いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

あまりに悲しい『ジョーカー』が描く「笑い」の排他性と均一性

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 あまりにも理不尽な目にあい、怒りに震えたとき、悲しみにくれたとき、ふと一瞬我に返る。自分がこれだけ激情の嵐に飲み込まれているにも関わらず、外界はいたって平穏だ。これは、自分が狂っているのか? 社会が狂っているのか? いや、そのどちらともなのか?

 
 『ハングオーバー!』シリーズのトッド・フィリップス監督が手掛けた『ジョーカー』は、そんな話である。

 

 バットマンの宿敵ジョーカーはこれまで何度も実写化された。中でもひときわ異彩を放っているのは、クリストファー・ノーラン監督作『ダークナイト』(2008)に登場するヒース・レジャー演じるジョーカーだ。
 ヒース版ジョーカーはそのおどろおどろしいビジュアルもさることながら、最もかっこよかったのは「口が避けた理由」である。劇中、ジョーカーは3度、相手を代えてその「理由」を語るのだが、3回とも全く話が変わっている。つまり、すべてが真っ赤な嘘なのだ。


 これが意味しているのは、ヒース版ジョーカーが“どこからやってきたのか分からない”ということだ。彼がなぜそうなってしまったのか。そして何が目的だったのか。それが分からないことの怖さが、『ダークナイト』のカルト的人気の大きな要因の一つだ。

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 そういう意味で、今作『ジョーカー』はとても野心的である。何しろ全編において「なぜジョーカーはジョーカーになったのか」の物語をたっぷりの悲しみと、怒りと、せつなさをもってして描くのだ。


 この映画について「危険」という謳い文句が流れていて、安易にそういう安っぽい言葉を使うのはどうかと思うが、使いたい気持ちはよく分かる。この映画、あまりにもジョーカーへの共感・同情の気持ちが抑えがたいのである。日本人は「苦節○年」という言葉に弱いが、本作はいわば演歌だ。こんなコブシの入ったジョーカー、今までいたのだろうか。

 

 ホアキン・フェニックス演じるアーサー・フレックは売れないコメディアン。普段は路上でパーティーピエロとして細々と生計を立てる。オンボロアパートに帰れば病の母親を看病する、孤独な優しい青年だ。
 しかし、不運もかさなり、彼と社会をつないでいたか細い糸はぷつり、ぷつりと一つずつちぎれていってしまう…。

 

 アーサーはコメディアンもどきであるが、そんな彼の孤独感を際立たせているのは、実は彼が志している「笑い」なのである。本作はさすがジョーカーが主役の映画とだけあって、「笑い」というもののもっている画一的で排他的な恐ろしい側面を効果的に使っている。
 
 アーサーは神経を損傷しているために、自分の意志と関わりなく、緊張してくると勝手に大笑いをはじめてしまう。みんなが押し黙っているバスの中でも、自分が立っているコメディのステージ上でも、それは頻発する。


 笑いはアンビバレントな行為である。本来、笑うことはストレス発散になりうる。人と一緒にいて、楽しい会話だと笑いもするだろう。本来それはポジティブな反応だ。


 一方で、集団でいるとき、我々は一人で勝手に笑えない。一斉に笑うことは許されるが、他の人が黙っているところで一人だけ大笑いをしていたら、頭のおかしな人だと思われてしまう。
 また、集団になって一部もしくは一人の人間を「笑い者」にするときの「笑い」は、強烈な排他性を帯びている。
 こうした笑いの画一的で排他的な側面は、本作でも中盤のある2つのシーンで効果的に使われ、アーサーの孤独を描いている。社会から見放され、自分の居場所がないことを悟ったとき、アーサーの中でジョーカーはついに目覚めるのである。
 
 ちなみに、映画ではここで、ジョーカーに対して「君と同じように社会から冷遇されても、一生懸命に生きている人がいる」という旨の説教を垂れるキャラクターが登場する。その直後にジョーカーにあっさり射殺される彼だが、この手の説教は社会への不満がきっかけで事件が起きるたびに出てくる繰り言だ。

 こうした言葉が繰り返されるたびに思うのは「じゃあ、その、今まで“冷遇されても、一生懸命に生きている人”たちが一斉に怒りをぶちまけて行動を始めたらどうするの?」ということ。しょせんそうした説教は、社会の問題に正面から向き合おうとせず、個人に我慢を強いる言葉にしかすぎない。

