いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

アンタッチャブル10年ぶり“共演”に感じた『全力!脱力タイムズ』の粋とプライド

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『全力!脱力タイムズ』公式ホームページより

 

 アンタッチャブルが10年ぶりに共演したのにはさすがに体が熱くなってしまった。歴史的“再会”は、Tverなどでも観られるのでぜひ確認してもらいたい。

 

tver.jp


 今回の件について、事前告知なしにあっさり行われたことが、密かに評判を呼んでいる。


 さっそく以下のような考察記事も出ていた。

 

www.oricon.co.jp


 
 告知がなかったのは記事中にあるように、“後追い視聴”環境の充実によるところもあるだろうが、ぼくはそれ以上に、今回のアンタッチャブル10年ぶりの共演を、告知もせずさらったやってのけてしまった事実」に、この番組のプライドをみた気がした

 そもそも、 事前告知で「アンタッチャブルが今夜ついに10年ぶりに共演!」なんて銘打つのは、この番組のスタイルに完全に反しているのだ。

 

 それについて語るためには、この番組はどういうものか、野暮を承知で説明しなければならない。 
 『全力!脱力タイムズ』は報道番組、ではもちろんない。キャスターのくりぃむしちゅー有田とアシスタントはもちろん、画面右手に陣取る本物の専門家たち、2人いるゲストのうち1人、スタッフ、パネル、VTRまですべて、真面目な顔をしてボケ続ける「番組全体がボケ担当」の特殊なスタイルである。
 
 それに対する「ツッコミ担当」は、何も知らされずに座るもう1人のゲスト(主にお笑い芸人、今回は柴田英嗣だった)で、「自分以外すべてボケ」の特殊な状況で、ひたすら場面対応力が試され続けるおそろしい「お笑い番組」なのだ。

 

 これも野暮を承知になるが、山崎登場までの流れを確認しておこう。これまでの回でも、番組は「柴田が相方と共演」と打ち出しながら、別人が出てくる、というボケを何度も繰り返していた。 
 今回はその偽の相方役が俳優・小手伸也で、柴田と漫才をしようとするが上手くいかず、有田に叱責された小手がスタジオを一度はける。続いて、スタジオの面々が小手に同情し、もう一度チャンスをあげようという流れになり、有田に連れられて戻ってきたら山崎本人だった、という展開だった。

 つまり、今回、山崎は「小手伸也が出てくると思ったら山崎だった」というボケの展開で出てきたのだ。
 
 注意しなければならないのは、番組自体は最後まで「アンタッチャブルが10年ぶりに共演!」とは、一度も認めていないことだ。まさかガチの相方が出てくると思っていなかった柴田は大興奮しその場にぶっ倒れていたが、有田は冷静に「小手伸也さん、気を取り直してよろしくおねがいします」と山崎に向かって詫びる。それどころか、番組では山崎が登場してからもずっと右上に「気を取り直した小手伸也が改めて漫才を披露!!」と表示され続ける、この徹底ぶり!
 
 結局、番組自体は最後まで「小手伸也がスタジオに戻ってきた“てい”」のボケの姿勢を崩さず、2人が共演したことを“認めていない”のだ。極めつけは、番組最後の有田である。「できれば、早く本物(のアンタッチャブル)がみたいですね?」とゲストの新木優子ににこやかに語りかけ、柴田の「本物です!」というツッコミを引き出す。ひたすら粋である。


 もちろん、アンタッチャブルの漫才の前にはスタジオで万雷の拍手が起こり、その場にいた全員が「今、目の前で起こっていることがどれだけすごいことか」は分かっていたはずである。それでもなお、いつものスタイルは崩さず、すっとぼけ続ける。『全力!脱力タイムズ』の粋とプライドを見た思いがするのである。

上映中にスマホ開くなバカ! 「画面見なくても分かる」映画なんてねえからな

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 昨日、スマホで見ながら思わず「アホか!」と、声を上げてしまったニュースがあった。

www.moneypost.jp

 

「なぜかと聞かれると『なんとなくスマホが気になるから』というのが正直なところですね……。映画って2時間じっとしているのが結構耐えられない。そんなに長い動画を観ることって普段ないので。YouTubeは長くても20分くらいじゃないですか? 本当に2時間ずっと面白ければスマホは見ないと思いますけど、映画って見なくても話がわかるシーンがあるから。そういう時間はLINEやTwitterをチェックした方が合理的な気がします」(Aさん)

