いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

今こそ観るべきSF短編映画『隔たる世界の2人』 「終わりなきループ」が意味するものとは?

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いったい何度、同じ過ちが繰り返されるのだろう?――Netflixで今月から配信され、週明けに発表されるアカデミー賞にもノミネートされた映画『隔たる世界の2人』は、わずか30分強の内容にもかかわらず、その悲痛な問いが凝縮されている。

SFの人気ジャンル「ループもの」といえるが、本作がほかの「ループもの」と一線を画しているのは、これが「SF」と言い切れないためだ。本作が描く「ループ」は、ある意味で現実と地続きだ。

 

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主人公はNYに住むアフリカ系青年。ワンナイト・ラブでよろしくやった女の子とはいい感じで、また次も会えそう。いい気分で彼女のマンションを出て、愛犬が待つ家まで帰ろうとしたとき、彼は白人警官に呼び止められる。

完全な誤解なのだが、次第に両者のやり取りはヒートアップ。ほかの警官が応援に来たことでさらに場は緊迫した空気に包まれ、彼はついに取り押さえられて地面に押さえつけられる。首を圧迫され、「息ができない! 息ができない!」と訴える中、彼は絶命してしまう。

しかし、ふと目覚めた彼は、さっきまでいた女の子のベッドの中。同じ日が繰り返され、何度そこから抜け出そうとしても、白人警官に殺されてしまう青年。どんな方法、どんな手段を試みても、最後は殺されてしまう。彼はただ、愛犬が待つ家に帰りたいだけなのに…。

 

終盤ではついに、警官と対話に成功し、相手と打ち解けたかに思えた青年。しかし、「話せばわかる」と言いながら射殺されていった宰相がいるように、そんな簡単にことが済むわけがない。本作でも、生易しい展開が用意されていないどころか、鑑賞者を絶望的な気持ちに追いやる展開が待っている。

しかし、ただ絶望させるだけでもない。最後に主人公を通して、「このループをいつか終わらせてやる」という強い意思を感じさせる余韻を残す。

 

本作が暗喩どころか、もはや直接的に言及しているジョージ・フロイド死亡事件について、今日、白人警官に有罪判決が下され、日本でも大きく報じられている。

 

「ループ」はいつか終わらせなければならない。今日こそ観るべきSF映画だ。

 

You Tubeラジオやってます】

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ラジオ史的事件「オリラジがラジオで生喧嘩」14年の時を経て舞台裏が明かされる

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毎週欠かさず聴いているABCラジオの番組『ダイアンのよなよな』2021年3月29日放送回で、歴史的事件の舞台裏が明かされていたので、半月が過ぎでしまったがここに書き留めておきたい。

 

「オリラジ生喧嘩事件」とは?

2007年8月のニッポン放送オリエンタルラジオのオールナイト・ニッポン』の生放送にて勃発したオリラジ2人のガチ喧嘩のこと。番組中、『新世紀エヴァンゲリオン』の話題で、『エヴァ』オタクの中田敦彦が、あまり詳しくない相方・藤森慎吾に対して挑発を続け、次第にヒートアップ。「このやろう」「コラァ」という怒号が飛び交う中、最終的にガチのつかみ合いに発展したようで、マイクの拾った「ボゴッ、ボゴッ」というおよそ全国ネットのラジオには似つかわしくない不穏な音と、ゴングのSEと「オ~ルナイトニッポ~ン」というこの状況には全く不釣り合いなジングルでCMに切り替わる、という一連の流れだ。

コンビ名に「ラジオ」の名を持つ2人がラジオ上で巻き起こしたこの珍事は、お笑いファン、ラジオファンの間では常識で、もはやインターネット・ミームとかしている歴史的事象である。

 

当時の放送作家がなんと「よな月」リスナーだった!

