いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

しりとりエッセイ「通じない」

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 2月の某日、渋谷駅のホームでアジア系の外国人女性に話しかけられた。どこか行きたい場所があるようだが、行けなくて困っているようだ。

 

 言葉の雰囲気からおそらく中国か台湾から来たのだろう。妙齢の女性で、日本語は全く話せない様子。ぼくが拙い英語で二三言話してみたが、英語もダメみたいで首を横に振る。さあ困った。


 翻訳アプリでなんとか「渋谷駅」「東京駅」という2つの場所が絡んでいることまでは分かったが、東京駅に行きたいわけではないらしい。考えうる限りのさまざまな可能性を翻訳アプリにかけて彼女に聞いてもらったが全くダメ。ここまで分からんものか。どうすりゃいいんだ。


 片方には必死に助けを求めている人がいて、もう片方にはその声を聞いてなんとか助けてあげようとしている者がいる。なのに、言葉が通じないこのもどかしさ。ぼくら2人はそのもどかしさに、思わず途中で笑いあってしまった。

 

 結局、駅員のところまで連れて行ってあげたところでぼくはその女性と別れたけれど、助けてもない自分がやたら充実感を持っていることに気づいた。その原因を分析すると、おそらくぼくと彼女は「お互いに話が通じない」というただその一点において、強烈に通じ合えたのである。

 

 ところで、結局彼女は渋谷のど真ん中で、どこに何をしに行きたかったのだろう。永遠に知ることのできない謎が残った。

映画版『奥田民生になりたいボーイ(以下略)』を観て自分の中の「奥田民生になりたいボーイ」が愛おしくなった話

 

 

 映画版の『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』(実は原作には「と」が入らないらしい。今書いているときに知った)をようやく観た。

 

 「奥田民生になりたいボーイ」という言葉を知ったとき、金属バットで後頭部を打ち付けられたような衝撃は今でも忘れられない。何を隠そうぼくも、誰にも言ってはいなかったが、「奥田民生になりたいボーイ」だったのだ(映画版では妻夫木くんが33歳、編集者という風体で出てきたので、今のぼくと丸かぶりだ)。誰にも言ってはいなかったけど、深いところで実はそう思っていたからこそ、その気持ちを奥の方から引き釣り出され、晒し者にされたかのような強烈なインパクトがあったのだろう。
 
 個人的にぶん殴られたのと同時に、企画としての鋭さにもやられていた気がする。「企画が生まれた時点で勝ち」というコンテンツがあるが、本作はまさにその部類に入るだろう。
 
 「奥田民生になりたいボーイ」――これほどまでに痛烈な表現が今まであっただろうか。
 天衣無縫でマイペース。ダラダラしているようで、締めるところはビシッと締める。そんな奥田に憧れる同性のファンも多いだろう。しかし、そもそも奥田本人は「奥田民生」になりたかったわけではない。奥田がなんとなく自分のやりたいようにやっているスタイルが、いつしか「奥田民生」という確固たるブランドを作り上げ、それがファンに対して、音楽性以外のところでも憧れられるようになっていったのである。「奥田民生」は「奥田民生になりたかったボーイ」ではないのだ。

 ここに、日本全国、津々浦々にいると思われる「奥田民生になりたいボーイ」の倒錯がある。
  
 分かりやすくいえば、村上春樹ノーベル賞受賞を祈って毎年のように発表日に酒盛りをしているハルキストたちが最も村上春樹的でないように、自分が『情熱大陸』に出るときのカット割りを妄想することが最も『情熱大陸』的でないのと同じように、「奥田民生になりたい」と思っていることが、最も「奥田民生」的でないのだ。
 
 原作は「企画が生まれた時点で勝ち」という部類と書いたが、一方で、渋谷さんのいい意味でアバウトな絵のタッチでは、この題材は描ききれていないのではないか、と思うフシがあった。そういうことで、今回は大根仁監督による映画版ならではの「良さ」を綴りたい。

■ 全編でかかりまくる奥田民生の楽曲が臨場感を掻き立てる!

 当然ながら漫画は音のないメディアであり、その点は映画のほうが秀でている。本作では全編で奥田民生の名曲の数々がかかる。また、奥田の本物のCDジャケットも出し惜しみなく出てくる。全部俺は持ってるよ! こうした細部の臨場感が、是が非でも「奥田民生になりたい(なりたかった)ボーイ」の気持ちを揺さぶるのである。
 また、「奥田民生」という実在のポップスターが、超重要な意味を果たす本作。大根監督は良くも悪くも「今っぽさ」の表現に秀でた才覚がある。その才能がこの題材と非常にマッチしているとも感じた。

ファム・ファタール水原希子がエロくてかわいい!