 

 たった2時間スマホを我慢できないなんて病気です。病院行ってください二度と出てこないでくださいありがとうございました、という感じである。

 

 ぼくもネットメディアの中の人の端くれである。この記事だって、針小棒大で極端な例を取り上げているだけの気がする。
 けれど、いくら「針」であろうと、鑑賞体験を台無しにされることは大いにある。よりにもよって、上映中の真っ暗な劇場で、スマホなんて起動された日には、なおさらだ。

 これを読んだときに思い出したのは、大学の講義だ。講義中、後ろの方の席でぺちゃくちゃしゃべる珍獣どもがいたのだが、あれはなんなのだろう? そのトークを俺らに聞かせたいの? M‐1出るの?? 不思議だった。

 出席をとるタイプの授業ならまだ分かる。ああ、マジメに授業を受ける気がないけど単位だけはほしいのね。分かりやすい。小悪党である。

 問題は、出席を取らないタイプの授業で、そこにやって来ては騒ぐ珍獣は、意味が分からなかった。なんだそれ? 狙いがわからん。サイコパス! 純粋に怖いよっ!

 映画上映中にまでわざわざやって来てスマホを開くやつは、出席を取らない授業で騒ぐやつらの理不尽さに似ている。

 

『カメ止め』監督、そりゃねえよ…

 映画ファンや関係者の多くがSNSで怒っているこの話題だが、映画『カメラを止めるな!上田慎一郎監督だけは、ちょっと別角度から意見をしていた。

 

 スマホなんて観てられなくなるような面白い映画を作ってやる――なるほど、たしかにクリエイター然とした、聞こえのいい主張かもしれない。

 しかし、こっちだって1900円払っているのである。「ゾッとしてる」じゃないよ。切り捨てたくなるのが普通である。今はダメでも、いつかは分かってくれる…では困るのだ。


 以前にも書いたが、映画館で隣り合う客なんて完全な風景である。目障りか、そうでないかしかない。珍獣は「はずれクジ」であり、そいつの心根を改心するとか、啓蒙するとか、その後なんて知ったこっちゃない。

 

iincho.hatenablog.com

 

 また、ここで取り上げられている若者はおそらくスマホ中毒者である。例えばマーシーが、沢尻エリカが、面白い映画を鑑賞していようと、ああ、一発打ちてえなと思うことは止められない。それと同じである。

 

「画面見なくても理解できる」という過信

 話を戻す。記事中、地味に一番カチンときたのは以下の箇所だ。スマホを観てしまう理由として、出てくる登場人物が2人とも同様のことを言っていた。
 
「映画って見なくても話がわかるシーンがあるから」
スマホを見つつ、映画の内容を理解することもできます」

 

 分かるわけねえから。

 

 映画は、「約2時間、じっくり腰を据えて鑑賞すること」を前提とした総合芸術だ。視聴率を参考にして展開を改変できるテレビドラマなどと違い、終わりから始まりまで緻密に構成されている。

 上田監督よ、だいたいあなたの『カメラを止めるな!』だって、最初の数十分はあえて「どこかおかしなゾンビ映画をやるではないか。その「ゾンビ映画」がフックになっているから、後半の怒涛の展開、爆発力が生まれるのではないか。
カメラを止めるな!

カメラを止めるな!

 

 

  スマホ中毒者らは、おそらく『カメ止め』の前半で見限ってスマホを開いてしまい、後半盛り上がってきたところも堪能できないだろう。なぜなら、前半を観ていないから。意味がなさそうなシーンにも、あとで思いもよらぬ意味が生まれる。それが映画の醍醐味ではないか。

 

 それだけではない。映画には「観なければ分からないこと」が無数に隠されている。さまざまな文化的、歴史的、宗教的な“暗号”が隠され、過去作へのオマージュ、パロディーも頻繁に使われる。「画面を見なくても分かる」なんてありえないのだ。

 

 浅慮なやつにかぎって、「見なくても理解できる」とか言い出すのである。まさに無知の無知。知らないことを知らない動物たち。自然へお帰り。

 