3月22日の『よなよな』にて、ダイアンの津田がこの喧嘩のくだりが好きで、たびたびその音源を聴き返していることを告白。津田による「オリラジ生喧嘩」の迫真の1人完コピがおもしろいのと、「なぜ、14年もたって今?」というおかしみも合わせて、少なからぬ「よな月」リスナーを盛り上がらせていた。

そして、このプチ「オリラジ生喧嘩」リバイバルが、「よなよな」ファンのみならず、「オリラジの喧嘩」ファンも狂喜乱舞する奇跡を起こしたのが、3月29日の放送。

なんと、「オリラジが大喧嘩をしたあの瞬間、放送作家として2人の横に座っていた」というリスナーからのメールが届いたのだった。

 

以下、メールで記されている当時の舞台裏について、箇条書きで重要情報を記しておきたい。

・2人が喧嘩する予兆は数週間前からあった

放送作家とディレクターで、生放送中に2人が険悪な雰囲気になったら「終了」という意味でゴングのSEを打ち、そのままCMに行くというルールを決めていた

・険悪になり始めてから聞こえる放送作家の「ははは」という笑い声は「今、放送中だよ」「喧嘩はなしだよ」という2人に対するメッセージのつもりだった

とくに「ゴング」と笑い声の情報は興味深い。

喧嘩の音源を聴き直してみると、「ゴング」のSE、そしてCMと、不測の事態への対処のスピードがやけに早く感じられるのだけど、これはもうそのときの対処法を裏方スタッフが決めていたことの功績が大きいのだろう。

また、笑い声については、一聞では「喧嘩がネタだと勘違いしているスタッフ」の声だとも読み取れるのだが、今回のメールで「2人をなだめようとするスタッフの必死のサイン」だったことが判明した。

とにもかくにも、14年の時を経て「オリラジの生喧嘩」の舞台裏が明かされ、「よなよな」リスナーのみならず、ラジオリスナーのめちゃくちゃテンションが上がった回なのだった。

「バスケ映画」に隠された重大なメッセージを見逃すな『ハイ・フライング・バード -目指せバスケの頂点-​​』

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「バスケットボールの映画だと思ったらなんだか難しい映画で途中で投げ出した」みたいなレビューを、本作を観た後にネットで目にしてしまった。自分の興奮に冷水を浴びせられるような気になったのだが、もしやと思って見ていくと、そうした「難解」「何が起きているのか分からなかった」というレビューが少なくない、というよりほとんどだったので、これはイカンと思ってここで書いておきたい。

 

ノーテンキな邦題もまずかったと思うのだが、本作『ハイ・フライング・バード -目指せバスケの頂点-​​』は単なるスポ根映画ではない。バスケット界隈が舞台で、主人公は新人NBAプレイヤーなのだが、彼らがバスケをプレーするシーンはほとんどない。皆無と言っていい。

 

本作はバスケットボールが舞台ではあるが、テーマはバスケではない。

舞台となるのはNBA。新人プレーヤーのエリックは、今からがっぽり稼いでやろうとしているときに、リーグがロックアウト選手会とオーナー側での収益配分の割合を巡る交渉が紛糾し、試合自体が行われなくなること)に入ってしまう。主人公はそんなエリックのエージェントのレイで、お金に困窮する自身のクライアントを助けるため、ニューヨークの街を奔走し、各所方面との交渉に乗り出す。

 

スティーブン・ソダーバーグの映画っぽい、矢継ぎ早で意味が凝縮した会話劇のため、一度見ではなかなか消化しがたいのだが、本作は「バスケットボール界」の皮をかぶりつつ、その表層の奥に、白人/黒人、雇用者/被雇用者、支配者/被支配者、そして主人と奴隷という無数の二項対立を隠している。

 

エリックは困窮し、自分自身も上司(白人だ)に疎まれ首が危ない。そんな中でレイが各所方面を当たりまくるが、なかなか策がうまく行かない。レイがそうしている間に、まだ若く未熟なエリックは挑発に乗ってしまい、同じ黒人選手同士で諍いを起こしてしまう始末。

多くのアフリカ系アスリートがスポーツ界で活躍しているが、本作が批判的に暴こうとしているのは「どんなに黒人アスリートが頑張っても彼らを支配しているのは白人だ」ということ。結局これはお金をもっている側が勝つように出来ている出来レースだ。白人は「ゲームを支配するゲーム」に興じているのだ。

ボールを追いかけまわしているのは黒人、なのに、儲かっているのは白人。なぜそんな不平等が起きるのだろう? 難解なルックの本作が問いかけるのは、実は意外とそんなシンプルな問いなのだ。

 

レイがクライマックスで繰り出す(というか匂わせただけで効果が出てしまった)「ゲームを支配するゲーム」を転覆させる秘策は痛快だ。それはテレビ放映権という超弩級既得権益を揺るがすオルタナティブであり、そして、それをネットフリックスが配信しているのが何よりも面白い。

