いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

「会社のバレンタイン」が苦手です

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 「会社のバレンタイン」が苦手だ。別に、自分はチョコがもらえないから、とかそんなベタな理由ではない。


 幸い、今までの会社はどこも「女がコピー、お茶汲み」みたいな古臭い性役割が残っているところはなかった。今の会社もそう。極端な話、性差なんて「トイレが別々」ぐらいしかない。ところが、なぜかこのバレンタインの文化だけは残っている。


 普段、性差をほとんど意識していないのに、バレンタインにチョコをもらうと、「いちお、女としてやらせていただいてますんでね! バレンタインデーやらせてもらっておきますね!」という無言のメッセージを受け取ったようで、なんだか申し訳ない、いたたまれない気持ちになってくるのだ。誤解を恐れずにいうと、ぼくからすればあれは「オカンにもらうチョコ」に近いのだ。


 そんな気遣いは、異性としてその先に何か発展性がある相手、あるいは発展してほしい相手にやりなよ、と思うのだ。

 

 「性差なんて意識していない。考えすぎだ」と言われるかもしれない。では、「バレンタインデーにチョコを渡す男」が増えただろうか?


 ホワイトデーはやらないのか、と言われればやるが、それは反対給付、お返しの意味合いが強い。裏を返せば、ホワイトデーをやらなければならなくなる理由がこのバレンタインデーなのだが。

 

 幸い、最近では「友チョコ」という概念が普及しているという。早く、「贈りたい(同性異性に限らず)人が、贈りたい相手」に贈る文化になればいいのに。


 ああ、今日は出社がいつも以上に憂うつだ。

『クリード 炎の宿敵』 ベタでOK! 何度でも見返すべき『ロッキー』シリーズの大切な教え

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 ロッキー・バルボアの盟友アポロの息子アドニスクリードを主人公に迎えたボクシング映画第2弾、『クリード 炎の宿敵』。

 念願の世界チャンピオンとなったアドニスマイケル・B・ジョーダン)の前に、父アポロの宿敵イワン・ドラコ(ドルフ・ラングレン)とその息子ヴィクターが現れ、宣戦布告。セコンドにつくロッキー(シルヴェスタ・スタローン)は相手にするなと止めるが、アドニス聞く耳を持たず、リングに上がるのだが…。

 

 ストーリーは呆れるほどに単純明快だ。強い敵が出てきて敗北、なにくそと特訓! 特訓! 特訓! 特訓! を重ね、リベンジに挑む。ともすれぼ、ベタだとかありふれているとさえ思われかねない。

 

 しかし、本作は「ありふれている」や「ベタ」といった見方とは別次元のところにある。教科書の重要な箇所は下線を引いて何度も読み返すだろう。それと同じだ。

 

 『ロッキー』から続くその大切なメッセージとは何か。それは「テメエはテメエの人生を戦え」。ボクシングという1対1のスポーツがテーマのシリーズだが、実はこのシリーズが教えてくれるのは「自分の人生を戦えや、コラ」ということなのだ。

 

 だから今作も単なる「仇討ち」と捉えてはならない。

 たしかに、父アポロをリング上で殺した敵イワン・ドラゴと、その息子ヴィクターが登場する本作であるが、本作のメインテーマは「父親の敵討ち」や「復讐」ではない。


 それは、『ロッキー4』の内容の薄さの原因とも繋がる。
 怒る人がいるかもしれないが、ぼくにとってシリーズでもっとも内容が薄く感じられるのは、本作と大きく関係する、アポロとロッキーが父ドラコと対決した過去作『ロッキー4』だ。
 “米ソの代理戦争”という派手さがある反面、見返してみて物足りないのは、そこに「仇討ち」というテーマしかないからだろう。アポロの仇を討つためにリングに立ったロッキーには、内発的な戦う理由がない。それは『ロッキー』シリーズの本質と少しちがうのだ。

 

 本作でわれわれの感動を誘うのは、ドラコ親子の描写である。

 30年前のロッキー戦の敗北によって栄光を奪われ、妻に裏切られ、国を終われた父イワン。そんな父の背中を見て育ち、極貧の生活の中で父と鍛錬を重ねてきた息子ヴィクター。ついに栄光が手に届く寸前のところで垣間見られる親子愛にわれわれはグッとくるのである。

 

 アドニスとヴィクターの対決が熱いのではない。アドニスの人生があり、ヴィクターの人生がある。アドニスが自分の人生を、ヴィクターが自分の人生を戦い、その2本が線が交錯する。だから、クライマックスとなる2人のタイトルマッチは感動を禁じ得ないのである。

