いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

「会話のワンツーパス」を求めてくる人ってなんなの?

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「会話のワンツーパス」を求めてくるやつがウゼーという話で、最近友だちと盛り上がった。

 

例えば、AさんとBさんが雑談していたとする。Aさんが「最近、サモ・ハン・キンポーに興味があるんですよー」と話す。対するBさんは、実はサモ・ハン・キンポーに超詳しい。好きすぎて香港までサモハンに会いに行き、死亡説が流れた際には涙を流したほどだ。


そんなBさんの返しは「え、まじ? 俺、ソフト化されてるサモ・ハン出演作は全部持ってるよ! サモ・ハンについて教えてあげるよ!」が"正しい"ことになる。Aさんは「え、マジですか? ありがとうございます!」と感謝することだろう。

 

しかし、こうした会話は偶然の産物で「ない」ことが多々ある。Bさんがサモ・ハン・キンポーに詳しいのは、その界隈では有名な話なのである。Aさんも当然、Bさんがサモ・ハン・キンポーが詳しいのは知っていたのだ。

 

なのに、前段の会話でAさんはあえて、「サモハン・キンポーに興味がある」ことしか明かさない。Bさんから「教えてあげるよ」の言葉を引き出すまで……。

 

これが、ぼくの言う「会話のワンツーパス」を求められる時だ。


パスのワンツーとは、サッカーやバスケットボールなどで、Aが出したパスを受け取ったBが、ワンタッチでAが走り込んで来る場所に折り返すあれである。

Aが、「こう言うパス」というイメージ通りのパスが戻ってくるのを期待しながらBへ出すパス。そんなパスと似ているのが、「会話でのワンツーパス」のことだ。

 

サッカーやバスケなら、AとBは勝利という目的を共有しているからいいだろう。

しかし、ぼくらのやっているのはただの雑談だ。別に同じゴールを目指して共闘しているわけではない。いや、「ワン」のパスを出すAには明確な「ゴール」があるかもしれないが、こっちはそんなゴール知るよしもないのだ。

 

「今日は暑いですね」「暑いですね〜」ぐらいの「ワンツー」ならまだいい。会話の空白を埋めるためのもので、深い意味はない。
ここでターゲットにしているのは、「サモ・ハン・キンポー」の例のように「特定の誰かを狙い撃ちし、かつ、『こう言うパスを返して欲しい』という期待が見え見えのパス」のことである。

 

どうして、Aさんみたいな人は素直に「Bさんってサモ・ハン・キンポーに詳しいんですよね? 色々教えてください!」みたいに言えないのだろう、と本気で疑問に思う。回りくどいAさんにも、そして相手の狙いを忖度して「ツー」のパスを返してしまうBさん(あるいはぼくだ)にも腹が立ってくる。

 

だから、「会話のワンツー」を成立させるのが癪に触るから、最近ぼくなどは「ワンツー狙い」のパスが来ても無視して触らなかったり、明後日の方向に思いっきり蹴ってやったりする。サッカーでそれをやったら監督はカンカンだろうし、サポーターからは罵詈雑言だろうが、そんなの知るか。

 

ただ、そうしたワンツーを期待したパスが来たことに気づいてしまった時点で、受け手のぼくらは負けなのだ。そのパスを丁寧に返して「ワンツー」を成立させても、意地悪であえて成立させなかったとしても、相手について考えさせられている時点で、我らは貴重な人生のロスタイムは消耗しているのだ。

 

人生のゲームは、常に忖度する側の負けなのだ。ああ無念。

【書評】(当時の)スター批評家二人が考える「批評の意味って何?」 東浩紀×大塚英志『リアルのゆくえ』

 

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

 

 

新旧のおたく/オタク批評家の中でいえば、(2009年当時の)ネームバリューではおそらくトップクラスの東浩紀大塚英志の二人が、2001年、2002年、2007年、2008年と不定期に行った対談集。

 

