いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

マヂカルラブリーに優勝もたらした『M-1』の変化 構成力から“文脈”の時代へ?

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史上まれに見る3票、2票、2票という僅差の激闘を制し、マヂカルラブリーが優勝を掴み取った『M-1グランプリ2020』。

ファイナルステージだけではない。決勝1本目の1位おいでやすこがと、最下位東京ホテイソンの点差はわずか41点。審査員7人の同大会では最小得点差というのは、10組の実力がより拮抗していたことの証拠だろう。

今回は、実力伯仲だった今大会を振り返りたい。

iincho.hatenablog.com

 

和牛不在がもたらした意味

出場者がマスクを取るところを集めたあのアツすぎるオープニングVTRの意味や、もっといえばドラマの数々があった敗者復活戦から語りたいことは山程あるのだが、まず大きな山として一つ言えるのは、和牛不在が今大会にもたらした意味だ。

思わずあっと声を上げてしまうような、畏怖の念ほど抱いてしまうほどの構成力の妙。4分にかけて入念に積み上げられていく笑いの厚み。「これは和牛の漫才だ」と分かっていても、毎回その期待を容易に超えていく圧倒的なクオリティに、熱心なファンでなくても毎年のように驚嘆していたと思う。

ここ数年、間違いなく『M-1』は和牛を中心に回っていた。システムやセンスボケ、ツッコミのワードセンスといったものはありつつも、和牛がそこにいるからこそ、伏線の貼り方や最後に向かって盛り上がっていく「構成力」に期待してしまう。

そして、そのトレンドが最高潮にまで高まったのが昨年、ミルクボーイの優勝で終わった2019年大会で結実したように思われる。

そのピークを迎えた翌年の今大会に和牛の姿はいなかった。大会途中で敗れ去ったのではない。エントリー自体していなかったのだ。その不在が、これまでネタの展開や構成力に向けられた視点を、別のなにかに向けさせたのではないだろうか。

 

代わりにせり上がってきた“文脈”を楽しむ視点

それでは、ネタの展開や構成力の代わりに、どういう要素が浮上してきたのか。それは、お笑い芸人一人ひとりの「生き様」といえるのではないか。言い換えるならばそれは、個々のお笑い芸人の因縁、あるいは“文脈”というべきものだ。

 

例えば、優勝したマヂラブは2017年に続いて決勝は2度目。前回も今回同様、ボケの野田クリスタルが、ツッコミの村上と没交渉ぎみにひたすらボケまくるネタだった。

これが審査員の上沼恵美子の口に合わず、怒られたことは周知の事実だ。今回は「かつてM-1で上沼に怒られたかわいそうな人達」という文脈が共有されていたからこそ、決勝1本目のネタ「高級フレンチ」を披露する際、せり上がってきた野田が土下座していたことや、「どうしても笑わせたい人がいる」という掴みで会場は爆笑に包まれた。

 

では、怒られたという2017年の「ミュージカル」のネタはいったいどうだったのか。「ミュージカル」より、今回の「高級フレンチ」がはるかに面白かったのか。そんなバカバカしい問いもない。なぜなら「ミュージカル」が面白いという人は「高級フレンチ」も面白いだろうし、「ミュージカル」がつまらないという人は「高級フレンチ」もつまらないだろう。

つまり、マヂカルラブリーは何も変わっていない。変わったのは彼らの“文脈”を共有したオーディエンスの側だった。

 

「高級フレンチ」(ネタを知っているとこのタイトル自体が笑えるのだが、実は昨年2019年大会の敗者復活戦ですでに披露されている)は、構成的には不安になるほどオチ前で失速してしまうのだが、それでも無理やり最後までやりきってしまう。

 

和牛は“文脈”を必要としなかった

ここであえて比べることを許してもらえるならば、和牛は不思議なほど“文脈”を必要としなかった。

毎回優勝をあと一歩のところで逃すという悲劇性を帯びているはずなのに、いざ彼らのネタが始まると、観客を世界に完全に引き込んでしまい、「ネタそのもの」以外に目を向けさせようとしない。

彼ら2人の理知的でスマート、泥臭さと無縁の佇まいも相まって(ただ、本人たちは「苦労知らず」という世間のイメージに軽く不満を持っていることはかつてラジオで語っていたのだが)、来歴不明な不気味ささえただよっていた。