「よくわからない難しい映画」などではない。本作は今まさに観られるべき映画なのだ。

被害者と加害者の対話 あらわになる信教者の素顔と矛盾『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』

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26年前、日本の中枢でオウム真理教が引き起こした国内初のバイオテロ地下鉄サリン事件。本作は、この事件の被害者の1人で、猛毒サリンの後遺症に今も悩まされているさかはらあつし監督が、当時の教団幹部で後継団体の広報部長を務める荒木浩氏と対話を重ねるドキュメンタリー。

映画は、お互いの故郷や、2人の母校である京大とその周辺を散策しながら、事件、教団、幼少期について会話をめぐらせる、一種のロードムービーの様相を呈している。

 

ありえたはずの「友人」として

被害者と加害者(側)の対面なのだけれど、さかはら監督は決して荒木さんを真っ向から断罪しない。むしろ穏やかに、ひょうひょうとした関西弁で、荒木さんをリードして旅を進める姿が印象的だ。

映画では描かれていないが、荒木さんをこの企画に乗ってこさせるのは、たとえさかはらさんが「被害者」という立場を使ったとしても、困難があったはず。彼の属人的な魅力も、荒木さんが心を開くきっかけになったのではないだろうか。

一方、荒木さんも荒木さんで森達也監督の『A』のカメラが捉えていたころとは、かなり印象がちがう。マスコミや警察などと相まみえる外交部門の人間ということもあってか、『A』のころはもっと血気盛んで、喜怒哀楽はっきりしていた。しかし、今回は全体的に抑制的で、さかはら監督にも終始おだやかな口調で対応する印象。これが老成したということなのか、それとも20年超の年月で何か変化があったのか。

とくに序盤は、中年男性同士の穏やかな空気が続く。観ていると、この2人、もっと違う出会い方をしていたら本当の「友人」になれていたかもしれない、と悔やまれてくる。同じ京大卒だしね。

 

“矛盾”を抱えた信心者として

さかはら監督との対話の中で、徐々に荒木さんの心が解きほぐされていくのが分かる。特に、出家に際して縁を切った家族について、『A』のときにはひょうひょうと語っていた印象だが、今回は祖母の話をしているとき、ついに涙を流し始める。「人間荒木浩」の部分は、まだ十二分に残っているのだ。

 

そうだからこそ、麻原の話になったときに「教祖」と躊躇なく呼んでしまえる荒木さんに、一度寄り添いかけた観客は、彼に対して絶望的な断絶と信教というものの根深さを感じざるを得ない。

映画中、さかはら監督が幾分声を荒らげ、説教口調になるのは常にそこである。

事件を起こしたのが教団で、指示を出したのが麻原だということは確定している。それを荒木さんは悪いことだと理解し、さかはら監督を始めとする被害者にも申し訳ないと思っている。にもかかわらず、麻原を「教祖」と呼んではばからない。ほとんどそこ一点を、さかはら監督は責め続ける。

逆から言うと、これだけ断罪されてもなお、信心を持ち続けるということは、荒木さんの中でも信じ続けていくことへの覚悟がある、ということなのかもしれない。

考えてみれば、荒木さんは出家後、自分の知らないところでサリン事件を起こされ、起きた原因や理由も知らされることないまま、教団のスポークスマンとして矢面に立たされつづけてきた。誤解を恐れずにいえば、それは“原罪”(すでに自分の知らないところで起きてしまった罪)をかぶってなお、信心を持ち続けるという、もっとも信教的な信教のあり方のようにも思えてくる。

 

映画は、冒頭でデカデカと

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

と、日本国憲法第19条を引用する。

そうだ、そうなのだ。たとえ凶悪な教団であろうと、実行犯でないかぎり、その信教の自由を何人も侵すことはできない。信じる対象を間違えたとしても、その信心そのものは否定されないことになっているのだ。

何人も侵害できない自由だということは、換言すれば、荒木さんの信教に対して、戦えるのは荒木さん自身だけということになる。

「被害者に贖わなければいけないはずなのに、教祖を崇め続ける」。荒木さんはこの話題になったとき、いつも顔が硬直する。自分の自己矛盾に対して苦しんでいることが、手にとるように分かる。これは、一人の男が自分自身と対決する途上を映し出した映像なのかもしれない。