 

 閑話休題

 さきほど、ヒース版ジョーカーと大きく違う点について書いた。本作はここまで述べてきたように「ジョーカーがどこからやってきたのか?」を描いた作品であり、その点ではたしかにヒース版ジョーカーとは全く別物である。

 ただ一方で、「ジョーカーがこれからどこに行くのか? 何をしでかすか?」についてはさっぱり分からない。その点では、実はヒース版ジョーカーと同様なのだ。

 

 誰かがツイッター上で「(本作の)ジョーカーは革命家だ」みたいなことを書いて、随分おめでたいと思った。
 彼を苦しめたのは経済的な問題だけではない。孤独であり、分かりあえる友達や恋人もいなかった。同じ貧困にあげぐ人々からも、アーサーは疎まれていたのだ。
 今まで冷遇していたやつが、事態が変わってついてくるようになったからといって、ジョーカーはそんな彼らの言うことを聞いて動くだろうか? 彼は狂ったのだ。そんなの考えられない。
 あらゆる怒りと不満をために溜め込んで覚醒してしまった彼が、つぎにどんな凶行を起こすのか。それが分からないことが、もっとも怖いではないか。誰が狙われるかは分からない。彼を狂わせたのは社会全体。誰が狙われてもおかしくないのだ。

 

 幸か不幸か、トッド・フィリップスは本作を単発映画として企画しており、続編はないと現在のところ語っている。
 あまりにも切なく、あまりにも悲しい空前絶後のジョーカーの“その先”は、ぼくら観客が夢想するしかないのかもしれない。

TOKIOリーダー城島“ロリコン”バッシングはなぜ起きたのか

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この件をまとめたTogetterページ

 TOKIOのリーダー、城島茂の結婚が波紋を広げている。理由は、妻が24歳下の24歳グラドルであるためで、48歳にもなってそんな若い女と結婚するのは「キモい」「ロリコン」などと罵られているのだ。

 

■ 「年の差婚」なんてよくあること…なのに


 しかし「年の差婚」なんて、これまでの芸能界でもあった。
 加藤茶が、城島夫妻の倍近くある45歳年下の綾菜夫人と再婚したときにも批判があったが、それは茶ではなくむしろ夫人に対しての「カネ目当てだ」という言われなき内容だった。
 もちろん、茶に対して「そんなに若い女を捕まえて…」という呆れる気持ちを抱いた人もいただろうが、今回のように目に見える大きな塊となったバッシングはなかった。
 どうしてリーダーにかぎってそんなに叩かれるのだろう。

 

■ 「三枚目」「汗」「農作業」「おじいちゃん」城島のキャラクター


 このことについて友達と話していて、城島の(あくまでマスメディア上での)キャラクターに原因があったのではないか、という話になって、なるほどなと思った。
  
 DASH村・島での汗水たらした泥臭い奮闘…風評被害に苦しむ福島の農水産物を応援…彼のイメージはその頭のリーゼン(正確にはポンパドール)とは裏腹に、「三枚目」「汗」「泥」「農作業」だ。

 またTOKIOの中でも、特に性的な匂いが薄い男だ。長瀬智也松岡昌宏といった独身の男たちのように色気発散しているわけではないし、既婚の国分太一でさえも彼より若い。…あれ、TOKIOって4人だっけ? …まあいいや。
 
 個人的には、城島は『TOKIOカケル』でのたたずまいが印象的で、近年は若年のメンバーらのトークスピードについてこれないのか、「振られたらしゃべる」スタイルが定着。その姿はさっそう、「人畜無害なおじいちゃん」に一歩を足を踏み入れていた。
  

 そこに来て、24歳のグラドルとの結婚である。しかも「できちゃった婚」と来た。だからこそ「キモい」と思われたのではないか。

 

■ 「おっきした■ッキーマウス理論」


 友達と話していて思い出したのは、当ブログではおなじみの「おっきした■ッキーマウスが迫ってきたらさすがに怖いだろ理論」である。
 
 ざっくり説明すると「おっきした■ッキーマウスが迫ってきたらさすがにファンも怖いだろ」という理論である。LikeとLoveの違いといえば分かりやすいだろうか。多くの女性は「■ッキーが好き」(Like)と彼にかけよっていっても、■ッキーが性的な視線を投げ返してきたら(Love)、拒絶してしまう。