 ちなみに、「画面を見なくても理解できる」のはむしろテレビドラマだ。テレビドラマが映画よりレベルが低いといいたいのではない。テレビドラマは、「ながら視聴」を前提として作られている。夕飯を作ったり、洗濯物を畳んだり、それこそスマホを眺めながら観てもらうことを前提に作られているのだ。だから説明ゼリフが多いし、映画に比べるとストーリーも比較的予想が付きやすい。それは、意識的に造り手がそうしている似すぎない。でも、映画はそれとは違う。

 

 だから、「見ずに分かる」なんてありえない。それは、ちょっとませた、お釣りの計算ぐらいはできるようになった小学生が「これ以上、勉強ってする意味がありますか?」と聞いて、大人を困らせるのに似ている。

 そういう子どもは頭がいいのではない。頭がいいように見えて、実は周回遅れ。それどころか同じトラックにもまだ立てていないのだ。 

嗚呼、わが青春の再生メディア! 映画『VHSテープを巻き戻せ!』と思い出話

VHSテープを巻き戻せ!

 

 「巻き戻し」という言葉が、若者に通じないという話題がしばしば浮上する。今や完全に「旧メディア」の烙印を押されてしまい、ぼくも引っ越しの際についにデッキを処分してしまったVHSだが、未だに根強いファンが存在する。

 本作『VHSテープを巻き戻せ!』は、「VHSにヤラれてしまった人たち」=「VHSに良い意味でも悪い意味でも人生を変えられてしまった人たち」へのインタビューで構成され、VHSの歴史、その文化的意義に迫るドキュメンタリーだ。

 

VHSに人生を変えられたさまざまな人々

 ベータとの規格争いに勝利したVHSが、世界をいかに変え、そして衰退していったかを活写する。VHSで大儲けした人、VHSをひたすら集めている人、VHSで女優になった人…etc。さまざまな人が出てきて、単なる「メディア」への愛着以上に、フェティッシュな偏愛を語り尽くす。VHSのタトゥーを入れた人たちにはさすがに笑ってしまった。

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 中盤に登場するVHS映像作家のおじさんは、電車でたまに遭遇するやばい人と同じオーラをビンビンに感じるが、アマチュアクリエイターとして話す言葉はかなりアツいので、ぜひとも聞いてみてほしい。

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VHSがもたらしたもの

 メディア論としては常識だが、あるメディアは物事の結果だけでなく原因でもある。まず作品があってVHSがあるのではない。事態はその逆だ。マーケットによってVHSが作られ、またVHSによってマーケットも変容していったのだ。

 VHSという「原因」が作り出したものの一つが、「劇場公開を前提としないレンタルビデオ専用の映画」すなわち「Vシネ」だ。レンタル向けにコンテンツが大量に作られたことは、若手クリエイターの育成にも寄与した。

 また、「批評」という観点からも、VHSは革命をもたらす。同じシーンを何度も見直すことが可能になったことで、より正確な批評が可能になったのだ。

 ちなみに、ホームビデオ以前のオタクが「記憶」を頼りにアニメを論評していたという涙ぐましい努力については、岡田斗司夫の著作などが明るい。

オタク学入門 (新潮OH!文庫)

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テープの劣化という物理的スタンプ

 個人的に面白かったのは、アナログメディアならではの「テープの傷」のエピソード。VHSの普及で、アダルトビデオの時代が到来するが、レンタルビデオではある特定のシーンのテープだけ傷ついて画面が荒れてしまうという。

 画面の荒れは、そのシーンまで何度も繰り返し巻き戻されていた、ということを意味する。画面が荒れるシーンの直後にはアダルトビデオでは「抜きどころ」がくるのだそうだ。

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 ちなみに、ポルノ以外の映画では画面が荒れる直後に「人が爆発するシーン」が来るそうだ。人間の関心は今も昔も「エロ」と「グロ」なのだ。

 このテープの話で思い出したのは、Kindleなどの電子書籍での「ハイライト」の共有機能だ。このテープの劣化は共有機能のさきがけだと言える。同じ機能を、アナログメディアであるVHSが何十年も前に勝手に実現していたのだ。

 まあ、他人がどこで抜いたかなんて知りたくはないかもしれないが…。

 

「所有する」ことは本当に不自由?