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それぞれが回収できた、回収できなかった“文脈”たち

ここ3年ほど、初出場組が目新しさと勢いを味方につけて、和牛を始めとする常連組から優勝をもぎとっていった印象だが、今回に関してだけ言えば、決勝を戦った10組の雌雄を分けたのはこうした“文脈”の強度の差だったように思われる。

ニューヨークは、昨年の大会で松本人志から言われた「楽しそうにツッコむ」問題を決着させるという“文脈”を背負って帰ってきた。さらに、「トップバッターで、しかも歌ネタ」という不本意な形で挑むことになってしまった昨年に対して、今年は3番手というまずまずな順番から、「これぞニューヨーク」というブラックなネタをぶつけられた。

また、ピン芸人で作ったコンビとして決勝初進出となったおいでやす小田、こがけんからなるおいでやすこがは、つい数週間前に突然のレギュレーション改定で「R-1」という「故郷」から締め出された悲劇性を帯びていた。

ぼくが一番印象的だったのは、敗者復活から返り咲いたインディアンスの“文脈”だ。昨年初出場で8番手という絶好の順番ながら、ボケの田渕章裕がネタを飛ばしてしまうなどもあり、下位に沈んだこのコンビ。その後悔をずっと引きずったこの1年だったと推察されるが、敗者復活、決勝を含めて、彼らが一番楽しそう漫才をしていた。これまで個人的には、田淵のボケが先走りすぎており、ツッコミのきむと噛み合っていないという印象だったのだが、この日、特に敗者復活戦のネタはがっちり噛み合っていた印象だった。

 

一方、決勝で苦戦した様子だったのは東京ホテイソン。ボケのショーゴ考えオチのようなボケに対し、貯めに貯めたタケルが大見得を切るように激しくツッコミを爆発させるスタイルの2人なのだが、決勝にたどりつくまでに少し熟成しすぎてしまった。

数年前までの「親ポムポムプリンだろ!」とバカバカしくツッコんでいたころに決勝に行けていたならば…もしくは、今回も1本目で「親ポムポムプリンだろ!」系を、2本目で今回のネタをしていたら…とタラレバが止まらない結果になってしまった。

ぼくが最も応援していたウエストランドにもいくつもの“文脈”があったが、それが広く共有されていなかったことが致命的だった。例えば、“いぐちんランド”事件がもっと世間的に大問題になっていたら、準決勝までと同様にネタに組み込めていただろう。ただ、それができないほどの絶妙に微妙な知名度だったのが痛かった。

一点、松ちゃんがある程度評価していた(と言っても点数は上から6番目だったが)のがうれしい誤算。よくよく考えてみれば『チキンライス』を作詞した人に「お笑いは今まで何もいいことのなかった奴の復讐劇なんだよ!」のキラーフレーズが響かないわけないか!

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一つの“文脈”が終わり、また新たな“文脈”が始まる

素敵だと感じたのは、今大会で優勝候補の一角に挙げられながら8位に沈んだアキナだ。本来は相当ショックだったはずなのに、敗退決定直後から、優勝候補に挙げられながら微妙な結果だったということをすかさずネタにする「恥ずかしい漫談」を次々と繰り出していた。

毎回、勝者の歓喜する姿以上に、敗者たちの佇まいで「お笑い芸人って素敵だな」と思わせてくれるこの大会。

悲しみを笑いに変えながら、また走り出す。M-1が終わり、回収すべき“文脈”が今始まったばかりだ。

M-1グランプリ2020優勝予想、ムリ!! でもあえてするならば…

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ここまでダラダラ先延ばしにして書きそびれていたのだけれど、準決勝の1日限定配信でなけなしの3000円を吉本興業にお布施させていただいた人間として予想させてもらいたい。

 

とはいいつつも、今年は予想が本当に難しすぎる。

昨年は予選を観ていたらミルクボーイがドカンドカンウケるのはある程度は予想できたのだけれど、今年はあそこまで突出したコンビがいないので、かなり予想が難しい。

ここまで拮抗していると、笑神籤(ネタ披露順は当日の生放送中にクジで決めるルール)次第になってくるため、栄冠を占うのはハードモードすぎるのである。


近年は、「ネタ×ネタ順×新規性」の4つが全部カチッとハマったコンビが優勝する気がするのだけれど、それにしても不確定要素が多すぎる。

 

ただ、これとは別で、もう一つ、M-1優勝に必要な要素があると思う。

それはデカイ一発だ。

そういう点で、決勝進者の中で今日、六本木に一発デカイ花火を打ち上げそうなのは、今回2回目の決勝進出となったオズワルドだと感じた。昨年は決勝7位に終わったのだけれど、衝撃的だったミルクボーイの直後、焼け野原になっていたステージ上でむしろ善戦したほどだろう。