 こう書いたら、以前、■ッキーマウスに性的興奮を覚える女性から激烈な批判にあったのだが、■ッキーでなくても問題ない。ハローキティでもリラックマでもなんでもよいのだが、要は「一方的に愛玩されるべき対象」が、性的な欲望を向けたときならではのグロテスクさが「キモい」のである。

 これが、今回の城島の結婚にも言えるんじゃないだろうか。
 
 「人畜無害のおじいちゃん」だと思っていた城島が、24歳の女性と結婚…。その衝撃は、一部の人にはもしかしたら介護施設の利用者による職員へのセクハラ」に匹敵するものだったのかもしれない。

 

■ 「マイノリティーに優しい人たち」がなぜ…?

 

 ここからは、ちょっと堅い話をしたい。

 ここまで「城島が24歳年下の女性と結婚したことが“キモい”という反応を呼んだ理由」について推測してきたが、ぼく自身は「キモい」と批判することに対しては全く賛同していないことを、言い添えて置かなければならない。

 自治体レベルでは法整備が進み、「誰が誰とでも法的なパートナーになれる社会」に少しづつなろうとしている時代である。
 言ってはなんだが、成人男女の「年の差」ごときで、人の結婚にケチをつけるのはおかしい。
 また、若い女性を年長の男性が騙している、といった声もあるが、それは24歳の成人女性を馬鹿にしすぎだ。「ロリコン」というほとんど誹謗中傷に近い表現も無数に出ているが、そういう人は「ロリコン」の意味をもう一度辞書で調べてみることをお勧めしたい。

 

 少し悲しかったのは「城島キモい」といった批判が、ぼくも少なからぬシンパシーを抱いていた「マイノリティーに優しい人たち」からも出ていることだ。
 
 百歩譲って、城島の結婚に「キモい」という「生理的な嫌悪」を持つのは仕方ないとしよう。しかしそれは、たとえば「同性婚がキモい」という「生理的な嫌悪」と同レベルの直感的なものであり、後者の「嫌悪」が表明してはならない気風が整いつつある今、なぜ前者の「嫌悪」は表明してよいことになるのか、ぼくは論理的に説明できない。 

 裏を返せば、「城島キモい」は言ってもいいと思っている人は、「リベラル」なのでなく、「ただ単にマイノリティーに“だけ”に優しい人たち」で、その先にある多様性とかそういう社会のグランドデザインを、ぼくと共有していなかったのだろうと思う。

 しかも、たちが悪いのは、「城島キモイ」と声高に叫んでいる人たちが、それを「正義」だと誤解している可能性があることだ。「生理的な嫌悪」は必ずしも「正義」や「公正」と並走しない。そのことをぼくは今回の件から学んだのだった。

ブラピがカッコよすぎ! 『ワンハリ』160分を余裕で耐え抜ける圧倒的な魅力

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◾️ 「シャロン・テート事件」だけの160分ではない

 クエンティン・タランティーノ監督の最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が公開されてほぼ3週間が経つ。

 1969年のハリウッドを舞台とする本作では、実際に起きた「シャロン・テート事件」を題材としており、この事件を予習しておいた方がよい、ということはすでに多くのメディアで伝えられていることである。
 ただしそれは、「予習してから観た方が分かりやすい」といったレベルではない。本作は全体がこの事件に向けて構造化されており、事件とその背景を予め知っておかなければ、タランティーノが何をしたかったかも分からないし、映画の鑑賞後感そのものが変わってしまう。事件をこの映画の鑑賞前に知っておくことは「予習」などでなく、「必須科目」だ。


 一方で、本作は約160分もある。それだけの長丁場が、実際に起きた事件1つで「保つ」わけではない。また、これだけの話題作で、すでに無数の観客がSNSなどに感想を書き連ねている以上、まだ観ていないが「ネタバレ」を食らってしまった、という人もいるかもしれない。
 