 今や、VHSはDVDに取って代わられ、そのDVDはBlu-rayに取って代わられ、そしてそのBlu-rayも今やNetflixアマゾンプライム・ビデオといったVOD(ビデオ・オン・デマンド)サービスに取って代わられつつある。もはや物理的な所有自体が、過去の遺物なのかもしれない。

 物理的な所有から開放され、ぼくらは自由になった。部屋も広くなった。

 しかし、それは本当に自由なのか? と映画は最後に問いかける。

 VODはお手軽であるが、供給サイドが「自粛」してしまえば、ぼくらは永遠にコンテンツを観られなくなる。そのことをここ最近なんども思い知らされているのは、ぼくら日本のユーザーではないか。

 また、VHSでしか観られない作品もいまだにあるという。本作では2014年当時起きていた“VHS復古ムーヴメント”ともいえるカルチャーにも言及している。まあ、それと同じぐらい「アホか、あんなの終わったメディアだよ」と切り捨てるドライな人も出てくるのだが…。

 

最後に個人的な思い出を

 本作を観ていると、自然と自分自身のVHSにまつわる体験を思い出してしまう。

 1985年生まれのぼくも、VHSに慣れ親しんだ世代だ。生前の父は映画が好きで、毎週末ツタヤ(今のロゴになる前の気持ち悪いロゴのツタヤ)でレンタルビデオを2~3本借りてきては、一緒に観たものである。

 本作のタイトルで思い出したが、返却時には必ず巻き戻してほしいと店側に念押しされていた。当時はめんどくさかったが、今ではいい思い出である。

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 また、VHSは再生メディアとしてだけでなく、録画メディアとしても大いにお世話になった。

 中高生のころは格闘技に凝り、「K‐1」「PRIDE」のテレビ中継の録画を人生の至上命令かのごとく欠かさずにいた。録画は画質を損なわないように「標準」だ。

 毎週のレギュラーでは『めちゃ×2イケてるッ! 』(フジテレビ)、『ダウンタウンガキの使いやあらへんで』(日本テレビ)も必ず録画していたが、これらはキリがないので、断腸の思いで「3倍速」にして6時間録っていた。

 また、録画からCMを排除することを「美学」とし、録画しているのに必ずリアルタイム視聴が鉄則。CMのたびに「一時停止」を押し、「CMカット」機能があるデッキが羨ましかった。今考えれば徒労以外の何物でもない、涙ぐましい努力をしていた。

 1本のテープを録りおえたら、誤って重ね録りしないように爪を折る。ビデオテープに必ず付属するラベルのシールにタイトルを手書きし、コレクションの完成だ。
 ぼくが多感な時期が終わるとともに、再生機、録画機の順番でVHSはその座をDVDに取って代わられた。もしかしたらぼくは、VHSに思い入れがある最後の世代に近いのかもしれない。

 

 鑑賞しながら、そんな風に個人的な思い出もぶり返してきた本作。

 最大の皮肉は、そんなVHSに関する作品をVODで鑑賞してしまったことで、それだけはちょっと後ろめたい気持ちになった。

【ショートショート】ミサイル自粛

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地球によく似た惑星

 

 これは地球から遠く離れた、地球ととてもよく似た惑星の話。

 場所は、惑星の各国首脳が集結したミサイル発射基地だった。首脳陣が緊張した表情で腰掛けていたそのとき、コンコンと部屋をノックする音がして、何人もの事務官が会議室になだれ込んできた。

「そんなに慌ててどうしたのだ」首脳の一人が騒ぎを諌める。

 事務官の一人が滝のような汗を流しながらこう言った。「まことに不測の事態と言いますか、困ったことが起きまして…。大変申し上げにくいのですが、予定していたミサイル発射、このままではできません…」。

 

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 その数ヵ月前、惑星に巨大隕石が接近していると判明した。惑星に衝突すれば、大半の住民が死滅する試算で、惑星は大混乱におちいった。

 ただちに迎撃するためのミサイルの製造を始めなければならない。しかも隕石の大きさからして、必要なのは全長10kmにも及ぶ超巨大ミサイルだ。一国だけではどうにもならず、惑星全土が協力しなければ作れない代物だ。

 しかし、そのころ惑星の各国は憎しみ合っていた。食料問題に財政問題、領土問題、ありとあらゆる問題が噴出し、お互いが自分の要求を譲らず、にらみ合いの状態。とても協力してミサイルを作るような状況ではなかった。

 