 原作との一番の違いはここかもしれない。ヒロイン=水原希子がめちゃくちゃかわいいし、エロいのだ。大根監督といえば、良くも悪くも女性を魅惑的な「対象」として描くのに秀でた作家である(もちろん例外作品もあるぞ)。本作では、水原が演じる「出会った男すべて狂わせるガール」=ファム・ファタールがその集大成と言えるキャラクターだ。
 正直なところ、ファム・ファタールは、渋谷さんの絵のタッチでは限界のあるキャラクター描写だが、この映画での水原希子は申し分なし。失礼な話だが、こんなにかわいい子だったのか! とびっくりした。このキャラクターに必要不可欠なかわいい、そしてエロい! をカンペキに体現している。「これならハマっちまうのも分かる」という存在だ。

新井浩文のガチ感!

 「今っぽさ」といえば新井浩文である。もともと強面ではあるが、この映画では一見優しそうなふりをして、突然に激昂する姿がめっちゃくちゃ怖い。かと思うと一転、即座にネコなで声で許しを請う姿も逆に怖い! どっちにしろ怖い! そしてあの事件があったからさらに怖い! その怖さは、公開当時に観た観客には味わえなかった、今観た観客だけが味わえる特権的な怖さだ。

■ 自分の中の「奥田民生になりたいボーイ」が愛おしくなる!

 映画は原作の大枠をなぞりながら、結論の部分がひと味ちがう。

 主人公は騒動の3年後、「奥田民生になりたいボーイ」としてのアイデンティティを捨て、おしゃれ編集者として大成する。彼はいつしか、自分がなりたいものになろうとするのでなく、相手が自分に対して受ける印象を変えるという戦略で成功したのだ。そこには、「奥田民生になりたい」というかつてあった強烈なエネルギーはどこにもない。

 そんな彼が、かつて行きつけだった立ち食いそば店で、かつての自分の幻をみる。そう、「奥田民生になりたいボーイ」だったあの頃の…。
 ここまで、映画は原作をほぼ忠実になぞっている。ひと味違うのはここからだ。

 あくまで個人の“解釈”だが、原作では「奥田民生になりたいボーイ」だった自分を眺め、今の自分に悲嘆に暮れるというところで終わる。一方、映画版では、立ち食いそばをかき込むかつての「奥田民生になりたいボーイ」だった主人公の描写が、もっとずっと優しい手触りなのだ。そこには、「『奥田民生になりたいボーイ』だった自分も愛してやろうよ」という優しいメッセージがあるように感じ取れる。

 
 ワナビーはナンセンスで、かっこ悪い。けれどそうであった過去の自分を、もうそろそろ許してやってもいいんじゃないか。そんな、過去の自分に対してのやさしい気持ちになれる映画なのである。

 

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール 完全版

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール 完全版

 

 

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール 完全版

 

 

しりとりエッセイ「靴」

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 大人たるもの靴には気をつけなくてはならない。靴で人は人を値踏みする、ということを聞いたことがあるが、それが本当なのかぼくは疑っているところがある。というのも、以前間違って左右全く別の靴を履いて外に会社まで行ってしまったことがあるのだ。

 

 慌てていたからなのか単なるバカなのか、会社までの道のりの半分ぐらいまで来てようやく気づいてしまい後の祭りである。右はスニーカー、左がスリッポン、似ても似つかない組み合わせだ(冒頭の写真が当日のものである)。

 

 一瞬、髪型のアシンメトリーみたく左右非対称を「おしゃれでやってます」で押し通そうと思ったが無茶だと秒で諦め、観念してドキドキしながら出社したのであるが、これがなんと、退社まで誰にも指摘されなかったのである。もちろん、「気づいたけど見て見ぬ振り」の可能性もあるが、雰囲気的にそれは考えにくい。


 これはよくよく考えてみたら当たり前なのかもしれない。誰も人の靴に興味ないのである。それ以来、あえて左右別の靴を履くようになった…わけではないのだが、ぼくの中で靴に対するプライオリティはレオパレスの株価並みにガクンと急降下したのである。

美人であろうとブスであろうと イケメンであろうとブサイクであろうと

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 この間、友だちたちとゴマキの不倫について話していた。当時独身だったゴマキが、相手と出会ったのがネトゲだったらしいのだが、そのときの話で、顔の見えない相手を好きになり、そのあといざ会って顔を知ったあとも好きであり続けられるのかということが話題になった。 

 