今年はシュールな世界観、巧みな構成はそのままに、ツッコミ・伊藤のワードセンスがさらに研ぎ澄まされており、昨年よりウケたときの笑い声が大きかった印象。決勝の舞台でドカンドカンウケている絵が想像できるんだよなあ…。

 

というわけで、

 

ネタ順が良ければ

オズワルドの優勝と予想したい。

 

一方、オズワルドがまさかのトップや、まだ会場があったまっていない序盤を引いてしまう展開も十分予想できる。その場合の予想も披露しておきたい。

 

ここ数年の傾向を見ると、やはりM-1は新規性がかなり重要なファクターであるのは否めない。

そういう意味で、初出場の東京ホテイソンウエストランド、錦鯉、おいでやすこがの4組になる。

 

この中から、会場の空気にハマり、デカい一発を持っていそうなのは、東京ホテイソン、おいでやすこがの2組に絞られると思う。さらにそこから1組に絞るとするならば…。

おいでやす小田、こがけんというピン芸人2人からなる異色コンビ、おいでやすこがを推したい。

ピン芸人が作ったコンビでの優勝は初めて、ということなので、「予想がまったくできなかった1年」「前代未聞の1年」を明るく締めくくるという意味でふさわしいのではないだろうか。

 

というわけで、

オズワルドのネタ順が悪かったら

おいでやすこがが優勝する、と予想したい。

 

ということで、話を総合すると今年のM-1王者は、

先ほどの敗者復活戦中にボケで「国民最低!」と叫んだのが何かの間違えでツイッタートレンド入りしてしまって、現在絶賛やばい政治系アカウントを呼び寄せ中のランジャタイが、何かの間違いで勝ち上がって劇的優勝!と予想します!!!(出来立てホヤホヤのネタ)

祝M-1初の決勝! ウエストランドが愛される理由

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今年の『M-1グランプリ』決勝進出9組が発表された際、驚きとともに祝福の声、その人数はともかく、熱量がひときわ高かったのが、タイタン所属、岡山県津山市出身の井口浩之、河本太からなるウエストランドに対してだったと思う。 

 驚き、喜んでいるファンの多くが、「応援してたけど、まさか本当に決勝いくとは思わなかった」という心境だったのではないだろうか。個人的には、とろサーモンが決勝に行ったときの心境に近い。とろサーモンについてはその上に「応援してたけど、まさか本当に優勝するとは思わなかった」が乗っかるのだが。

 

ウエストランドが愛され、ここまで決勝進出を待望されていた理由はなんだろうか考えてみる。

ここまで、なかなか陽のあたる場所に出てこられたなかったことはあるだろう。2011年、芸歴4年目にし『笑っていいとも!』の準レギュラーに抜てきされ、かなり順調にキャリアを進んでいるようにみられたが、チャンスを掴みきれぬまま番組は終了。

その後、『THE MANZAI』をはじめ主要な賞レースは全て決勝に行く寸前で敗退しており(井口についてはピンで出場した『R‐1』敗者復活戦で“2位”になった)、今回の『M-1』が正真正銘の初ということもあるだろう。

これまでのウエストランドの主戦場はお笑いライブシーンだ。ライブファンからしたら、彼らがついに『M-1』決勝という超大舞台に立つ、というのは感慨深いのかもしれない。

 

しかし、「決勝に初めていけたから」という理由ならば、今年についてはおいでやすこが、東京ホテイソンや錦鯉だってそうだ(もちろん、これら3組への祝福の声はSNS上で多く見られた)。もっといえば、ファンに愛されながらも決勝の舞台を一度も踏めないまま、結成年が経過したコンビが大半だ。苦節○年なんて、M-1では珍しくない。

 

ウエストランドは特殊である

ウエストランドが愛される理由は、その漫才ネタの中にちゃんとある。 

ウエストランドの芸風は、ほかの8組全組と分かつ点が1点だけある。いうならば、ウエストランドのネタは、ウエストランドそのものなのである。

コント漫才しゃべくり漫才、システム…漫才にさまざまな種類、手法があるが、多くのお笑いコンビ、トリオについていえる共通点が1つある。それは「人」と「ネタ」に乖離がある、ということ。