 そのとき立ち上がったのが、惑星一の人気女優エリーカだった。エリーカのキャリアは数々の名作に彩られ、数々の賞も受賞し、演技は天下一品だ。

 女優としての才覚だけではない。彼女は他者を慈しむ優しさにも溢れ、私財を投げ売ってまで社会問題の解決に心血を注いでいた。

 

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 そんなエリーカは、各国首脳陣が列席する会議に登場すると、一世一代の名スピーチをし、首脳らに訴えた。

 「自分たちの利益ばかりを考えて憎み合っていてどうするのです。今こそ団結し、この惑星の危機を乗り越えるときです」

 彼女のスピーチに胸を打たれた各国首脳は、それまでの振る舞いを反省し、一致団結して超巨大ミサイルの製造にとりかかった。

 

 

 「ミサイルは昨日完成したと聞いている。今は一刻を争っているのだ。なぜ発射できんのだ」首脳の一人がイラ立ち、机を拳でドンと打ち鳴らす。

 その剣幕にヒィ! と悲鳴をあげならも、一人の事務官が言いにくそうに「エリーカさんが、今朝逮捕されてしまったのです…」と切り出した。

 

 エリーカの薬物疑惑は数年前からささやかれていた。

 各国の機関も数年前からそのことは感知していたが、世間への影響、そして彼女のこれまでの社会的、文化的な貢献度を鑑み、見て見ぬ振りをするつもりだった。

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何も知らずに尿検査をした下っ端の警官

 ところがミサイル発射予定の朝、エリーカがある国の都市の路上で全裸のままうたた寝しているのが見つかった。ドラッグパーティーの帰りらしかった。何も知らずに補導した下っ端の警官が不審に思い彼女の尿検査を実施し、結果は陽性。見て見ぬ振りができなくなってしまったのだ。

 

 人気女優の逮捕はただちに報じられ、惑星の全土に衝撃を与えた。

 

 首脳たちもロケット製造のきっかけ作ったエリーカの逮捕を知り、あ然とする中、その中の一人が「だからといって、ミサイルが射てないことにはならんだろう」と鼻を鳴らす。

 事務官は「エリーカさんの逮捕の影響は甚大なのです。予定されていた超大作の出演映画は公開中止がすでに決まりました。また全世界で100社と契約していたCMの違約金も膨大になる予定です。それに…」説明の途中で事務官が見上げた先には、発射を静かに待ち続ける超巨大ミサイルがあった。

 そしてその機体には、エリーカの顔が描かれていた。

 

 さかのぼること1ヵ月前、超巨大ミサイルの製造が佳境を迎えたころ、惑星の市民の間である案が浮上していた。惑星を救ったスピーチを讃え、ミサイルの機体にエリーカのポートレートを描こう、というのだ。

 エリーカ自身は「お気持ちだけ結構です」と固辞したが、世論の後押しは想像以上で、首脳陣も実現に向けて奔走。エリーカが折れる形で、ミサイルの機体に彼女のほほ笑みが描かれたのだった。

 

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 「エリーカさんが逮捕されてしまった以上、エリーカさんが描かれたこのミサイルも、コンプライアンス上好ましくないことになりまして…」と事務官。

 超巨大ミサイルの建築費は各国の予算だけではまかないきれず、世界的な大企業の数々がスポンサーに名を連ねていた。また技術的にも多くの企業に頼っている。

 エリーカ逮捕を受け、関係各社はすぐに法務部を招集し、協議の結果「スポンサーとして、犯罪者が描かれたミサイルの発射は認められない」と、断固反対の立場に立っているという。

 「エリーカさんのポートレートは、遠くからでもはっきり見えるようにミサイル全体に描かれておりまして、全長9kmに及びます。すべてを塗りつぶすころには、とっくの昔に隕石が激突してしまうのです」事務官はもはや半泣きの状態で訴える。

 

 「なんということだ…。惑星の命運がかかっているこんなときに…」首脳たちが頭を抱え、苦悩に満ちた表情をしている中、その遥か頭上で、超巨大ミサイルに描かれたエリーカだけは、太陽のようなほほ笑みを絶やさずにいた。

『ターミネーター:ニュー・フェイト』過去作を犠牲にしてでも作られるべきだった理由

海外限定品 ターミネーター ニューフェイト ポスター 布シルク 高画質 特大 映画 アーノルド・シュワルツェネッガー

 

 『ターミネーター:ニュー・フェイト』。言わずと知れた超大作シリーズの続編で、今回、宣伝でも「正当な続編」と銘打たれたように、主役ではないものの、アーノルド・シュワルツェネッガーリンダ・ハミルトンが再登場するのが目玉の一つだ。


 めちゃくちゃよかったのでレビューを書きたいのだけれど、どう考えても核心部分のネタバレは外せないので以下、ネタバレ全開で活かせてもらう。

 

 

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過去作ファンへの仕打ち!?