  しかしぼくは、「映画の結末」を知っていてもなお、この160分を完走するに値するもう1つの価値があると考える。
 つい先日も、約半年間、視聴者の興味だけをこれでもかと引っ張っておいて、散々な終わり方をしたテレビドラマがあったが、ああいう作品に怒り狂っている人は、ぜひとも、本作で「プロセス」の魅力を享受してほしい。
 
 この映画のクライマックスとは別のもう一つの魅力とは何か。それはブラッド・ピットである。結末を知っていようと、本作は彼を観るためだけに足を運ぶべきといっても過言ではない。

 

■ 史上最もカッコいいブラピ

 この映画のブラッド・ピットは、文句なしに、圧倒的にカッコいい。

 本作で演じるのは、レオナルド・ディカプリオが演じる落ち目のハリウッドスター、リック・ダルトンのスタントダブル(専属スタントマン)、クリフ・ブースだ。
 
 このクリフがどれほどカッコいいか。ブラピの演じた役でどの役が好きか、というのはファンの間で意見の分かれる問いだが、多くの人は『ファイトクラブ』のタイラー・ダーデンを支持することだろう。このクリフのかっこよさは、おそらく、そのタイラーに比肩する。

 それは感染性の魅力だ。例えば、本作にも登場するブルース・リーを劇場で初めて観て衝撃を受けた当時の多くの子どもたちが、彼の真似をして口をとがらせて、鼻先をクイクイッと親指でこする仕草をしたことだろう。あるいは、ドラマ『踊る大捜査線』がヒットした際に青島刑事の緑のモッズコートがバカ売れしたように、あるいはドラマ『HERO』がヒットした際、街中の男子が久利生公平と同じ色のダウンジャケットを着込んだように…。クリフのカッコよさは、そんなふうに感染力が高い、まねをしたくなるかっこよさなのである。もちろんまねしたところでキマるわけではなく、その多くは悲惨な結果になるのだが…。

 

■ 勇敢でワイルドな頼れる「アニキ」

 映画の冒頭で、早くも多くの観客は彼にハートを射抜かれてしまうだろう。
 ディカプリオ演じるリックのキャディラックを運転し、バーを訪れたクリフ。そこでリックはキャリアの曲がり角を感じ、ひと目もはばからず泣きじゃくる。クリフと反対に、リックはとにかく映画中、ずっとクヨクヨしてばかりいる。ハリウッドスターにありがちな精神的に不安定なキャラクターである。

 それをなだめるのは、立場上はリックの「部下」に当たるクリフである。クリフは自分の胸に抱かれるようにしてうぉんうぉん泣くリックに対し「駐車場で泣くな。あんたはスターだろ」と叱咤する。このように、映画では局面でクリフがリックの精神的な支え、アニキ的な立ち位置に立つ。
 その後、高級住宅街にあるリックの豪邸まで、キャディラックで送り届けるクリフ。調子を取り戻したリックが「成功したら、まずを家を買え」と上から目線のアドバイスをすると、はいはい、とばかりに聞き流すクリフ。ボスを送り届けた後、彼が帰りに乗るのは同じキャディラック、ではなく、使い古され、水色が褪せたフォルクスワーゲンである。
  
 ここで観客は「ああ、クリフは貧乏なんだな…」と察するわけだが、その直後、彼は、ボスを安全に送り届けていたときとはまるで別人の獰猛な運転で、夜のハリウッドを疾走し、仮住まいのようなキャンピングカーに戻るのだった。

 

 このシーンがとにかくシビれる。そのあとも、かすかでも「悪」の匂いを感じ取れば、危険を顧みずに飛び込む勇敢さや、売られた喧嘩はついつい買っちゃうやんちゃな一面など、クリフの魅力的な場面は幾度となく訪れる。

 クリフはボスのリックに対して、揺るぎない忠誠心を持ち続ける。しかし、それは彼の心根までをリックに売っぱらったことを意味していない。仕事にあぶれぎみで貧乏ではあるが、そんなことでは彼の高貴な自尊心と野性味は少しも曇ることはない。ほら、こういうときにぴったりの日本のことわざがあるではないか、「ボロは着てても心は錦」だ!