どんな漫才師も、本当に「タクシー運転手になりたいから相方にお客さん役をやってほしい」わけでも、「おかんが好きな朝ごはんの名前を忘れたから一緒に思い出してほしい」わけでもない。それはあくまでも、「ネタ」上の設定である。

 

ウエストランドほど、「人」と「ネタ」の乖離がないコンビもなかなかない。それは、あえてジャンル分けするならば、ツッコミ・井口の主張である。ウエストランドのネタは、ウエストランド、というか井口そのものなのだ。

彼らのネタには、若手お笑い芸人が持つ貴重な資産「モテない、売れない、金がない」を燃料にした、「妬み、嫉み、僻み」というルサンチマンが濃縮されている。

ややぽっちゃり気味でのんびりマイペースそうなボケの河本、小柄で神経質そうなツッコミの井口。まずこの時点で「漫才コンビ」としてのコントラストが見事。ネタが始まると、イメージ通りのんびり飄々とボケていく河本に、早口で井口がツッコんでいく。

しかし、終盤ターボがかかってくると、河本はまるで壁打ちの壁のようになっていき、目の飛んだ井口が1人でひたすら早口でまくしたてる状況に。「ツッコミが実はボケというシステム」というようなカッコいいものではない。「本当にヤバい奴は井口の方だった」ということが発覚するただのドキュメンタリーだ。 

しかし井口が放つ言葉には一定の理もあり、誰もが一度は思ったことがあるような感情、心の叫びであり、だからこそこの異常者の言葉は共感をも呼ぶ。

 

ウエストランドのネタについては、決勝進出が決まったあと初のウエストランド公式YouTubeチャンネル『ぶちラジ!』にて、井口自身が下記のように述べていることからも分かる。

(準決勝の出番順は)前半だったしね。思い切ってやるしかないということで、本当に言いたいことを全部言って、めちゃくちゃ言ったことが(よかったと思う)。
M-1』って「これ言っちゃダメ」「こういうネタやっちゃダメ」っていうなんとなく都市伝説みたいなのがあるじゃないですか。そういうのを取っ払って、開き直って言いたいことを言えばいいやっていうのが、いい結果につながったんじゃないでしょうか。

ここで注目すべきなのは、井口自身がネタを「言いたいこと」と評していることだ。「面白いこと」であることは大前提だろうが、それとともに、ウエストランドのネタは「井口の言いたいこと」の集積なのだ。

このYouTubeではさらにこの後、決勝進出を祝福するリスナーからの「キラキラした人生を送ってきたヤツらに決勝の舞台で復讐する姿を楽しみにしています」というややネタっぽいメールにも、井口が「お前ら、俺を利用して発散すんな(笑)」とツッコむ。「復讐すること自体は否定していない」のだ。

 

ウエストランドは“ピュア”である 

 「妬み、嫉み、僻み」をパンパンに詰め込んだネタであり、そういう意味では陰湿な芸風、と言えるかもしれない。

しかし、ここまで発想、構成、センス、システムが進化しききってしまった現在の漫才文化において、「言いたかったことを言い、帰っていく」という驚くべきシンプルさ! それはさながら「未成年の主張」に近く、一周回って誰よりもピュアなのではないか、とさえ思えてくる。

 

ウエストランドはすでに流出している

さらに井口の人間としての面白さに追い打ちを、もとい拍車をかけているのが、昨年発生したいわゆる「いぐちんランド」騒動

いまさら過去のことをほじくり返すのも野暮なので詳しくは書かないが、ファンを騙る女性からSNSで送られてきた裸の写真に応え、自らの局部の写真さらには動画を送り返したところ、すぐさまその写真がネット上に晒された、という騒動のことだ。この件で相当精神的ダメージを食らった井口は、人としての陰影もより濃くなったと感じる。

とろサーモンの久保田と同様に、“生き様”そのものが面白い。背負っているものが他の出場者とは違うのだ。

 

ウエストランドはフリートークもある意味ヤバイ

M-1』といえば、ネタ披露後の出場者と、審査員ら&司会・今田耕司との絡みも注目ポイントの一つだ。ウエストランドについて、ここでは今度は河本の方が注目だ。ボケ、というより、ただのお笑いファンで、フリートークが上手くできず、毎回、意味不明のボケを繰り出しては会場の温度を見事にネタ前に戻す河本。

岡山の山の奥から出てきた輩のような風体だが、一応プロのお笑い芸人として変に場なれしている分、余計にたちが悪い河本と、松本人志上沼恵美子ら並み居る審査員らとの絡みが今から楽しみすぎる。