 まず衝撃的なのは、ジョン・コナーが冒頭であっさり殺されてしまうことである。これは何より驚いた。死んだ…嘘よね〜ん、でもない。マジの死。

 なんでそんなに驚くかって、91年公開の『ターミネーター2 審判の日』では、母サラ・コナーとT-800(シュワ)があんなに苦労して形状記憶合金野郎から守ったジョンなのである。復習がてら先日見た『T2』でも、キューティクルセンター分け男子のことをしっかり助けていた。だからこそ泣けるのが溶鉱炉ダイブだったのだ。

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今回の公開に合わせ、TOHOシネマズ新宿前に設置された溶鉱炉グッジョブ像(筆者命名)。この名シーンも、今回も作品によって特に意味がないものに…。

 それがなんと、そのわずか数年後にまた送られてきたシュワに撃ち殺されていた、ということが語られたのだ…!これが「正統な続編」の仕打ちか!?


  『T2』ジェイムズ・キャメロン監督といえば、かつて自身の作品のキャラクターが同じ運命を辿ったことがある。『エイリアン2』で、リプリー(シガニー・ウィーバ-)がせっかく助けた少女ニュートが、続くデヴィッド・フィンチャーが撮った『エイリアン3』冒頭であっさり死んだことにされるのだ。あれもこう「『2』の見方が変わってしまうがな…」と衝撃を受け、唖然としたものであるが、今回のジョンの死はそれを超える。

 

 また、ジョンの死は、『T2』以降のターミネーター3』『ターミネーター4』そして、『ターミネーター:新起動/ジェネシス』が、別の時間軸のものとして完全に切り捨てられたことを意味する。『T2』の余韻、そして『T3』以降の過去作を別の時間軸へと廃棄してでもなお作るほどの続編だったのか。ぼくならば、「まさに」と肯定する。

 

『T1』の焼き直し? と見せかけて…

 ジョンの死に困惑するヒマもなく、ストーリーはテンポ良く進む。

 本作はメキシコシティが出発点。ヒロインのナタリア・レイエス演じるダニーの元に、未来から悪のロボットと正義の使者が送り込まれる。死にものぐるいでダニーを守る者と、是が非でもダニーを殺そうとする者のし烈なバトルがおっぱじめられる。

 正義の使者グレースを演じるのは、遼河はるひみたいな長身美女マッケンジー・デイヴィスで、これがまためちゃくちゃかっこいい。小柄なナタリアとのコントラストも相まって、今作で最も華がある役どころだ。

 

 
 
 
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 ちょっと待て、未来からやってきた悪者と正義の使者が人類の命運を握る主人公をめぐって攻防を…ってそれ、まんま『T1』と同じやんけ! というツッコミどころで、本作にはすでにそうした「焼き増し」批判もネットでは見かける。

 しかし、この「焼き増し」は十二分に戦略的なのだ。

 

巧みなミスリードを誘うサラ・コナーの言葉

 ここで、観客は見事にミスリードされる。そうか、今回はダニーの子どもが人類の鍵なのか、と。サラも自分がそうだったように、ダニーに「敵はあんたが怖いんじゃない。あんたの子宮が怖いんだ」という、少々ドギツイ言い回しで説明し、観客の思い込みを肯定しかける。

 しかしその後、未来で起きること少し違ったことが明かされる。未来でグレースが信奉している司令官は、実はダニーその人だったのだ。

 グレースは、勇敢に成長した未来のダニーに救われ、彼女と共にAIとの戦いに身を投じ、そして今回現代でダニー自身を助けるために送り込まれたのだ。

 

過去作の批判的な“アレンジ”

 この展開は、『ターミネーター』シリーズの批判的な“アレンジ”であることは言うまでもない。

 サラも『T1』では敵方の標的だったが、これは何も彼女自身が狙われていたわけではない。彼女がいつか身籠もるジョンが標的なのだ。だから、ジョンが生まれた後を描く『T2』では一転して、彼を守る側に回る。彼女自身が言ったように「敵はサラが怖いんじゃない。サラの子宮が怖い」のだ。