 体もムキムキマッチョ(ブラピ、50代に見えない!)。性的な魅力を全身から発散しているが、年若い少女からの誘惑はスマートにかわす。ちゃんと現代的にチューンナップした「魅力」だ。ワイルドでセクシーなクリフだが、欲望に任せて簡単に女を抱いたりはしない。


■ クリフがカッコいい「映画的な理由」

 なぜ、ここまでクリフはカッコよく仕立て上げられたのか。それはブラピがカッコいいからだろ、と言われたらそれまでだが、もう一つ、本作がやりたかったことと関係する、つまり「映画的な理由」がある。

 冒頭で書いたように、本作は「シャロン・テート事件」という揺るぎない現実を扱った作品である。一方で、クリフ・ブースという人物は実在しない。彼はまったくのフィクションであり、もっと言えば、「理想」の象徴である。本作がやろうとしているのは、現実を「こうであったらいいのに」という強烈な理想で塗り替えていく作業なのだ。そのためには、並大抵のフィクションでは駄目だ。圧倒的な、目もくらむようなフィクションでなければ。だから、彼はカッコいい、いや、カッコよすぎるのだ。
 
 そして、現代のわれわれが彼に魅了されてしまうということは、今の現実と理想の「差分」をも伺い知ることができる。「現実にこんなカッコいい男はいない」からこそ、われわれは魅了されてしまうのだから。現在、悪名を轟かせ続けている世界の最高権力者が、彼と同じ金髪の白人男性というのは皮肉すぎる話だが。

 
 とにもかくにも、勇敢なタフなクリフと、カッコいいけどすぐ泣いちゃうリックの2人がイチャイチャしているのを眺めているだけで、160分間、まったく飽きることない映画体験で、個人的にはタランティーノ作品で一番好き。
 あなたがもし、ドラマや映画の価値を最後数分の結末のみで測る人だとしたら、本作でプロセスの魅力に酔いしれてほしい。そしてクリフ・ブースという女も男も惚れてしまうキャラクターに圧倒されてほしい。

【映画評】黒い天使は善悪の彼岸で軽やかに…実在した美しすぎるシリアルキラーを描く『永遠に僕のもの』

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 何年か前に、アメリカで「イケメンすぎる凶悪犯」というのが話題になった。その顔を見たことがあるが、なるほど確かにイケメンである。このように美という主観と善悪の価値観は、残酷なまでにすれ違ってでも存在し得る。本作『永遠に僕のもの』は、かつて10代にして11人を殺して終身刑となったアルゼンチンの美しい青年カルロス・ロブレド・プッチを描いた伝記映画だ。このカルロス、通称カルリートスをロレンソ・フェロという同国出身の20歳の青年が熱演している。映画は当初、軽い空き巣を繰り返していたカルリートスが、悪友とつるみ始め、次第に強盗や殺人といった重犯罪に手を染めていく過程を描いていく。

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↑実物のプッチ

 

 映画はカルリートスを、全肯定こそしないまでも、優美に軽やかに描く。劇中では脱獄シーンも描かれるが、こんなに泥臭さから無縁の、軽やかな脱獄シーンがまるであっただろうか。

 

 カルリートスを軽やかに美しく描く。その映画の基調は、冒頭で「僕は地上に降りてきた天使」と彼自身が独白したことでほのめかされている。
 
 彼が天使であることは、その身振りの軽やかさだけを担保しているわけではない。彼は、天使が重力から自由なように、地上の常識に束縛されない。だからこそ彼は、地上の「所有」という概念に縛られない。軽やかに他人の民家に忍び入り、軽やかに好きなものをとっていく。命の概念にも縛られないから、まるで朝飯前のような顔で、寝ている守衛に対しても引き金を引く。窃盗と強盗殺人にも彼の中で大した違いはない。その恐ろしさがわかってくるのは後半にかけてである。
 
 彼は盗りたいから盗ったのはない。ただなんとなく、盗ったのだ。
 
 そんな彼の犯罪に「意味」を授けるのが、悪友ラモンだ。工業高校でカルリートスと出会ったラモンは、親子共々とんでもない大悪党だった。
 
 まず、親父がすごい。カルリートスが家を訪れたとき、短パンから金玉丸出しだったこの親父、早速、その場で銃の試し打ちを息子の友だちに勧めるのである。そのあとも、泊まりに来たカルリートスが夜中にトイレに行ったら、浴槽に腰を掛けて脚に覚せい剤を打っていたのだから、キャラが強烈すぎる。この家族でも1本映画できるよ!
 