 

斬新なシステムがあるわけでも、キレッキレのセンスがあるわけでもない。愚直なスタイルのウエストランド。優勝できるとしたら、おそらく初見ブーストがかかる明日が最初にして最大のチャンスだと思われる。

ちまたでは「人を傷つけない笑い」が流行りのようなのだが、優勝してまたお笑いのトレンドを醜く捻じ曲げてくれることに期待したい。

Aマッソ、どこにもハマれないカッコよさ

M-1に比べると、キング・オブ・コントについては毎年、優勝者が決まっても「お、おう…」というなんとも言えない感情になりがちだ。全く反対とは思わないけれど、「これでいいのか?」という気持ちが常に付きまとう。

それは、コントのネタの比較すべき共通項が、漫才のそれより遥かに少ないことに由来していると思う。

例えるなら、象がその怪力を披露した後にネズミが出てきてその素早さを披露しているみたいなところがある。それで、象とネズミどっちがいい? と言われても比べようがない。審査が結局好き嫌いになってしまうのも分からなくもない。

という意味では、キング・オブ・コント以上に、結果についてなんとも言えなくなるのは、漫才、コントのくくりもないTHE Wというわけで。今どき性別で区切るコンテストなんて…とは思いつつ、今年も仕事しながらダラダラ観てしまいました。

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THE W公式サイトより

終結果についてはここまで書いてきたとおり、肯定でも否定でもなく、「おお、そ、そう来たか…」としか思えなかったけど、群を抜いて印象を残したのは、タイトルのAマッソだ。

一番おもしろかったかは分からない。しかし、一番カッコよかったのはAマッソ。それは間違いなかった。

ネタについては実際に見てもらった方が早いが、あえていうならば、紹介映像で加納が「他の賞レースではできないネタ」と話していたとおり、分類不可能なネタだった。これは漫才と呼べばいいのだろうか? それとも漫才風コント? 分からない。

両方のファンに怒られるかもしれないが、観ている最中に「パフュームみたい」と思ってしまった。これはお笑いパフュームだ! と。

 

なお、不勉強なもので、彼らは今年に入ってから映像ネタに力を入れていた、ということで、今回が初出ではないことは戦前のインタビューですでに語られていた。

news.yahoo.co.jp

2人のネタが始まったときに不思議な感動を覚えたのは、審査員席にアンガールズ田中卓志が座っていたからだ。

以前、偶然見つけたAマッソの公式YouTubeチャンネルで、同じナベプロの先輩である田中が講師として出演していた。それは田中が、才能があるのにテレビに一向にフィットしようとしない、丸くなろうとしない2人に対してこんこんと説教する内容だった。

www.youtube.com

その内容はあまりにも論理的かつ実践的(『ゴッドタン』の「勝手にお悩み先生」の回を見れば言うまでもない)で面白かったのだけれど、それに対して当のAマッソはヘラヘラと受け流している印象だった。

 

自己流を貫き尖り続けるべきか、与えられた場所にフィットしていくべきか――THE Wの舞台で2人が見せたのは、そのどちらでもなかった。

尖りを洗練させつつ、なおかつ大衆を魅了する――それが今回Aマッソがネタで出した答えだったのではないだろうか。新しいことを追求しつつ、ウケようとする第三の道を模索したのだ。

ネタの見た目(プロジェクターの映像が2人の顔に被る瞬間は、何かのMVのようにカッコよかった。もはやお笑いのビジュアルじゃねえ…!)もさることながら、芸人としての生き様が垣間見れて、あまりにもカッコよかったのだ。

 

それを田中の目の前で披露する、という笑いの神様が用意した劇的な展開!

田中がAマッソではなくゆりやんレトリィバァに票を入れたのは、それはそれで一つの意見である。勝負は水物。もしもう一回同じシチュエーションだったならば、結果は逆だったかもしれない。

Aマッソは決勝初挑戦のTHE Wで優勝できなかった。しかし、与えられた場所にハマれない彼らが、ハマれないままに自分を貫いたカッコよさがそこにあった。

北欧の子供部屋おじさん、“男らしさ”と縁を切る! 『好きにならずにいられない』

好きにならずにいられない(字幕版)

 本邦でも「子供部屋おじさん」という言葉が、差別的なニュアンスで流通しているが、どうやら状況は遠い北の国でもそう違いはないらしい。アイスランド発の映画『好きにならずにいられない』は、43歳の独身童貞男が主役のラブコメディ。

 