2018年に麻原彰晃の死刑が執行され、彼の待望する答えは永遠の闇に葬られた。彼自身による彼の答えはいつかでるのだろうか。

 

オスカー最有力『ノマドランド』 が俄然観たくなってくるジャオ監督の前作『ザ・ライダー』の衝撃

ザ・ライダー (字幕版)

 

『ザ・ライダー』に衝撃を受け、がぜん『ノマドランド』に興味を持つ

今年のオスカーは『ミナリ』が『パラサイト 半地下の家族』に続いて獲るのではないかと囁かれている。しかし、ぼくの中では俄然、本邦で来週公開の『ノマドランド』への注目が高まっている。

というのも、本作でオスカーをとれば有色人種の女性として初の女性の監督賞受賞者になるクロエ・ジャオの前作『ザ・ライダー』が、良すぎたのである。圧倒された。

ノマドランド』の予習がてらで観たのではない。順番としては完全に逆で、ネットフリックスで偶然出会った『ザ・ライダー』に衝撃を受けたあと、監督したクロエについてネットで調べているうちに、今回ノミネートされている『ノマドランド』にたどり着いた次第であり、「この映画を撮った監督の映画はまた観たい」と思わされたのである。

 

舞台はアメリカ中西部のサウス・ダコタ。トレーラーハウスで父、自閉症の妹と暮らすブレイディというカウボーイの青年が主人公ブレイディだ。

いや、正確には「だった」だ。彼はロデオ中に落馬し、馬の蹄で頭蓋骨を踏み抜かれる大怪我を負った。一命はとりとめたものの、二度とロデオができないからだになってしまったのだ。

それは彼にとって死に等しい宣告だった。脚を怪我して安楽死させた馬に、彼は自分を重ねる。馬なら死ねる。では人間なら?

人生の意味を失った青年。前向きに生きようとしながら、でもそれができない、青年の苦悩が痛いほど伝わってくる。人生はまだまだ長いし、ほかにも楽しいことがあるよ、と他人は簡単にいうけれど、ロデオこそが彼の真の居場所なのだ。

映画は、ロデオのある人生を振り返り、自分の前に続くロデオのない人生に絶望するブレイディの心情を、静かにたんたんと、しかし情感を持って表現していく。

 

フィクションとドキュメンタリーのからみ合い

主人公のブレイディ・ブラックバーンを演じたブレイディ・ジャンドロー。はて、こんな俳優がいたのか。インディペンデントな映画だから、まだ無名の俳優が起用されているのかな、と思いながらググっていったら驚いた。

実はこのブレイディという青年は、俳優ではなく本物のカウボーイで、当時リサーチ中だったジャオ監督がたまたま出会い、本作の主人公に抜てきしたのだという。彼自身、演じるブレイディと同じで大怪我をして、ロデオができなくなった身だ。本作の撮影は彼が怪我から退院してほんの数ヶ月後に行われたという。彼の心情そのものが、まだリアリティを持っていた時期のはずだ。

これは「当て書き」どころの騒ぎではない。本作は演じているその人自身の人生をそのまま、劇映画に転写しようとする試みなのだ。

 

だから、初見のときは気づかなかったが、劇中でブレイディがかつての栄光、自分がロデオをしている最中の動画を見るシーンで、会場のアナウンスが選手名を「ブレイディ・ジャンドロー」と、役名ではなく本名を読み上げている。これはおそらく、本当のジャンドローのロデオをしていたときの映像なのだろう。

 

主人公に本物のカウボーイを抜てきしたことは、もちろんさまざまな効用をもたらしている。乗馬のシーンはもちろん、暴れ馬を調教するシーンにしても、俳優がアニマル・コーディネーターに習って真似るのとでは、その真実味が違う。

そしてなにより、ブレイディが切なげに馬を見つめるシーンは、もはや「演技」と思えなくなってくる。なぜなら、その切なさはきっと演じている本人も感じているからだ。まさに虚実皮膜、フィクションとドキュメンタリーの境目が消失する瞬間だ。

 

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主人公だけではない。劇中、ブレイディの家族やその周辺は、そのほとんどがジャンドローの肉親や知人がそのまま演じているという。

