いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

オスカー最有力『ノマドランド』 が俄然観たくなってくるジャオ監督の前作『ザ・ライダー』の衝撃

ザ・ライダー (字幕版)

 

『ザ・ライダー』に衝撃を受け、がぜん『ノマドランド』に興味を持つ

今年のオスカーは『ミナリ』が『パラサイト 半地下の家族』に続いて獲るのではないかと囁かれている。しかし、ぼくの中では俄然、本邦で来週公開の『ノマドランド』への注目が高まっている。

というのも、本作でオスカーをとれば有色人種の女性として初の女性の監督賞受賞者になるクロエ・ジャオの前作『ザ・ライダー』が、良すぎたのである。圧倒された。

ノマドランド』の予習がてらで観たのではない。順番としては完全に逆で、ネットフリックスで偶然出会った『ザ・ライダー』に衝撃を受けたあと、監督したクロエについてネットで調べているうちに、今回ノミネートされている『ノマドランド』にたどり着いた次第であり、「この映画を撮った監督の映画はまた観たい」と思わされたのである。

 

舞台はアメリカ中西部のサウス・ダコタ。トレーラーハウスで父、自閉症の妹と暮らすブレイディというカウボーイの青年が主人公ブレイディだ。

いや、正確には「だった」だ。彼はロデオ中に落馬し、馬の蹄で頭蓋骨を踏み抜かれる大怪我を負った。一命はとりとめたものの、二度とロデオができないからだになってしまったのだ。

それは彼にとって死に等しい宣告だった。脚を怪我して安楽死させた馬に、彼は自分を重ねる。馬なら死ねる。では人間なら?

人生の意味を失った青年。前向きに生きようとしながら、でもそれができない、青年の苦悩が痛いほど伝わってくる。人生はまだまだ長いし、ほかにも楽しいことがあるよ、と他人は簡単にいうけれど、ロデオこそが彼の真の居場所なのだ。

映画は、ロデオのある人生を振り返り、自分の前に続くロデオのない人生に絶望するブレイディの心情を、静かにたんたんと、しかし情感を持って表現していく。

 

フィクションとドキュメンタリーのからみ合い

主人公のブレイディ・ブラックバーンを演じたブレイディ・ジャンドロー。はて、こんな俳優がいたのか。インディペンデントな映画だから、まだ無名の俳優が起用されているのかな、と思いながらググっていったら驚いた。

実はこのブレイディという青年は、俳優ではなく本物のカウボーイで、当時リサーチ中だったジャオ監督がたまたま出会い、本作の主人公に抜てきしたのだという。彼自身、演じるブレイディと同じで大怪我をして、ロデオができなくなった身だ。本作の撮影は彼が怪我から退院してほんの数ヶ月後に行われたという。彼の心情そのものが、まだリアリティを持っていた時期のはずだ。

これは「当て書き」どころの騒ぎではない。本作は演じているその人自身の人生をそのまま、劇映画に転写しようとする試みなのだ。

 

だから、初見のときは気づかなかったが、劇中でブレイディがかつての栄光、自分がロデオをしている最中の動画を見るシーンで、会場のアナウンスが選手名を「ブレイディ・ジャンドロー」と、役名ではなく本名を読み上げている。これはおそらく、本当のジャンドローのロデオをしていたときの映像なのだろう。

 

主人公に本物のカウボーイを抜てきしたことは、もちろんさまざまな効用をもたらしている。乗馬のシーンはもちろん、暴れ馬を調教するシーンにしても、俳優がアニマル・コーディネーターに習って真似るのとでは、その真実味が違う。

そしてなにより、ブレイディが切なげに馬を見つめるシーンは、もはや「演技」と思えなくなってくる。なぜなら、その切なさはきっと演じている本人も感じているからだ。まさに虚実皮膜、フィクションとドキュメンタリーの境目が消失する瞬間だ。

 

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主人公だけではない。劇中、ブレイディの家族やその周辺は、そのほとんどがジャンドローの肉親や知人がそのまま演じているという。

鑑賞していても、彼らの演技に素人っぽさや拙さは全く感じられないのだが、下記のインタビューを読むと、それはジャオ監督の手腕によるところが大きいのかもしれない。ジャオ監督は自分の描きたいこと出演者を押し付けるのではなく、まず「その出演者にできることとできないこと」を見極め、場合によってはストーリーの方を書き換えていく、という柔軟な姿勢で臨んでいたのだという。

 

seventh-row.com

 

本作と並べて『ノマドランド』が共通しているのは、ヒロインのフランシス・マクドーマンド以外、そのほとんどのノマドの登場人物を演じているのは、実際のノマド暮らしの人々だという点だ。この点で『ザ・ライダー』と同じ期待が持てるわけだ。


「男らしさ」からの降り方、身の振り方

映画はカウボーイの青年を通して、「男らしさ」への身の振り方のオルタナティブを描こうともしている。

父親はろくに働かないし、障害を持つ妹はまだ10代。このままではトレーラーハウスを追い出されてしまうと危機感を抱いたブレイディは、スーパーマーケットで働きはじめる。

一度はロデオをきっぱり辞めて、新しい人生を生きると決めたはず。

しかし、ロデオをしていた頃の彼の勇姿を知る周囲の人間たちは、無邪気にも「いつ復帰するんだ?」「いつ帰ってくる?」「諦めるなよ」という言葉を彼に投げかけていく。

「夢を追い続けること」「負けないこと」「変わらないこと」、それらは既存の「男らしさ」の規範だった。

ブレイディーは、もうロデオは出来ないと分かっていながら、周囲の声に引き戻されるようにして、またロデオに戻っていく。

 

この映画を観ていて、ダーレン・アルロフスキー監督の『レスラー』を思い出した人も多いのではないだろうか。

 

ミッキー・ローク演じるロートルレスラーが主人公のこの映画も、プロレスという生きがいを取り上げられ、もがき苦しむ男の姿を描いていた(そして、つまらなそうに働く転職先は『ザ・ライダー』と同じスーパーマーケット!)。

そのあまりにもヒロイックな結末には、そうした従来の「男らしさ」が凝縮されていた。

ぼくもあの映画に感動した口であるが、本作『ザ・ライダー』は結末において、そうした「男らしさ」に別れをつげて、ある種の希望とオルタナティブを体現する。

本当の「男らしさ」とは一体なになのか。映画はその結末を控えめに、でも力強く訴えかけてくる。