 

 したがって、『ロッキー』シリーズにも、今後続くであろう『クリード』シリーズにも「目新しさ」を求めるのはナンセンスだ。これらのシリーズは定期的に見返して枯渇した精神のガソリンを補充するためにあるのだから。

「少し休む」ことは「惰性で続ける」よりずっと勇気がある

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※イメージ画像

 寝室に彼ら5人のポスターを貼り、毎晩5人に見守られながら眠る実家の母の容態が心配だが、まあそういうことで、大してファンでもないぼくもびっくりした。

 ただ、蓋を開けてみたら、これほどまでに共感を覚える「説明」の類はひさびさに出くわした。

 特にグッと来たのは以下の部分。

正直この仕事をしていると、先のことが決まってたりという中でお休みする。例えば釣りしてても、明日は仕事だとか、いろんなものが入ってきてしまう自分がいて。それを1回自由になるためには、なくすじゃないですけど、それこそお休みをするっていうことなのかな、という思いもあり、そういう自分にも1回なってみたいなという思いもあります。

「家族や友達以上の存在」嵐・記者会見詳報 : まとめ読み「NEWS通」 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

 

 これだよ大野くん…。なんだろう、この言葉を読んだときに覚えた、圧倒的な親近感。日本のスーパーアイドルの口から、まるで昨日の自分が愚痴っていたようなことが飛び出したことに感動を覚えた。会見の最後の方で、少し打ち解けたムードもあって、大野くんも晴れやかに語っていた箇所だから、余計そう思うのだろうか。

 心身の不調でも、メンバーとの不和でもない。仕事が嫌いなわけでもない。ただ、何よりにもまして彼は一度自由になりたかったのだ。

 

 以前「辞めることは続けることより難しい」という話を書いた。

 怒られるんじゃないかという恐怖、辞めたあとにどうするんだという不安、罪悪感、環境を変えることそのものへのストレス、それらいろいろなことが、人に「辞めたい」と言うことを阻む。だから「休みたい気持ちを押し殺して続ける」ことは、実は「辞めたい」と意思を伝えることよりもずっと簡単だ。

  事務所を辞める覚悟で彼がそれを口にし、その覚悟を受け取った4人が、関係各所、ファン、そして大野くん本人の納得できる最適解が、2020年末の活動休止だったのだろう。お見事というほかない。

 そんな彼らに「無責任」という言葉は、たぶん当たらない。

西武そごう「わたしは、私。」に感じたモヤモヤの正体

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サムネイル 困ったときは いらすとや…。

 西武そごうが元日、新聞に掲載した全面広告がネットの一部でボヤを招いている。

 ぼくもツイッターで流れてきたのを始めて読んだとき、「一見、耳障りの良い言葉が羅列しているように思えるけど、なんかモヤモヤする」という読後感をもってしまった。

 年始の連休という貴重な時間を使って、この「モヤモヤ」について考えていたら、ある原因が分かった。

 

「わたしは、私」に感じるモヤモヤの正体

 一言でいえば、この「モヤモヤ」の原因は「同じ文章で、あたかも同じ話題のように2つの話題が並べられていること」へのモヤモヤではないだろうか。

 

とりあえず、以下が全文。

女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
女であることの生きづらさが報道され、
そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。

今年はいよいよ、時代が変わる。
本当ですか。期待していいのでしょうか。
活躍だ、進出だともてはやされるだけの
「女の時代」なら、永久に来なくていいと私たちは思う。

時代の中心に、男も女もない。
わたしは、私に生まれたことを讃えたい。
来るべきなのは、一人ひとりがつくる、
「私の時代」だ。
そうやって想像するだけで、ワクワクしませんか。

わたしは、私。

 

 知らなかったのだが、実はこの「わたしは、私。」は2017年から続いているシリーズで、今回突然出てきたわけではない。そのことからも分かることがあるが、後述する。

女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
女であることの生きづらさが報道され、
そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。

 「女性だから、減点される」の文言は、一部の私大医学部の受験で次々に発覚している女子受験生に対しての不正な「減点」を想起させる。

 そのことからも、この文章が「女であることの生きづらさ」を今日的な「社会問題」として取り上げようとしていることは明白だ。

今年はいよいよ、時代が変わる。
本当ですか。期待していいのでしょうか。
活躍だ、進出だともてはやされるだけの
「女の時代」なら、永久に来なくていいと私たちは思う。

  途中で挟まる謎のダイアローグ風2行がノイズになっているのだが、それは脇に置いておこう。

 現政権はどうも「女性の輝ける社会」を目指しているそうだが、そんなお題目を並べても内実がともなっていないなら無意味だ、ということが言いたいのだろう。たぶん。

 

