いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

小悪魔リターンズ〜ラカンが「小悪魔は存在しない」、と言ってないなら俺が言う!


コメントを寄せてくださったohnosakikoさんのエントリーに触発されて、もういっちょ小悪魔をつついてみる。
で、今一度小悪魔って何かというのを定義するために、引用させてもらう。

男の心を翻弄する女である。翻弄してやろうと考えているわけではないが、マイペースで気侭に行動する結果、そうなってしまう女のことを、「小悪魔」と言う。
『小悪魔な女になる方法』はなぜ売れたのか - Ohnoblog 2

僕の先のエントリーでもこういう人たちを小悪魔と定義して、勝手に持論をまき散らした。もともとはワークショップの課題で、1000文字という制限もあるからして、小悪魔という定義自体には触れずやり過ごしていたのであるが、どうもそこまで一面的なものでもないらしい。

男が小悪魔だと思っているのは、現実には三種類ある。
小悪魔を装うことに長けている男をいたぶりたい悪女と、小悪魔演技でもって男の恋人になろうとしている熟練の女と、若いがゆえに無防備でユルい天然女。
(同上)

ふむふむ、わかるよわかるよー(遠い目で何かを回想しながら)。
でも、ここ最近(正確には二年前ぐらいから)流行っている小悪魔、あるいは小悪魔関連本は、どうも様子が変わってきているらしい。さらに、エグイファッションや仕草による強引な男の落としかた指南をすることで有名な「小悪魔ageha」という強烈な存在感を醸し出している雑誌を入れれば、さらに事態ははっきりする。
最近の小悪魔女子というのは、男をゲットするという至極真っ当な目標のもと、小悪魔しているのである。つまり最近話題の「小悪魔」は若い(だから手練手管に長けた熟練の女ではない)が意識的に(だから天然女でもない)男を翻弄し、最終的に男をゲットする(だからいたぶりたいだけの悪女でもない)女のことなのである。
モテる男が積極的に女性を口説くのに対して、モテる女「小悪魔」はあくまで恋愛は受け身、を装う。狙った獲物を自ら取りに行くのではなく、甘いにおいでアリを誘うが如く、男を自らの元に吸い寄せる。
奇遇にも、昨日あげたエントリーでふれた「惚れたのは自分が先でも、相手に告白させるようにし向けることのできる」という、恋愛上級者のことだ。

なんだ、良心的じゃん。
だって、最終的につきあおうとしてるんでしょ。多少、意図してない獲物が捕れることもあるだろうし、他の女の彼氏を奪う略奪愛もあるのだろうけど、それらだけ目をつむれば、彼女らのやってるのは「恋する乙女のひたむきな努力」で片づけられるのではないだろうか。

いやー、よかったよかった。あとたまには僕にもそういう風に詰め寄ってくれたら申し分ないなー。それにしても、めでたしめでたし。

と思ったのだが、この小悪魔とか、あとコケットリーについて、あれやこれや考えれば考えるほど、わけわかんなくなってくるのだ。一般女子と小悪魔、その境界線はどこにしくべきだろうか?

まず自分から小悪魔だと名のる、あるいは小悪魔になりたいと思っている女性諸君。君らはええわい。気兼ねなく、小悪魔ライフを満喫してくれ。
問題は、最初にもどって「翻弄してやろうと考えているわけではないが」系の小悪魔の方だ。


現金なもので、大半の男が女を好きになるのにはコケットリーを通じて、「こいつ、俺のこと好きなのか?」という疑惑が浮上するという前提条件が必要だ。で、疑惑とはいってるものの、もうすでにこの時点でアウトなわけ。
他の種類の疑惑(「この電話の相手は本当にうちの孫か?」「この株は今後本当に高くなるか?」等々)なら、そこでクールな判断力が働く余地はあるのだろうけど、この疑惑の場合、「好きかも」の時点で舞い上がっちゃってるから、もう自分にとって都合のいいような「妄想」しか頭と体が受け付けなくなっている。疑惑が期待に変わる瞬間だ。
最初はどうも思ってないはずだったんだが、――というかどうも思ってないんなら、相手が自分を好きかどうかなんて、それこそ判断停止でいいのだろうけど――もう疑惑がふってわいた時点で相手の思うつぼ。脳内でああでもないこうでもないと自問自答を重ねていく内に、相手への好意が雪だるま式に、それはそれは軽快に斜面をころがりながら大きくなっていき、そのときには最初の「こいつ、俺のこと好きなのか?」という疑惑は遠い彼方に吹っ飛び、「相手のことしか目に入らない自分」と、いつしか立場が反転してしまっている。


しかしちょっと待て。小悪魔係女子が、プンプン振りまいているとされるコケットリー。と、書いてはみたものの、そもそもこのコケットリーをコケットリーと判定するのはだれなのだろう。そして、その判定基準は?

最近たまたま読んだ、西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』に強引に話をつなげる。

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)

その中で西垣さんは、ネットを始めとする通信の発達で情報の伝達が活発になっている現代において、人が情報をあたかも「小包」のような実体をともなったものとしてイメージ、解釈していることに警鐘を鳴らす。情報から何を読み取るかにも、各人固有のフィルターみたいなのがあって、そのフィルターを通してしかその情報を取得できないわけだ。小包の例えだと、可愛い可愛いミッキーマウスのお人形をプレゼントに送ったとしても、受け取った人はびっくり、プラスチックボムが入ってた!なんてことがあり得るわけだ、情報には。それぐらい送信者と受信者が想起する印象は異なる可能性がある。現に、メッセージの誤読で一悶着なんてのはネット、メールの世界では日常茶飯事だ。

話を戻すと、人の仕草というのも「情報」の一つであり、女性のそれを見る僕ら男子には、残念ながら「過剰な期待」や「幻想」という、それはそれはぬぐい難きフィルターがかけられているわけだ。つまり、よっぽど的外れでない限り、極端な話、女の子の仕草ってのは原理的にあらゆる仕草がコケットリーであるし、コケットリーでないといえる。

それが故に、

「小悪魔」という概念は、夢見る男の願望が女に投影された結果、生まれたものである。
(同上)

といえる。
そういうことから極論言えばね、告ってダメだったら、その相手の子は小悪魔認定していいでしょ(私怨混じりに)。すべての女性が小悪魔であり、小悪魔でない、といえるのではないか?

ちなみに小悪魔女子はいるけど、小悪魔男子はいない。なぜだ?その代わりに男には小悪党がいる(こちらは逆に女性に対しては使わない)。でもその言葉には、小悪魔という言葉に秘められたような魅力なんて一ミクロンもない。あるのは侮蔑的なニュアンスだけだ。
小悪魔男子がいないのは、彼らの仕草を受け取る女子たちのフィルターがそれはそれは透き通っているからだろう。彼女らは、間違っても、目があったという情報から、「好き」という意味を受け取らない。だからこそ、「もー、イマダ君ったら〜」と、気軽に肩をたたけるのかも知れない。