鑑賞していても、彼らの演技に素人っぽさや拙さは全く感じられないのだが、下記のインタビューを読むと、それはジャオ監督の手腕によるところが大きいのかもしれない。ジャオ監督は自分の描きたいこと出演者を押し付けるのではなく、まず「その出演者にできることとできないこと」を見極め、場合によってはストーリーの方を書き換えていく、という柔軟な姿勢で臨んでいたのだという。

 

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本作と並べて『ノマドランド』が共通しているのは、ヒロインのフランシス・マクドーマンド以外、そのほとんどのノマドの登場人物を演じているのは、実際のノマド暮らしの人々だという点だ。この点で『ザ・ライダー』と同じ期待が持てるわけだ。


「男らしさ」からの降り方、身の振り方

映画はカウボーイの青年を通して、「男らしさ」への身の振り方のオルタナティブを描こうともしている。

父親はろくに働かないし、障害を持つ妹はまだ10代。このままではトレーラーハウスを追い出されてしまうと危機感を抱いたブレイディは、スーパーマーケットで働きはじめる。

一度はロデオをきっぱり辞めて、新しい人生を生きると決めたはず。

しかし、ロデオをしていた頃の彼の勇姿を知る周囲の人間たちは、無邪気にも「いつ復帰するんだ?」「いつ帰ってくる?」「諦めるなよ」という言葉を彼に投げかけていく。

「夢を追い続けること」「負けないこと」「変わらないこと」、それらは既存の「男らしさ」の規範だった。

ブレイディーは、もうロデオは出来ないと分かっていながら、周囲の声に引き戻されるようにして、またロデオに戻っていく。

 

この映画を観ていて、ダーレン・アルロフスキー監督の『レスラー』を思い出した人も多いのではないだろうか。

 

ミッキー・ローク演じるロートルレスラーが主人公のこの映画も、プロレスという生きがいを取り上げられ、もがき苦しむ男の姿を描いていた(そして、つまらなそうに働く転職先は『ザ・ライダー』と同じスーパーマーケット!)。

そのあまりにもヒロイックな結末には、そうした従来の「男らしさ」が凝縮されていた。

ぼくもあの映画に感動した口であるが、本作『ザ・ライダー』は結末において、そうした「男らしさ」に別れをつげて、ある種の希望とオルタナティブを体現する。

本当の「男らしさ」とは一体なになのか。映画はその結末を控えめに、でも力強く訴えかけてくる。

“実力主義の皮を被った前例主義” 韓国映画『野球少女』が描く差別の構造

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韓国ドラマ『梨泰院クラス』にて、トランスジェンダーの美少年・ヒョニ役を演じた女優イ・ジュヨンが、プロ野球選手を目指す女子高生を演じる、『野球少女』を観てきた。

 

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この予告編を観てからの「多分こういうのだろうな」という予想からほとんど外れなかったけど、それでもよかった。

 

女性差別」とひとえに言ってもさまざまあるが、本作が描くのは「実力主義の皮を被った前例主義」との戦いだ。


女性ということで、プロ野球のトライアウトを受けることも拒絶されるヒロインのチュ・スイン。

実力を見られた上で落とされる(実力主義)なら話はまだわかる。しかし、彼女は実力を見てもらう場にすら上がらせてもらえない。それは、彼女がプロ野球選手に不適格かどうかではなく、「女性はプロ野球選手が今までいなかったから」という前例主義にほかならない。

 

きっと最初の最初は、「『女』はプロ野球選手になれない」という、体力や体格のことを考えて、誰しもが考えてしまう「憶測」にすぎなかっただろう。もしかしたら、実際にプロ野球選手になろうと挑戦して、「実力」で敗れさった者もいたかもしれない。

しかし「『女』はプロ野球選手になれない」という「前例」は、長い年月を経て塵積っていくと、それはいつしか固くて厚くてやっかいな「前例主義」の根拠に利用されてしまう。

スポーツという能力主義の世界のはずなのに、いつしか「女はプロ野球選手になれない」は「女“だから”プロ野球選手にはなれない」という差別に変わっていくのだ。

 

スインは、その壁に実力をもってして風穴を開けようとするヒロインだ。

 