 でもこれはよく考えてみれば、背景に冷酷な思想が見え隠れしていることに気づく。例えば、サラが死んだとて、その子であるジョンが生まれさえすれば人類は誰も困らない…。「お世継ぎ問題」に似た不気味さが残るのだ。

 「敵はあんたが怖いんじゃない。あんたの子宮が怖いんだ」は、意地悪に言い換えれば、「あんたが重要なんじゃない。あんたの子宮が重要なんだ」ということなのだ。

 『T1』『T2』に慣れ親しんでいるものほど、この事実に麻痺しがちである。

 

 しかし、ダニーはグレースたちに守られるだけの役目を拒否し、自ら、未来からの刺客に相対することを決意する。最初はメソメソ泣いてばかりいた彼女は、次第に強い自立心に芽生え、成長していく。その延長線上には、もちろん、未来で人類のリーダーとなる姿がある。

 

 本作は、過去作のストーリー構造(「あなたが大切なのではなく、あなたの子宮が大切なのだ」)を想起させつつも、実はそうではないと否定し、ダニーに対して「私自身が何よりも大切で、私が戦い、未来を作る」という決意をもたせる。

 同時に、ジョンという生きる意味を失ったことで失意のまま孤独に戦い続けたサラに対しても、息子がいなくたって、あなたには生きる意味がある、というメッセージ性において、彼女にも救いを与える。

 

過去作を“廃棄”してでも作られるべき快作

 なお、賛否両論のバトルシーンだが、ぼくはかなり好きである。特に、主人公らがめちゃくちゃ強い敵に対して総力戦で挑むシーン、血が熱くたぎってきた。
 また、今回新登場の悪役も、ダメージを食らった部分がタールみたいになるビジュアル、また、部下みたいなのと二手に分かれるシーンはよくわからなかったが、その不可解さも含めて好きである。

 とにもかくにも、名作『T2』の余韻と、『T3』を時間軸の彼方に廃棄してでも作った甲斐があった本作『ターミネーター:ニュー・フェート』。文句なしだ。

 どう見てもロボットの演技する気がねえだろというシュワちゃんはご愛嬌、ということで。

悪女・桃井かおり大暴れ! 映画『疑惑』が“胸糞悪いけど爽快”な理由

疑惑

 おもしろいサスペンス映画を募るまとめサイトで出会った本作『疑惑』。偶然アマゾンプライム・ビデオに入っているので観たが、当たりだった。

 

 

 桃井かおりが演じる、性悪なホステス球磨子が大暴れする映画だ。

 球磨子は、富山のお人好しなお金持ちの再婚相手だったが、突然夫が謎の死を遂げ、彼女に嫌疑がかけられる。球磨子は夫の死をほとんど悲しみもせず、振り込まれるはずの巨額の保険金が目当てというまさに真性のクズ女。マエ(前科)もある。

 メディアは、そんな球磨子の未亡人としての「非常識」な態度への批判一色。開廷前からまるで彼女の有罪が確定したかのようだ。

 

 名うての弁護士も弁護を断るこの困難な裁判に、颯爽と現れたのが岩下志麻演じる弁護士の律子だ。

 がらっぱちな球磨子と、エリート気質が鼻に付く律子は、当然のようにぶつかりながらも、敗訴濃厚な裁判を戦っていく。

 

 観ていると、本作の焦点は「球磨子が本当に殺したかどうか」ではないことに気づく。いや、それももちろん焦点ではあるが、この映画はそれ以上に「疑わしきは罰せず」という近代の法原理と、「疑わしきは“罰せよ”」という世論の非合理的な処罰感情の対決である。

 後者を代表するのがマスメディアで、世論の球磨子に対する処罰感情をあおり、彼女の有罪を信じて疑わない。それを象徴するのが、地元紙の記者を演じる柄本明だ。彼はまるで正義の鉄槌を下すかのごとく、裏付けもすることなく最初から球磨子を犯人であるかのように記事を書き立てる。

 

 柄本のほかに、おかしいと感じたらコロッと意見を変える素直さがかわいいジゴロ役の鹿賀丈史や、やたら偉そうだけど結局何もしなかった丹波哲朗など、出演者それぞれが輝いているのだが、やはりメインどころの桃井かおり岩下志麻、この2人がひときわ輝いている。