 では、この「社会問題」パートを受けて、後半の文章で女性に対して「強要」し、「無視」し、「減点」する(この文章でなぜかはっきりと明示されない)主体に対する反抗や、対抗策が描かれるのかというと、そうではない。

 時代の中心に、男も女もない。
わたしは、私に生まれたことを讃えたい。
来るべきなのは、一人ひとりがつくる、
「私の時代」だ。
そうやって想像するだけで、ワクワクしませんか。

 一転して、後半で訴えているのは「個人の生き方」の問題である。

 

 このように「女だから、」から「私たちは思う。」までの前半の行で書かれているのが「社会問題」であるのに対し、後段の「時代の中心に」から最後までで描かれているのは「個人の生き方」である。

 前半と後半は対になっているようでいて、実は全く対になっていない。全く別の話をしている。ぼくが感じた「モヤモヤ」を感じたのはきっとこの「ズレ」にこそあると思われる。

 論理的に考えても、後者が前者の処方箋にはなり得ない。いくら個人が「わたしは、私」と思っていても、「強要」し、「無視」し、「減点」する側がそう思ってくれるとは限らない。もしあなたが女性だとして「わたしは、私」だと思って受験に臨んでも、採点する側は「女性」とみなして減点するだろう。アカンけど。

 前者の「社会問題」を解決するにはやはり、「社会が変わる」しかないのだ。

 

なぜケーキをかぶった女性は棒立ちなのか?

 このコピーに並行して、背景に印刷されているケーキ(パイ?)をかぶる女性の姿に対しても疑問の声が上がっている。

 件の女性はケーキを丸かぶりしているせいで顔は見えず、棒立ち。ケーキは他人から投げつけられているようにしか見えず、眼差しが遮断された棒立ちは「無抵抗」を否が応でも想起する。

 この女性、実は女優の安藤サクラなのだけれど、たしかにお世辞にも「わたしは、私」を表現する絵には読みにくい。女性の主体性を表現したいなら、せめて自分の手でケーキをかぶっているかのような演出にすればいいのに。

 その謎を解く鍵は、もしかしたら広告とともに公開された動画にあるかもしれない。

 以下が公式の動画。

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 この動画を見ると、少し印象が変わる。動画の中の安藤は、広告の1枚絵よりは躍動的で楽しげだ。

 この動画の中から、「わたしは、私」にマッチする瞬間は切り取れたはず。

 ではなぜ、あえてあの写真にした? という話ではあるのだが。くれぐれも「選んだ人のセンスがないのでは?」と真っ向からぶった斬るようなことはしないように。

 

時事問題に“いっちょ噛み”して失敗した?

 冒頭でも書いたように、実はこのシリーズは2017年から続いている。17年に起用されたのが昨年亡くなった樹木希林で、18年は木村拓哉だった。

 興味深いのはメッセージの傾向で、前の2年のメッセージはどちらも「わたしは、私」というタイトルのとおり、「個人の自由を楽しもう」というものだったということ。今年でいうと、後半の部分がそれに当たる。

 逆から言えば、今年のコピーの前半の「女だから、強要される」から始まる部分は、前2回のコピーにはほとんどない要素なのだ。

 ここから推測するに、この妙な文章の真相は、送り手側が、#Metooに端を発する昨今のトレンドを、安易に取り入れようとして失敗した、ということではないだろうか。

 

 今回の件で注意すべきは、前半も後半もそのセンスに賛否はあれど、単体ではそれほど間違ったことを言っているようには思えない点だ。「活躍だ、進出だともてはやされるだけの 『女の時代』なら、永久に来なくていいと私たちは思う」というのも分からなくはないし、「わたしは、私に生まれたことを讃えたい。 来るべきなのは、一人ひとりがつくる」というメッセージも、どちらかというと賛同したい。

 ところが、それらを混ぜてしまうと最悪な“含み”をもたせてしまう。

 「女性の生きづらさ」を挙げるだけ挙げておきながら、「時代の中心に、男も女もない」と続けるのは、下手したら最悪の“開き直り”になってしまう

 さらに言えば、広告の送り手が「(たぶん)良かれと思って」であるからなおさらタチが悪い。今後、この手のトピックで「知った風な口ぶりで致命的に間違っている言葉」が世の中に溢れかえらなければよいのだが…。

塚本晋也監督『斬、』の主役が「刀」である理由

 

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怖え…(観た後なので今もビビっている)

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 11月公開なのにずっと観に行けていけてなかった塚本晋也監督の初の時代劇『斬、』、見てきた。凄まじかった。