主人公は、空港の荷物係として働くフーシ。彼女がいなければ恋愛経験もない、43歳の独身男だ。

 

興味深いのは、遠い北欧アイスランドが舞台の映画なのに、日本のネット民が大好きなネタがたくさん散りばめられていること。フーシの趣味は、第二次世界大戦ジオラマづくりで、それは彼の部屋に所狭しと飾られている(オタク!)。

おっとりした優しい性格だが、巨漢&若干ハゲた頭髪という風貌のためか、近所に越してきた少女を誘拐したという疑惑(事案!)も立てる災難もある。

 

その上、柄の悪そうな同僚(DQN!)たちとは相容れず、彼らのいじめの対象になる。更衣室で、同僚たちにいつもシャワーを浴びないことをいじられ、無理やり浴びせられるシーンで、「ああ、男同士で上裸を気軽に見せあうことで絆を確かめるホモソーシャル文化、あったな…」と嫌なことを思い出してしまった。

その後、一転してDQNたちに気に入られる瞬間があるが、彼らの集まりに呼ばれて、そこで性が絡んだ最悪なイベントが起きて、フーシはそれも拒絶する。

 

フーシは、DQNだから同僚たちから距離を置いていたわけではない。ましてや、自分をいじめていたからでもない(それならば、彼らに気に入られてからは上手くやっていたはずだ)

そうではなく、フーシが全身から発しているのは、彼らの「男らしさ」「ホモソーシャル」への拒絶だ。彼は「いい年になったら、子どものおもちゃからは卒業し、車をいじったり、女について下品に同僚と話すもの」だとする、そういうコミュニティから縁を切っているのだ。

 

「男らしさ」や「ホモソーシャル」と縁を切ったフーシ越しに描かれる物語は、そうした男性社会の「暗黙のお約束」に対して、「なんでそんなことしなきゃいけないの?」という疑問を投げかけ、そんな彼を「普通じゃない」と異端視する人々の側こそ“普通じゃない”ことを示唆しているように思える。

 

フーシの行く末を不安視した母とその彼氏が、彼を半ば無理やりダンス教室に通わせることになる。嫌々ながら教室に向かったフーシは、そこでシェヴンという女性に出会い、2人は徐々に惹かれ合っていく。

 

ここで、「ホモソを忌み嫌いながらも、結局女性と対幻想を作らなければ男は充足できないのか」という突っ込みようがありようが、注意深く観察してほしい。

フーシは、シェヴンを対幻想に無理やり引き込もうとはしない。あくまで彼女のためを思い、懸命に動く。そこに損得の感情はないのである。

そして、少々唐突とさえ思える展開で、映画は幕を下ろす。キャストインタビューによると、この展開は予算上の問題で急遽改変されたものだという。結果的にそれでよかったかもしれない。「まあ、上手くいきそうで、いかないことってあるよね」という妙にリアリティのある後味だ。

 

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本当の“あたおか”は誰? 『ミセス・ノイジィ』が問う「一方的に笑い者にする側」の異常

「ルビンの壺」というイラストがある。心理学者エドガー・ルビンが考案したイラストで、一見、壺が描かれているように見えるが、よくよく見ていると2人の人が向き合っている図にも見えてくる。逆に、2人の人が向き合っているイラストだと思った人が、ふとした瞬間に壺に見えてくることもあるだろう。

 

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ルビンの壺の一例

重要なのは、「壺の絵か、2人の人の絵か。どちらでもあるしどちらでもない」ことと、「見た人は、“壺”と“2人の人”を同時にイメージすることはできない」ということだ。

2000年代に話題となった「騒音おばさん」をモチーフにした映画『ミセス・ノイズィ』を鑑賞しながら、ぼくはルビンの壺を思い浮かべていた。

薄い壁一枚で隔てられた2つの「世界」

長いスランプに陥っている小説家の真紀(篠原ゆき子)は、夫、まだ幼い愛娘と共に集合住宅に引っ越してきて、再スタートを切る。

原稿の締め切りに追われている早朝、隣家から「バンバンバン」という、けたたましい布団叩きの音がする。音の主は隣人の美和子(大高洋子)だった。

娘をめぐるちょっとしたトラブルもからみ、しだいに隣人との間で高まっていく緊張関係。新しい小説を書きあぐねていた真紀は、そのやっかいな隣人自体を扱った小説を書くことを思い立つ。

 

まず最初に観客に提示されるのは、ヒロイン・真紀越しの現実で、それゆえに、美和子が得体のしれないモンスターに思えてくる。演じる大高洋子が素晴らしい。「あ~これはあんまり関わったらあかん系の人かもなあ~」という説得力の強い、存在感と演技である。

しかし、ここで物語は視点を一変して、美和子側から語り直されることで、多面的な世界が展開していく。

結局、薄い壁一枚で隔てられているだけで、真紀と美和子はお互いがお互いに同じ絵を観ながら、「全く別の世界」を観ているだけだったのかもしれない。それはまるでルビンの壺のように。しかし、そのことは真紀も美和子もお互い知る由もない。

本当の「あたおか」は誰なのか?

