというほろ苦い経験を反復する。ラックスたちは屈辱的な経験をしたから死んだのではない。我々観客が彼女らを神秘的に仰ぐことができなくなったから死んだのである。

門限を破ったことで後に監禁されるが、それはさして重要ではない。もっとも重大なのはやはり、体を許しておいて見捨てられたことなのだ。この事実においてその神秘性は音を立てて崩れる。その神秘性がないまま、女性は生きながらえることはできない。彼女たちには自殺という選択肢以外なかったのである。「ヴァージン・スーサイズ」とは、男が引かれるそのような神秘性が消滅(自死)するという意味も込められている。

ここで疑問が残る。なぜこの女性監督は、このようにある意味「男に意地悪な」映画が撮ることができたのだろうか。
もしかすると彼女は、子供の頃男の子になる妄想をするのが趣味の女の子だったのかもしれない。