 閑話休題、それまで自由気ままに盗みを働いていたカルリートスの才能を活かすことにラモンと父親が目をつける。「混沌」のエンジンに「秩序」のアクセルが加わったのだ。そこから、ブロマンスチックなカルリートスとラモンの“俺たちに明日はない”が始まる。

 

 カルリートスが天使なら、ラモンは地上の住人といえる。、どういうことかというと、ラモンは合理主義者だ。バレそうな山には手を出さないし、自分のイケメンに商品価値があると分かれば、家業であろうと犯罪からは脚を洗おうとする。彼は合理的で、地上の重力の支配下にある。カルリートスとは異なる人種だ。
 
 対するカルリートスは繰り返すが天使だ。天使には重力は通じない。同じようにカルリートの脳裏に計算はない。勝手気ままに、そのときしたいことをする。次第にカルリートスとラモンの間にあった友情には亀裂が入っていく…。その先は、ぜひ劇場で見てほしい。 

 

 印象的なラストシーンは、カルリートスが映画冒頭と同じダンスを踊っている。状況もロケーションも全く違うにもかかわらずだ。これは、カルリートス自身に映画中、何の変化、成長もなかったことが意味する。彼は美しい天使だ。天使に成長という概念はないのだから。
 

【映画評】これは恐ろしい「のび太とジャイアン」の共依存、イタリア発の怪作『ドッグマン』

Dogman

 なぜかこの人には頭が上がらない。なぜかこの人には上手に出れてしまうという「主従関係」は、誰しもあるだろう。イタリアの映画『ドッグマン』は、その主従関係が行った先にある取り返しのつかない凶行を描く。
 

 物語は冒頭、牙を剥く猛犬を、ある男が手なづけるシーンからスタートする。最初は人の喉笛さえ噛みちぎりそうな牙を剥き、どう猛な犬だったが、男の手練手管で次第に言うことを聞くようになっていき、男のトリミングに大人しく応じていく。

 

 この「犬と飼い主」「手なづける側と手なづけられる側」の関係が、この映画では重要だ。

 

 男の名前はマルチェロ、この映画の主人公だ。「ドッグマン」というトリミングサロンを経営している。二丁拳銃の小堀みたいな顔面で、これまた小堀のようにヒョロくてガリガリ。気のいい性格で、生きがいは犬の世話と、別れた妻が連れて行った娘との定期的な面会ぐらい。


 そんな彼には乱暴な友人シモーヌがいる。マルチェロとは正反対で、大きな体を揺らして歩く彼は突然、マルチェロの店を訪れれば、「良くない薬物」を要求する。

 マルチェロが代わりに買っておいてやったのであろうクスリなのだが、お金を払ってくれという彼の要求も聞く耳を持たず、シモーヌマルチェロから薬を奪うと、店主の制止も振り切り、その場でキメてしまう。奥にはマルチェロの愛娘がいるのに。
 
 ビジュアル的にも、小男のマルチェロと大男のシモーヌは好対照だ。強要する側と強要される側。この主従関係、日本人ならまっさきにこの言葉が浮かぶだろう。“のび太ジャイアン”。

 

 しかし、この映画のジャイアンは本物のジャイアンと少し異なる。シモーヌはどこに行っても自由きまま、乱暴に振る舞う。そのため彼は町のみんなから嫌われている。

 

 シモーヌの嫌われっぷりといえば、マルチェロと共に町で店を営む連中が集まり、彼を組織に頼んで「消す」相談がなされるほどだ。気の弱いマルチェロはその相談を止めることはしないが、積極的に話に参加もしない。なぜなら彼にとってシモーヌは友達だからだ。

 

 マルチェロの前では、普段はブルドッグのような迫力のシモーヌの顔にも、時折少年のような笑顔が戻る。

 この時点で観客からしたら、マルチェロは、その仕事と同様、どう猛なシモーヌという犬を最終的には手なづけるのではないか、と期待してしまう。

 

 しかし、状況は悪化していく。

 

 まともな仕事についている様子のないシモーヌは、基本的に金に困っている。

 

 そしてついに、マルチェロに、彼の友達を裏切るような相談を持ち込む。

 