そこに「ネット社会」「マスコミ」という第3局がどやどやどやと分け入ってくる。ささいな隣人トラブルは、一知半解した「野次馬」たちの好奇の目にさらされ、物語は悲劇的、破滅的な方向へハレーションを起こしていく。

ネット社会は「非常識」や「あたおか(頭がおかしい人)」に敏感だ。麻薬を嗅ぎ取る警察犬のように鋭く察知し、現場に急行すれば、お得意の「常識」を振りかざして相手を叩きまくる。

しかし、その「常識」は気ままで、とても移ろいやすい。本作でも、ある出来事がきっかけで、ネットでの風向きは180度変わる。そのリアリティには、日頃ネットに慣れ親しんだ者からすれば、居心地の悪さすら感じる。

結局、本当に「あたおか」なのは誰なのか? 映画が大団円を迎える直前、美和子のある「絶叫」(咆哮、と呼んだ方が適切かもしれない)は、はっきりとその対象に向けられているような気がした。

インターネットの“ソウホウコウセイ”という詐称

インターネットという便利な道具によって、「ソウホウコウセイが高まった」と偉い人たちはいう。でも、本当にそうだろうか? と最近は特に思う。

実際のところ、かえって一方的に眺める側(笑い者にする側)と、一方的に眺められる側(笑い者にされる側)という多対一の「一方向性」が強まった気もする。その感覚は、動画コンテンツ全盛のここ数年、よりいっそう感じる。

ツイッターでたまに「ネットやSNSを使ってなさそうな(もしくは存在自体を知らなそうな)中高年」の公共の場での不始末を勝手に撮影し、アップロードした投稿がバズっている。肖像権の問題はもちろんだが、それ以上に「反撃してこなさそうな者を一方的に笑い者にしている」の構図がとても感じが悪い。

本作では、美和子がネットを使っている形跡がないため、ネット社会に対して同様の感じの悪さが強調されている。

 

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新宿武蔵野館にて

鑑賞後、エレベーターを待つ間にもう一度この映画のポスタ―を観たら、鑑賞前とは前と全く違ったインスピレーションを与えられる。

もしかしたら、このポスターの真紀と美和子はベランダから“ぼくら”を見返しているのかもしれない。

“青春映画”の皮を被った世界観をめぐる壮大な戦い『町田くんの世界』

町田くんの世界

 

毎回、ここで映画について書く前は、いちおうウィキペディアなどスタッフやキャストの略歴を調べてみたりもするのだが、今回は監督がまだ37歳だということに驚いた。俺とたった2つ違いかよ…。今回は、石井裕也監督の才覚に舌を巻いた、『町田くんの世界』を紹介したい。

 

世界は愛に満ちているのか、悪に満ちているのか

主人公の町田くんは、誰に対しても別け隔てなく親切に接し、気にかける、パラメータがアガペー全振りの男子高校生。そんな彼の前に、「人が嫌い」と吐き捨てる、休みがちなクラスメイトの猪原奈々が現れ、2人の不器用ながらの交流が始まる。

本作は、青春映画の体裁をとりながも、そのテーマは広く、普遍的だ。それは、この世界は愛に満ちているのか、悪に満ちているのか。

人が好きな町田くんはもちろん前者を代表している。自分と同じように、みんながみんなを愛しているはず、と信じてやまない、ちょっとヤバいぐらいの優しい男である。

一方、世界は悪に満ちている、と捉える考え方も当然ある。本作ではそれを、芸能人のスキャンダルを追うことを飯の種にする週刊誌記者を演じる、池松壮亮が代表する。

 