彼女の思いはずっと一貫ている――プロ野球選手になりたい。そして、なれるかどうかは投げる球を見て判断してほしい。

「私が女かどうかは長所でも短所でもないです。私の短所は球速が遅いこと。長所は球の回転数が多いことです」というセリフにハッとさせられた。

スインには、「女だから」の甘えも、「女だけど」の気負いもない。ただただ野球が好きで、プロになりたいのだ。

 

道がないならば作ればいいし、作った道を辿ってきっと仲間が付いてきてくれる。新入生の中に女子部員がいることを知って、恥ずかしそうに笑みを浮かべる彼女が忘れられない。

平穏でとりとめのない、でもかけがえのないアイツとの日々。『パドルトン』が描く“親友”のオルタナティブ

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今日はネットフリックス映画『パドルトン』を紹介したい。

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冒頭の医師との会話なども含め、アレクサンダー・ペインの映画のような、全編ちぐはぐな会話が笑えるコメディーなのだけど、観終わったら胸がいっぱいになるような、不思議な映画だ。

 

主人公はマイケル、アンディーという2人のみすぼらしい独身おじさん。2人が知り合ったのは、偶然にすぎない。アンディーが住んでいるアパートの真下にマイケルが引っ越したてきたのだ。

しかし、よほど気が合ったのだろう。2人は休日になると寂れたドライブイン・シアター跡地の壁に向かって「パドルトン」というスカッシュにような謎の球技(これについては深く調べないで映画を観たほうがよい)で汗を流したり、マイケルの部屋に集まってピザを片手に(たぶん)くだらないB級カンフー映画『殺人拳』を鑑賞したりする。夜になると、アンディーは冷え切ったピザをもらって自室に帰っていく。それの繰り返しだ。

何か刺激的で新しいことが起きるでもない。日常のとりとめのない出来事を共有し、あーでもないこーでもないと語り合う日々。でも、その平凡な毎日が楽しいんだよな。分かるよ。

 

しかし、あるときマイケルに転機が訪れる。末期がんで余命が半年であることが分かるのだ。

余命半年を切った者には、安楽死するためのピルが買える権利があるという。マイケルは、そのピルが買える街まで一緒に来てほしい、とアンディーに頼む。

思いの外さっぱりした様子のマイケルに比べて、静かに、でも確実に動揺しているアンディー。ことあるごとに、マイケルをピルから遠ざけようとする。直接言葉にはしないけれど、その気持ちが痛いほど伝わってくるアンディーの姿に、たまらなく切なくなってくる。

 

観ていると、2人の関係性がうらやましくなってくる。2人はときに大の親友のように、恋人のように、夫婦のように、じゃれ合い、喧嘩する。途中で立ち寄った場所でゲイ・カップルと勘違いされて、「いや、そういうんじゃないんです…。別にゲイの人を差別しているんじゃないんですけど、僕たちは違うくて…」と否定するバツの悪い感じも、どこかほころんでしまう。

 

マイケルとアンディーを簡単に「親友」だとか「ブラザーフット」と呼んでしまうと、どこかちがう気もする。

 

マイケルとアンディーの関係は、 

チング 永遠の絆

 

こういうのや、

 

Brotherhood

こういうのでもない。

ましてや、大勢でジャンプ漫画の真似事をして後ろ姿で片腕を突き上げたり、砂浜で一斉にジャンプしたりした瞬間を写真に収め、それをSNSのヘッダーにするような華やかなものでもない。 

マイケルとアンディーの、あくまでも平熱で穏やかな関係性は、それらの熱苦しい部類のそれとは少し違う、親友という在り方のオルタナティブを提示してくれる。 

 

2人の着ている服はダサいし、お金もそんなにはなさそう。仕事もまあ、楽しくはなさそう。劇中を見る限り、申し訳ないがどうやら異性にもモテてはいないようだ。

でも、本当はそれらのことはどうでもいいのかもしれない。人生に大切なものなんて実はそんなに多くはなくて、この2人はまさにそれを手にしたのだ。この関係性そのものを。

 

ぼくの人生に親友がいたことはない。作らないと固く決めたわけではない。フツーに人望がなかったのだろう。

彼らを観ていると、親友もいいもんだなと思う。

でも、1人好きのぼくはきっといつか親友さえも疎ましくなってくるのだろうな。相手が親友なのに最低なヤツだ。だから、こうした映画を観て親友欲を満たせればそれでいいのかもしれない。