 流石のマルチェロもそれだけはできないと首を縦に振らないが、いつものようにシモーヌの高圧的な態度に押されて、取り返しのつかない犯罪に加担してしまう。

 

 先述したように、最初はマルチェロが、どう猛なシモーヌを最後には手なづけるのではないか、という淡い期待があった。

 

 しかし、ここまでくると、どちらが犬でどちらが飼い主が分からなくなってくる。これではまるで、マルチェロが、シモーヌの忠犬ではないか。

 

 シモーヌに流されるがままに生きてきた末、何もかもを失ったマルチェロ。もはや手遅れというところまで来て、ついにシモーヌに「償い」を求めるのだが…。

 

 ストーリーと別に、本作はロケーションも素晴らしい。

 

 イタリアの寂れた海岸線の街なのだが、こんなにオシャレに寂れた街はみたことがない。どこか哀愁がただよい、どこか浮世離れしている。

 

 このロケーションが、作品で起きることを、イタリア特有の事象というより、もっと普遍的な寓話の雰囲気を演出し、日本人のぼくらの心にも十分届かせることに成功している。

 

 あなたはマルチェロなのか? それともシモーヌなのか?

 

 本作は、「未来の世界の猫型ロボット」という超法規的な解決策が与えられない「のび太ジャイアン」の共依存が行き着く先に待っている容赦なき結末を描いている。

【映画評】『二ノ国』は本当に“クソ映画”なのか

小説 映画 二ノ国 (講談社KK文庫 A 27-12)

 

 公開早々に「『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』より酷い!」というなかなか強烈な評が出回ってしまったが、公開前にムビチケを買ってしまっていたので、仕方なく観に行って来た。

 

 以下、あくまでもゲーム版未経験のぼくによる感想。

 

 ヒロインの永野芽郁の声がとにかく浮いている。ただし、これは永野さんだけのせいとは思えない。永野さんの芝居の魅力は、素っ頓狂とも言えるあの発声にあると思う。それはある意味身体性をともなってはじめて生きてくるのであって、その声を生身の身体から剥がして、ほぼそのままアニメ絵に当てているのだから、浮きまくるに決まっている。結果、「アニメの背景で永野芽郁の声が聞こえていた」だけとなった。これはキャスティングしたスタッフ側の責任でもある。

 

 ただ、永野さんの件を抜きにしても、アニメとしてのスペクタクル、視覚的な快楽がないので2時間ずっと退屈である。『プロメア』のあの独特の省略表現、色彩の何度も観たくなる中毒性がなければ、『この世界の片隅に』のような優しい絵柄で残酷な現実を描き出すギャップの衝撃があるわけでない。ただただ平凡だ。

 本作の主な舞台は現代(=一ノ国)と、そして二ノ国というもう1つのファンタジー世界だ。何より痛いのはこの映画を観ていて一瞬たりとも「二ノ国に行ってみたい!」と思えないところだ。

 そう思えないのは、単にぼくが老成してしまったからだろうか? いやいや、そんなことはない。今でも『となりのトトロ』を観れば、サツキ&メイと一緒にあの昭和の世界でトトロを探してみたくなるものだ。ファンタジーでもなんでもない、ほんとは退屈なはずの昭和なのに。

 そうした「行ってみたい!」の魅力がこの映画の二ノ国には全くない。

 

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 キャラクターデザインも、変なくせがない分、余計にとっつきにくい。表情の乏しいキャラクターたちを見ていたら、どこか既視感を覚えたが、あれだ。学校で見る道徳の教材のアニメや、新興宗教団体が関与しているアニメ映画のそれである。その手のアニメはだいたい後半から思想が強くなっていき、コクが出てくるのがある意味楽しみの1つだが、本作にはそれもないから余計に辛い。本作に足りないものは明確。宗教もしくは思想である。

 

 結論を言えば、あまり観るべきところのない、つまらない映画である。かといって、酷い方向に突出もしていない。このぐらいの出来の映画なんて無数にあるだろう。ひどく凡庸な一作だった。

 

 この映画を「クソ・オブ・クソ」「人類に対する挑戦」とばかりに罵る風潮には疑問が残る。観ないでクソクソ騒いで面白がっているのは論外だが、観た上でそこまで言うのもちょっと違和感がある。