動ポモ2(東著『ゲーム的リアリズムの誕生 ~動物化するポストモダン2~』)を読めばわかるが、東は大塚の批評や理論に多分にインスパイアーされている。がしかし、この本では二人の考え方の違いが露骨に現れている。

 

自称「戦後民主主義者」の大塚が、東に対してくどいほど繰り返して問うのは、「批評家の責任」と「公共性」(いわば万人共通の“リアル”)。要するに、近代文学とその批評によって形作られてきた社会の公共性が崩壊した現代において、新しい形の公共性を構築することが、批評家とその書くものに課された責務ではないのか、ということだ。新しい世代の批評家の怠惰に対し、大塚のその疑問とも怒りともつけがたい感情が、おそらく世代きっての論者である東にもろにぶつけられる。


しかし大塚に対して東は、ここまで島宇宙化が進んだ現代ではそんなことは不可能だとやんわりとかわし、これからは公共性に代わり、どうすればリソースが均等に再配分されるかという技術的、システム的な問題になるだろう予期する。批評にはもうリアルを構築する力はないと言い切るのだ。すると今度は、大塚がじゃあなんで批評するの?と食ってかかるのだが、東は「友達を増やしたいから」と返す。

 

その後も二人は手を代え品を代え、同じような問答を繰り返す。大塚がたびたび、「ここで対談を終わらせてもいい」と言って東を挑発するが、本当にそこで対談は終わってよかったりする。繰り返しているだけなのだから。

 

ところで、この対談集自体は、近代的なのだろうか? ポストモダン的なのだろうか?
近頃のお互いを褒め称えるだけの生ぬるい他の対談集に比べれば、ずっと闘争的でありその意味では近代的である。

 

しかし、互いの話が通じていないという意味では、そして、無駄に長々と量だけがかさばる本になったという意味では、ポストモダン的でもある。

 

※例によって、過去のレビューを整形した上での再掲載である。最近、1200件を超えていたアマゾンレビューが謎の大量粛清にあい、3件にまで減ってしまった。上記レビューも削除されたものの一つ。レビューはあくまでも当時のぼくの「読んだ感想」であって、必ずしも現在の心境や、現在の状況を反映しているわけではないが、Gmailの底で下書きとして反永久的に眠らせておくのは、創造主としてあまりに忍びなく、ここに再掲する。

【書評】「ブス」はいかにして生きるべきか 漫画家×哲学者がガチ対談『不美人論』

 

不美人論

不美人論

 

 

女の眼前には生まれたときから、二つの「道」が横たわっている。美人の道とブスの道である。どちらを歩むかは、はっきりいって天と地ほどの差がある。本書は「ブス」と自認するマンガ家・藤野美奈子と、哲学者西研の対談。ただ、出倉さんという編集者が西氏の存在をかき消すぐらい全面に出て活躍している箇所もあり、鼎談と表現してもいいかもしれない。

 
自称「ブス」の女子二人が、これまでの人生がブスであるがゆえにいかに不遇であったか、そのエピソードを時に笑いあり時に涙ありで西研に吐露していく。それに対して西氏が優しく「哲学的考察」をほどこしたり、自分の子供時代、大学時代の男の側の経験も開陳したりしていく、という構成だ。
 
ブスに生まれてしまったら、下手にブリっ子もできないし、合コンでも相手にされない。就職は不利だし、男の子には「勃たない」と言われてしまう始末。踏んだり蹴ったりなわけである。それはフェミニズムだけでは解決されない問題だ。「美醜で差別するな!」は政治的には「正しい」けれど、「正しい」から男のアソコが勃つわけではない。「人権」や「平等」というロジックでは、美醜の問題すべてが解決することはできないのだ。
 
ではどうするか。本書の提示する処方箋は、いわば「自分をもっと愛しなさい」ということ。ただしそれは、盲目的に自分の世界だけに閉じこもることではない(それはこの本の中でも「ブリっ子」で痛いと批判されている)。
 
 
そうではなく、自分がブスだということをはっきりと自覚した上で、もっと愛されたい、もっとかわいいと思われたいと努力することである。そうすることで、自分がブスだという事実を距離をとって見つめることができるのだ。何よりそのことは、たぶんかつては深刻に悩んでいたことを本書の中で面白おかしく話してくれた藤野さんが、魅力的であるし、ステキな女性であるということによって、体現されている。

【書評】セックスエリート気取りの金融×学系男子は加藤鷹著『エリートセックス』を読んで恥じて、そして逝け!