 

 法廷劇としてはありふれたストーリー展開であるが、本作の白眉はクライマックスにある。

 

 律子の粘り強い調査と弁論により、晴れて球磨子は無罪を勝ち取る。

 しかし本作が説得的なのは、桃井かおり演じる球磨子が、「正真正銘のクズだった」ということだ。

 

 無罪が確定後、球磨子と律子はささやかながら祝杯をあげるが、そこでも球磨子の面の皮の厚さが露見し、やはり2人は反りが合わない。球磨子の人生と律子の人生が交わったのは、冤罪事件というただ一点のみだったのだ。そしてラストカットは、東京に戻る便の中でひとり不敵に笑う球磨子。

 

 球磨子はクズで最低の人間だけれど、今回の事件については無実だった。それだけなのだ。


 そのことが、本作を名作へと押し上げている。

 もしも球磨子が無罪を勝ち取ったあとに律子と喜びの抱擁をしたり、仲良くなったり、あるいは感謝の気持ちを素直に伝えようものならば、観客は鼻じらむだけだろう。そしてなによりも「彼女は無罪で、やはり善人だった」という結末は、本作のメッセージに逆行する

 

 球磨子はやはりクズの悪女だった。そのことが、映画のメッセージ性を際立たせている。悪人であろうとなんであろうと、該当の案件について真っ当なプロセスを経て裁かれるべき――本作『疑惑』はそのことを「爽快な胸糞悪さ」とともに教えてくれる法廷劇だ。

疑惑

疑惑

 

 

父子の終わりなき薬物依存との戦いを描く『ビューティフル・ボーイ』の壮絶

ビューティフル・ボーイ (字幕版)


 マーシーこと田代まさしがまたも逮捕された。しみけんとこの人は本当にもう…という感じだが、SNS上にも「信じていたのに…」「またか…」という失望や落胆の声が上がるとともに、薬物依存の恐るべき「逃れがたさ」を思い知ったという声が多く寄せられていた。


 ただ、個人的にはこうした感情を数日前に味わっていた。映画『ビューティフル・ボーイ』を鑑賞していたからだ。今をときめくティモシー・シャラメスティーヴ・カレルが父子役で共演する本作は、父親の目線から、息子の薬物依存に向き合う姿を描く。


 言ってしまえば、映画は同じ展開の繰り返しである。ニックが薬物に溺れる、デヴィッドが更生施設などなんらかの手立てを打つ、ニックは依存から立ち直ったか、に思えたが…やはりまた薬物に手を出してしまう。この展開が幾度となく繰り返される。


 もちろん、そのループ構造そのものが、依存症との対決の実情なのだろう。終盤でカレル演じるデヴィッドが、「疲れた」とこぼすシーンは、それまでのプロセスを目撃していた観客の誰も否定できないだろう。


 脇を固める演者もいい。デヴィッドの再婚相手カレンを演じたモーラ・ティアニー。彼女にも印象的なシーンがある。薬を買う金欲しさにデヴィッドの家に侵入したニックとその彼女。2人の車を自身の車で追いかけていたカレンだが、運転しながら涙を流し、しまいには車を止めて追うのをやめてしまう。どんなに距離を縮めて、ニックを捕まえたとしても、「距離」は縮まらない。彼女の涙はそのことを悟った涙なのだろう。


 映画は、いまのデヴィッドとニックの姿を映すとともに、依存症と無縁だった頃の素直でかわいい少年ニックとデヴィッドの姿をカットバックで描く。そうすることで、父がどれだけ息子を愛していたかと、現在のニックの姿がどれだけ彼にとって悲痛なものかを観客に追体験させる。ちなみに、タイトルの『ビューティフル・ボーイ』はジョン・レノンの楽曲であり、幼いニックを流すためにデヴィッドが歌う子守唄だ。


 終盤には、娘を薬物依存で亡くしたという女性が登場し、「娘が死ぬもっと前から、私は喪に服していました」と告白する。もしかしたら、デヴィッドも同じような心持ちだったのかもしれない。かつての、彼が「すべて」と評した息子の姿はもうそこにない。


 本人のみならず、家族をも苦労させる薬物依存との戦い、徒労を本作は教えてくれる。子どもを持つ親ならより身につまされるものかもしれない。