 クレジットは「池松壮亮」がトップに来て、間違いなく彼が演じる杢之進(もくのしん)が主人公なのだけど、この映画のもうひとつの主役は「刀」だ。多くの人が感じることだろうが、この映画の刀の描写に力が入っている。

 「音」1つをとってもそれがよく分かる。この映画に出てくる刀はどれも「音」が豊かで、そして大きいのである。鞘走りの音、鍔鳴り、手で握り直すときに出る音、さまざまな豊かな音が描かれ、そしてそれらがどれも過剰なほど大きく聞こえる。

 これにより、刀が単なる「刃物」「武器」というもの以上に、霊的な存在感を帯びてくる。正直、ぼくは途中から、見ているだけで斬られてしまうかのような、独特の緊張感をこの映画の中の刀には感じていた。

 そのようにして、本作が「刀」で描こうとしているのはおそらく、「使わないからこそ意味がある、一度使ってしまったらとりかえしのつかないもの」ではないかと思う。それをぼくらは普段、「抑止力」と呼ぶ。「使うことが目的」なのではない。「つかったら終わり」なのである。この映画で刀たちが帯びるあの神々しさは、それの象徴のような気がする。

 映画では、ピリピリとした緊張関係が続く中、ある人物の刀がついに抜かれ、使われてしまうことになる。杢之進はそのことを人づてに聞き、「なんていうことを…」と怯え始める。彼の胸に去来していたのはおそらく、ただ単に「復讐の終わりのなき始まり」への予感ではない。「使わないからこそ意味がある」抑止力が使われてしまったことへの恐怖なのである。

 現在の政治情勢を直接的に描く描写は(たぶん)、1秒もない。

 けれど、寓話だからこそ届くメッセージがある。いろいろと緊張感が高まっている今だからこそ「使わないからこそ意味がある、一度使ってしまったらとりかえしのつかないもの」について考えを巡らせるのもいいのではないだろうか。

 

クロちゃんを批判できる人は95%もいない

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 すっかりお騒がせ番組となった『水曜日のダウンタウン』であるが、ここ最近注目を集めていた某恋愛リアリティ・ショー風コーナー「モンスターハウス」の結末で、クロちゃんがまたしても批判にさらされた。

 しかし、今度ばかりはぼくはクロちゃんに対して「正直者」という印象をもったのである。
 
 (※この記事は以後、「あの企画は台本あるからw」「ヤラセだからw」といったツッコミは受け付けない。筆者はその可能性について百も承知であり、その手のツッコミで思考停止してしまう人間たちは「この議論の入口にも立てていないかわいそうな人」「頭がいい気でいるが実は一番頭の悪い人」だからだ)
 
 男女六人が1つのシェアハウスで一緒に暮らしたこのコーナー。クロちゃんは最終話において、二人の女性に告白した。一人に断わられたあと、すぐにもう一人に告白。2人目の女性には返事を保留されていたが、その模様を全国ネットできっちり放送されたあと、生放送において無残にも散った。


 番組では、視聴者投票でクロちゃんを「許す」「許さない」の決が採られ、95%という圧倒的な多数の「許さない」の票が集まった。

 特にクロちゃんが二人の女性に相次いで(同じ指輪を捧げて)告白したことが訴状に上がっていたが、果たしてこれはそんなに許されざることなのだろうか。
 これだけ性にオープンになった現代にもまだ、うっすらと「一途主義」のようなものが蔓延している。「複数の相手をキープするのは不純」「思いは誰か1人だけに全力投入されなければならない」みたいな思想がいまだにマジョリティなのだ。

 たしかに、1人の相手だけに好き好き好きの一本槍で行って、そのままゲットできるのであれば、それに越したことはないだろう。
 ただ、実際のところは恋愛がそこまで簡単にうまくいくことのほうが稀である。ほとんどの男女は、少なくとも交際までは複数の相手と同時並行的にやり取りを重ねるものではないか。
 
 たとえ一度断られても諦めずにもう一度行く。それも自由であるが、一方で複数の手駒を持ち、「こちらがダメならあちらへ」と切り替えていくことも可能なはずである。

 恋愛も需要と供給の問題である。自分の思いだけではどうしようもない。自分のスペックとの兼ね合いで、妥協に妥協を重ねて成立するものではなかったか?
 それを、2人の女性に同時期に告白したからといって、批判されるようなものだろうか。それともあの「許さない」に投じた全国の95%の視聴者は、いつも1人の相手に全力投入すれば、恋人をゲットできるような手練の持ち主たちだったのだろうか。
 