 

エリートセックス (幻冬舎新書)

エリートセックス (幻冬舎新書)

 

 

6000人である。年間の自殺者の数ではない。我らがザ・セックス・マスター、AV男優の加藤鷹が、これまで抱いてきた女の数だ(初版が2007年であり、今ではさらに人数が増えているはずだ)。本書は、これまでにも数冊の著作がある鷹さんが、幻冬舎新書のために書き下ろした新作。あとがきによれば、この出版の前年に愛車が運転中に原因不明の爆発炎上を起こしたという。人生の節目に大きな交通事故に巻き込まれるという著者(お祓いに行った方がいいと思う)は、本書もその節目の本と位置付けている。

 

読んでみると、本書のタイトルでもある「エリートセックス」とは、きわめてアイロニカル(分裂した)な概念であることがわかる。鷹さんに言わせれば、「自分はテクニシャンだ」という"エリート意識"をもつことはタブーであり、セックスにはいつも感じるまま、思うがままに臨め、という。いつまでも初心を忘れず女の子に「セックスをさせてもらっている」意識で下手に出ながらことに臨むのが、彼の言う「エリートセックス」なのだ。

 

だから、6000人斬りの鷹さんが斬って捨てるのは、自分がテクニシャンであると踏ん反り返る男、女に対して「イカさせてやっている」という上から目線でいる男だ。鷹さんに言わせれば、そうした者こそ実はセックスを下手であるという。たしかにそういうやつって、女性からの「痛い」とかいうフィードバックを無視してそう! ヒットレシオがどうとかほざきながら入れて出しゃいいと思ってるそこのお前だぞ、金融×学系男子!

 

ただ、「テクニックに走るな」というのはこの手のハウツー本ではよく見聞きする話で、ありふれている。この本の重要性は、そういった「考えるな。感じろ!」の教えに、AV男優界のリー先生からお墨付きをもらったところだろう。女の子にのしかかって腰振っておきゃいいと思い込んでいる金融×学系男子は、この本を読み、これまでのセックスを恥じ入り、自身のナニを切り落とすことを切に願う。その際、手持ちの藤×数希の著書を火にくべて暖をとることを忘れぬように。

【書評】ヤクザにストーカーに税務署に……風俗店長の濃厚な日々『「お客さん、こーゆーとこ初めて?」艶街経営日誌』

 

「お客さん、こーゆーとこ初めて?」艶街経営日誌

「お客さん、こーゆーとこ初めて?」艶街経営日誌

 

 

風俗嬢に関するレポートは数多くあるが、その多くがジャーナリストと名乗る人によるもので、精神的、物理的に対象にどんな接近しようと、所詮は外側からのものである。

本書は、性風俗産業にこれでもかというくらい接近した場所から書いている。なにしろ、風俗店に勤め、店長を任され、店の脱税にまで加担した男による著作なのである。赤澤竜也による本書『お客さん、こーゆーとこ初めて?』は、風俗店の店長をまかされた著者が、風俗嬢やお客、経営感覚の狂った経営者や、しのぎをたかるヤクザ、なにかと処罰しようとする警察らとの濃密な日々を書いた一種のルポタージュだ。

絶対にご法度とされている「本番」をやったやってないで繰り広げられる人気店員との口論、人気の人妻風俗嬢につきまとうストーカー客の追及、税務署との緊迫した攻防まで、優良な企業では考えられないようなさまざまなエピソードがちりばめられている。書かれてある内容自体が風俗に疎い読者にとっては物珍しいが、関西育ちで培ったのだろう著者のお笑いセンスと、さすが慶応仏文学科(!!)卒というエスプリが効いた軽妙な文章は、それ抜きにしても読みごたえある。