「老け込んだ高校生たち」の持つ意味

キャスティングが面白い。町田くんとヒロインの猪原さんを演じる2人は、当時新人だった細田佳央太と関水渚。この2人は撮影当時実際の10代だ。

しかし、2人を取り巻くそのほかの高校生役にキャスティングされているのは、前田敦子に岩田剛典、太賀(現・仲野太賀)、高畑充希など、その多くが明らかに実年齢では成人しており、ぶっちゃけた話、高校生役にしては老けているし、制服姿が不自然だ。

これを過去作へのアンチテーゼと意地悪に解釈することもできる。実際、彼らと年齢がそう変わらない20代の俳優が、こうした3ヶ月に1作ペースで量産される学園恋愛ものに、順列組み合わせの要領でキャスティングされているからだ。

 

しかし同時に、彼ら「老け込んだ高校生たち」には、ストーリー上の意味があると思える。 

町田くん、猪原さんの周囲の「老けた高校生たち」は、老けていると同時に、言動も相まってどこか世慣れたようにも見て取れる。それは、単に経験豊富で老成しているというより、自分、そして他人に対して「はいはい、どうせこの程度でしょ」という見限り、期待値の低さからくる「老け」に思えてくるのだ。

 

ここで本作が、単なる性善説性悪説の対立ではないということも分かってくる。

性悪説の背景にあるのは、「所詮、人間なんてその程度のもんでしょ」という「知ったかぶり」の所作だ。

一方、性善説の背景にあるのはなにか。

素敵なシーンが随所に散りばめられている本作だが、印象的なシーンの一つが、町田くんと、アマゾンから一時帰国したお父さん(北村有起哉)が語りあう場面だ。

お父さんは町田くんにお母さん(松嶋菜々子)を好きな理由を聞かれ、「分からないこと」だと明かす。そして息子に「分からないことがあるからこの世界は楽しい。分からないことがあるからこの世界は素晴らしい。分からないことから目をそらしちゃダメだ。分からないからこそしっかり向き合わなければならない」と諭すのだ。

また、その息子である町田くん自身がたびたび口にするのが「想像」だ。 

性悪説が「“どうせ”という知ったかぶり」であるなら、性善説はきっと「どうせ」と即断せずに、理解できない他者に理解できないまま向き合うこと、そして、想像することといえるのだ。

誰にでも優しい人は、誰にも優しくないのと同じ

町田くんは町田くんで、欠点がないわけではない。彼の優しさの前に、猪原さんの「人間嫌い」の鎧はもろくも崩れ去り、彼のことを好きになってしまう(ここでパニックになってしまう関水の演技がたまらなくかわいい!)。

しかし、猪原の好意に町田くんがストレートに返答することはない。なぜなら彼の優しさは、誰に対しても手向けている優しさだからだ。

つまり、見返りを期待しない町田くんは、見返りがあっても戸惑ってしまうだけ。誰にでも優しい町田くんは、誰にも優しくないのと同じだったのだ。エロスをともなう愛情は、必然的にエゴイズムを伴う。町田くんのそれは近いようで最も遠かった。このことが猪原さんを深く傷つけることになる。

 町田くんはそこで、自分の気持ちをもう一度見つめ直す。そして、「選ぶ」というエゴイスティックである意味残酷なことを受け入れるに至る。

…それでも、他人への気遣い、優しさを捨てきれないのが、町田くんのいじらしくてたまらなくかわいいところなのだが。

度肝抜かれるクライマックスの持つ“意味”

多くの観客が、クライマックスの展開に驚くことだろう。

ぜひ、ぼくと同じように最初から最後まで鑑賞して驚いてもらいたく、詳しくは書かないが、ボカして明かすならば、本作のクライマックスでは、それまでのリアリズムとは全く異なる、ファンタジーな出来事が巻き起こる。町田くんか猪原さんの夢や空想かと思ったが、「ガチ」で起きたことのようだ。

この突拍子のない、ファンタジーなクライマックスは「奇跡」の隠喩なのだろう。

本作では「奇跡」という言葉が一度出てくる。猪原さんが言っているのだ、「好きになった人が、自分を好きになってくれるわけないでしょ。それってもう奇跡みたいなもんだから」と。

自分が好きになった相手が、同じように自分のことを好きになってくれる。それはたしかに「奇跡」のように尊い出来事だけど、誰のもとにだって起きる可能性がある。それを許さないまで、世界は厳しいわけではない。本作のクライマックスが教えてくれるのは、たぶんそういうことだ。

 

ネガティブな感情に支配されて、「どうせ」と世界を見限りたくなったとき、町田くんの優しいほほ笑みを思い返してみよう。もう一度「奇跡」を信じてみたくなるかもしれない。