 「お前らだって同じようなことはするだろ」。そういう気持ちを何年か前にも味わったことがある。
 
 それはあるテレビ番組で、男性お笑い芸人がハニートラップにひっかかる、というドッキリだった。ドッキリのターゲットが仕掛け人の美女に引っかかり、一夜を共にできると思いきや、床が抜けて1階に落とされるという内容だった。
 ドッキリの途上、その男性芸人が美女と二人っきりになると、赤ちゃん言葉を使いだしたのだ。それを、別室でこっそりながめていた女性タレントどもが、盛んに「気持ち悪い」とか抜かし、バカにしだした。そのことにぼくは憤りを感じたのだ。
 
 恋愛は、人間がいつも心にまとっている鎧を脱げる数少ない瞬間である。二人っきりになれば、つい赤ちゃん言葉になってしまう人だっていることだろう。人が一番イノセンスに、無防備になった瞬間。それを笑う女たちに腹が立ったのである。
 
 そうしたドッキリ自体が腹立たしいとか、そういうことではない。ドッキリで笑われるのもお笑い芸人の立派な仕事だとぼくは思う。ぼくが言いたいのは、意中の女性と2人っきりになり、赤ちゃん言葉を使うことを女たちがあざ笑ったことで、「どうせお前だって恋愛中はそんな風になるだろ」と思うのだ。
 
 今回、クロちゃんを擁護したくなったのは同じことだ。42歳の独身男が、カメラが仕掛けられているのは承知の上で、なんとかして恋人を作ろうと悪戦苦闘した記録なのである。それを、誰が批判できるのだろうか。
 複数の女性に告白したクロちゃんに石を投げられるのは、常に1人の相手だけを追いかけ続けている者だけだ。そしてそんな人は全国の95%にのぼるワケがないのである。
 

ぼくの理想の職場は”学校”だった

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別に大晦日に書くようなことではないのだが、30年と少し生きてみて、本当はもっとずっと前に薄々気づいていたが、ただ、でもそれが事実ならちょっと辛すぎる、嘘であってほしい、と思っていたことが、ここ最近確信に変わりつつある。

 

それは、ぼくが労働に向いていないということだ。基本的には働きたくないのである。これは約7年ほど働いてみて分かったことである。

 

逆さにして振ってみても、労働意欲のしずく1つ垂れてきやしない人材である。とりあえず、言われたとおりに職場に行き、3分に1度「早く帰りたい」と思いながら仕事をする毎日である。

 

ただそれでも、昔はもっと楽しく働けていていたという記憶がある。それはおそらく前職でアルバイトだった時代だ。

そこには、社会通念の通じない頭のおかしなメンバーが揃っていて、楽しくワイワイがやがややって、時間がくれば「じゃあねー」と言って三々五々帰っていく。

まさに「学校」みたいな職場だった。

働いていたのではない。あの頃のぼくは「学校」に通っていただけなのだ。

もちろん本当の教育機関ではない。あくまでもそれは、ぼくの中の概念上の「学校」であるが。

 

勘違いしてほしくないのは「学校」も無条件に良い場所ではない、ということ。ぼくが子どもの頃だって、基本的には学校も「早く帰りたい場所」だった。

 

ただし、「じゃあ明日から来なくていいよ」と言われれば困る。友達に会えなくなるではないか。

一番の楽しみは「学校でみんなと会って『早く帰りてえなあ』とボヤきながらタスクをこなすこと」だ。一見矛盾しているようであるが、元来人間とは矛盾をはらむものではないか。

怖い“先生”も必要だ。完全な自由が不自由であるのと同じで、怖い先生の目を盗んで、仲間とワイワイやるのが楽しいのだ。

 

前職が「学校」でなくなったのには、単純な理由がある。ぼくが契約社員になってしまったのだ。困ったことに、ぼくのような人間でも多少は仕事ができてしまうのだ。

 

もちろん社員になったら給料も増えたし、裁量はグッと広がった。

でもぼくは大きな喪失もしていた。

契約社員になったぼくにとって、会社は「学校」でなくなったのだ。

 

アルバイトや外部のスタッフの管理をしなければならない。新しい企画を練らなければならない。忙しくてつまらない。同等でなくなったアルバイトの友達に「早く帰りてえ」とボヤくこともできなくなった。これが一番大きいかもしれない。

 

かくして、それまで「学校」という皮を被っていた会社が、むき出しの会社としてぼくに迫ってくるようになったのである。

 

会社は変わったけど、今も会社はあのころのような「学校」に戻ってくれない。  もうあんな感覚には戻れないのかもしれない。