バカ話もさることながら、「なぜ売春業が疎まれるか」という問題の本質を射抜いた文章も鋭い。著者は一時、風俗店の「近代化」に挑戦し、挫折したという。風俗を取り締まる法律はあいまいで、官憲側が生殺与奪をにぎっている。著者はそこに、人間の性という業を癒やすための性風俗産業を温存させながら、「見えないところで細々とやって欲しい」と囲い込もうとする、市民社会の欺瞞を嗅ぎ取る。

 

さっきまで笑いながらページをめくっていたのに、いつのまにか眉間にしわを寄せて唸ってしまっている、そんな不思議な味わいの一冊。

【男性注意】「黙って俺についてこい系人材」、致死レベルでウケが悪い

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特に記事とは関係ない渋谷スクランブル交差点の様子(7/8)。暑いんだよバカやろう。

先日、ランチで数人とガールズトークしたときにひしひしと感じたのは、仕事でもプライベートでも「昭和のお父さん系人材」や「黙って俺についてこい系人材」はかなりウケが悪いということだ。

「昔気質」だとか「職人気質」だとか「ぶっきらぼう」なんていって美化されがちなこういうタイプの人物だが、そもそもそんなのが現実社会において評価されたことがあるのか、というぐらいウケが悪い。ボロカスである。

具体的には以下のような特徴だ。

 

言い方がクソ

まず一致したのだが、言い方が悪いこと。

「そんなこともわからないの?」とか「常識だろ」とか、平気でそういう風に言ってくる。

文意を抽出したら、なるほど他の人と同じことを言っているのだけれど、このタイプの人は同じことを伝えるにしても、不必要に相手の心にさざ波を立たせがち

こういう人材は、「こういう言い方をしたら相手がどう思うか」までは頭が回らないのだ。

心のさざ波は加算式であるから、そういう小さいのが積み重なっていき、最後には津波のような怒りになるのだが、そのとき立たせた張本人はピンときていないからなおさら始末が悪い

 

勝手に決めて事後報告

「これ、決めたから、やって」と振ってくるアレ。

もしやるにしても、「ごめん、この仕事、進めようと思うんだけど、いいよね?」と一言根回ししてもらったほうが何倍もマシ

しかしそういうやつに限って、「え、どっちにしろやるんだから、先に聞くか後で聞くか変わらないでしょ」とか言い出すのだが、いや、気持ちが変わるよ!

何度も書くが、こういう人材は、「こういう言い方をしたら相手がどう思うか」までは頭が回らないのだ。

これはプライベートでも全然ありえる。

週末のデートの行き先を勝手に決めるだとか、決めるのは良いとしても、その行き先が完全に自分趣味全振りで相手が楽しめない場所だった、とか。そういうことだってあり得る。

 

人として可愛げがない

そして、なにより一番重要だと思ったのが可愛げだ。

仕事ならば「ピリッ」としていてもいいが、重要なのはその「ピリッ」に少しは「甘み」も必要ということだ。お笑いでも「緊張と緩和」なんていうではないか。

たとえばそいつ本人がミスしたとしよう。人間なのだからミスも仕方ない。大事なのは「うわっ! ごめん! 間違っちゃった!」などとがっつり謝り、下になって可愛げを見せられるかどうか

「昭和のお父さん系」「黙って俺についてこい系」にありがちなのは、他人のミスは目ざとく見つけて咎めるのに、自分がミスしたときは「ミスを認めない」か、「『ミスしましたけど何か?』的に空気をピリつかせて黙殺する」というパターンだ。これは周囲のヘイトをかなり貯めるふるまいである。

可愛げが重要な場面はそれだけではない。

たとえば、自分は他人をイジっても、自分がイジられたら不機嫌になって黙殺するのも可愛げゼロポイント。そういうやつは、黙殺して「イジられないカッコいい俺」を維持できていると思っているかもしれないが、事態はまるで逆だ。周囲には「こいつ、器ちっさ!」と見下されているのである。