 別にそれは「作った人がいるのだからバカしてはダメ」というナイーブなことが言いたいわけでも、「俺はもっと酷い映画を観ているぜ」とマウンティングがとりたいわけでもない。どこの誰がそんなマウンティングとりたがるのだ。

 何もかもをクソ映画に認定していたら、ガチのクソ映画が襲いかかってきたときに、きちんと面白がれなくなると思うのである。神作かクソ作か。その幼稚な2択ではなく、そのあいだのグラデーションを注意深く吟味していく。その先でこそいつか、目も眩むような神作と、何もかもを飲み込むブラックホールのような漆黒のクソ作に出会えると思うのだが、どうだろう。

「あおり運転男」で日本人の脳が溶けていく

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 きもとさーん! きもとさーん!

 「あおり運転男とガラケー女」のワードがテレビを席巻している。


 個人的には、ワイドショーは見ていると自分の脳が溶けていく音が聞こえるのであまり見ないようにしているのだが、以下のコラムニスト武田砂鉄さんのツイートを見て、がく然とした。

 
 もう男女共々逮捕され、あとは法的な処分を待つ段階である。それ以上に何があるのだろう。しつこすぎるのではないか。

 

 でも多分これは仕方のないことなのだろう。

 ぼくが明日の番組の編成を任されたスタッフだとしよう。「あおり運転」以外の、自分がもっと有益だと思うニュースをトップに持っていくとする。

 すると上司に「バカヤロウ、おまえ頭沸いてんのか? 今は『あおり運転男』のターンだろうが何年この世界にいんだコンチキショー」などとどやされ、編成は総とっかえの憂き目にあうのだろう。

 かくしてスタッフは「あおり運転男」の旧友や、「あおり運転男」の卒業アルバム、好きなバンドなどの情報探しに奔走し、ラテ欄は「あおり運転男」で埋め尽くされる。

 

 バカヤロウはどちらだという話だ。

 

 その点において、「見に来た人の数」で収益を得ている多くのネットのニュースサイト、ポータルサイトも変わりはない。

 

 みんな、ニュースバリューがあるから「あおり運転男」を報じているのではない。そんなことは思ってはいない。
 何事もつかみが大事である。あの衝撃的な降車後のオラつき方+運転手へのパンチが、インパクトあっただけなのだ。人間は大抵、ブチギレている人に目が行く。一昔前のプロ野球の乱闘と変わりはない。

 そこになぜ写真を撮っているのか分からないガラケー女、指名手配、ある意味衝撃的な逮捕シーンが加わり、かくして「あおり運転男とガラケー女」が視聴率を持つ“優良”コンテンツに育ったのだ。

 そこから、いつものように「順序」が逆になる。「あおり運転男」にニュースバリューがあるから特集し、視聴率を取るのではない。視聴率を取るから「あおり運転男」をするようになるのだ。


 いい加減、そういうのはやめないだろうか。報じるべきニュースはいくらでもある。奇しくも昨日、パブリックコメントが締め切りだった水道民営化なんかは、もっと大きく報じられるべきだ。少なくとも、あの何度も擦り切れるほど見せされられた蛇行運転の映像よりは。

 

 この手のうんざりするマスコミの横並びを「一抜けた」をしたほうが、むしろ視聴率が取れるのではないか、と考えたこともあるが、依然、そんなことをする番組は見たことがない。 

 角度を変えると、スポンサーとしてはどうなのかと思うのだ。番組を作るのにはスポンサーが必要だ。お金を出すからには、スポンサーもたくさんの人に番組を見てもらいたいと思うのが普通である。

 しかし、あんな脳が溶けていきそうなワイドショー番組のスポンサーだったら、「わたしたちが金を出してウンコを作らせています」と言っているようなものである。

 視聴率は悪くてもいい番組を作らせて、「わたしたちがこの番組のためにお金を出しました」と胸を張る、という考え方はないのだろうか。もしもお金を出し、名前を彫ってもらえるなら、街のど真ん中にあって目立つけど何の役にも立たないオブジェより、町外れにあって地味だが、住人にはなくてはならない小さな橋がいい。そう思うのは、ぼくぐらいのものなのだろうか。