 

 

いかがでしたか?(アフィブログっぽく)

 ここまで、頑張って性別はボカして書いてきたけど、やはり無理だ。お察しの通り、こういう人材は特に男に多い。

「昭和のお父さん系」「黙って俺についてこい系」が許されるとすれば、社会の中でも数%の完全無欠の超絶エリートぐらいだろう。それ以外は諦めたほうがいい。

プライベートでも、こういう夫は、子どもが成人して手がかからなくなったあとに熟年離婚を突きつけられ、「なんで!?」「どうして!?」と慌てふためくのではないだろうか。

昭和どころか平成も終わろうとしているのである。そろそろ、一緒にいる相手を気分良くさせる上司、同僚、夫、彼氏、友人になりたいものである。

W杯「にわか」問題 イラッとするのは「にわか」とは別の原因があった

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ワールドカップが盛り上がっている。

そんなワールドカップのたびに浮上するのが、「にわか」問題である。

「にわか」なファンが、4年に一度だけやってきて、日本代表を肴に盛り上がるというあれである。オリンピックではこの問題が浮上しないのは、多分サッカーを普段から観ている人がいるからだろう。

 

サッカーの煩型には特に受けの悪い「にわか」であるが、この問題にはすでに決着がついている。

ほら、赤江珠代アナウンサーから至言が飛び出したではないか。

 

www.sponichi.co.jp

 

そうである。

五輪スイマーだって、最初はきっと浅瀬で遊んでいた子どもだったはず。

誰もが最初は「にわか」であり、「にわか」になる術さえ奪われたら、サッカーであろうとどんな文化であろうとさらなる発展はきっとないだろう。

 

そして何より、ぼく自身が立派な「にわか」だ。

昔はサッカーをもっと観ていたはずだが、今ではとんとご無沙汰になってしまった。そんなこんなでぼく自身「にわか」なのだから、「にわか批判」はしないつもりでいた。

 

ところが、いざワールドカップが始まってみて、SNSで浮上してくるタレントのサッカー投稿に対して、「イラッ」ときてしまうことがある。

「にわか批判はしない」と決めたのに、本能的に感じてしまう「イラ」に戸惑っていた。なぜだ。

 

最近わかったのだが、タレントの「にわかサッカー発言」にイラっとくるのは、それが「にわか」発言だからではないということだ。 

 

それは、彼女らの投稿が「にわか」のみならず「便乗」だからだ。

その証拠に、彼女らの投稿には必ず文言とともに自撮り写真が添付されている。

日本代表のユ二フォームを着て、ばっちりキメ顔でパシャり。あとは適当に「日本頑張れ!」とか「信じてます」とか適当にチョロチョロっと書いてアップすればいっちょあがりである。

彼女らの主語は日本代表ではない。

日本頑張れと言っている「私」なのである。

加藤紗里かよ。

 

赤江アナによる「海」のたとえ話を借りるならば、彼女らは、 ステキなビーチに自転車で乗り付けて、無許可でアイスクリームなどを売るあの無粋な業者連中である。

 

そんなタレントたちは、ポーランド戦の日本の戦いに不満をツイートし、一部サッカーファンと全面戦争になった足立梨花さんを見習ってもらいたい。

 

この間、足立さんの投稿にはぬるいサッカールックの画像などない。さすが、仕事とはいえJリーグ全37クラブ(当時)のホームスタジアムを制覇し、「Jリーグ名誉女子マネージャー」の称号を手に入れただけのことはある。

そもそも、本当に応援している人は、わざわざレプリカのユニフォームを着る必要などない。何を着ていようと、応援するのは心だからだ。

 

とはいえ、本当に寛大な心をもってすれば、「にわか」のみならず便乗も許せるというもの。そもそも、そうした便乗も本人の意思ではなく、所属事務所の指示かもしれない。

この件は、ぼくの人間としての修行がまだまだ足りないだけかもしれない。