 ゴマキといえば、モーニング娘。鳴り物入りで加入し、あっという間にグループの中心人物となった逸材である。そんな彼女が気になった相手に会ってみて、もし顔がタイプでない、あるいはあまり美しくない相手だったらどうしていたのだろう、というのだ。

 

 しかし、よく考えてみるとこれは変な話なのである。たとえゴマキであろうと、顔のタイプは二の次で、「好きになった相手の顔を受け入れる」ということはあるのではないか。

 

 逆に、どうしてぼくらは「もしも相手の顔が…」と思ってしまったかというと、ゴマキほどの美しい芸能人なのだから、きっと「相手の顔のハードル」もめちゃくちゃ高いはずだ、と決めつけてしまっていたのだ。
 
 ここに錯誤がある。それは「美人が好きな人は自身にふさわしい顔を好む」という錯誤だ。どんなにイケメンであろうと美人であろうと、好きになる相手の顔のレベルとそれは関係ないのである。
 
 たしかに、美男美女のカップルほど、第三者からしたら「絵になる」のはたしかである。しかしそれは、第三者的から見たときの「景色」としてのそれにすぎない。
 
 ここに主観と客観の錯誤がある。他人からどう思われようと、人が人を好きになるとき、最も無関係になるのは、実は自分の顔なのである。
 
 自分の顔と趣向の相関について。
 
 これと似たことでいうと、アダルトビデオを鑑賞しているときにあることなのだが、ディレクターや男優が、女優(特に新人女優)の劣情を煽るために放つ「かわいい顔をして、エッチだねえ」という類のコメントである。このコメントが画面から流れるたびに首をかしげてしまう。

 

 顔の美醜と性欲の強弱って、関係なくね? 

 

 これも、顔の美醜と好みの顔のタイプが無関係の錯誤がある。どんなにかわいらしいアイドルだってとんでもない性豪の可能性はあるし、どんなにイヤらしそうな顔(それがどんな顔なのかはよく分からないが)をしていても性欲が薄い人だっているはずなのである。

しりとりエッセイ「お約束」

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 ネット上における文章の「お約束」の言い回しとして「オナニー」というものがある。何もそれは陰部を自分で刺激して気持ちよくなるアレそのもののことではない。あるコンテンツについて、受容者を無視した作者の自己満足であることを批判するときに「あの作品は作者のオナニーだ」と使う。ネット上ではその言い回しがいつしか「お約束」になっている。これを僕はあまり使いたくないのだ。

 

 なぜ「オナニー」と文章で書きたくないかというと、下品だから、といった陳腐な理由ではない。何もオナニーなんて書くのが恥ずかしい歳ではない。書くのはいくらでも書ける。はい、オナニーオナニー。


 使いたくないのはむしろ、この「オナニー」という比喩が卓越しすぎているからに他ならない。これほど攻撃対象をおちょくり、毒性を保ちつつ、なおもユーモアのある表現があるだろうか。あまりに卓越しすぎていて、自分の書いた文章で「オナニー」を使ったが最後、完全に支配され、「負けた感」を覚えてしまう。だから使いたくないのだ。


 レインメーカーがオカダカズチカの技であり、ボマイェは中邑真輔の技である。それらはほかの選手は通常使わない。使うとしたら何か特別な意味があふ。同じように「オナニー」を使わない、使いたくないのは、ぼくにとってその「お約束」が、誰か他人の作った「フィニッシュホールド」だからなのだろう。

内田裕也・樹木希林夫妻が「独特」でも「奇妙」でもない理由

 

ブルーバレンタイン (字幕版)

 

 終身名誉何がすごいのかよく分からない人、内田裕也が先週亡くなった。昨年、妻・樹木希林が鬼籍に入ってわずか半年あまりのことだった。

 音楽的には特に思い入れのある人物ではなかったのだが、この人と樹木の夫婦関係にだけは、注目してしまうところがあった。

 昨年9月15日に亡くなった妻で女優の樹木希林さん(享年75)とは40年以上の別居婚を通してきた。個性的な2人の独特な夫婦関係だったが、2人にしか分からない強固なきずなで結ばれていた。

40年別居…内田裕也さんと希林さんの強固な夫婦愛 - おくやみ : 日刊スポーツ

  訃報が広まってから今まで、この手の説明が無数に広まっている。

 彼らの関係をこんなふうに「独特」だとか、あるいは「奇妙」だという表現がまるで当然のように使われている。

 

 しかし、はたして本当にそうなのだろうか。

 

 「みんな一緒」でないと気がすまない人はいつの時代もいるもんだ。内田・樹木夫妻を「独特」「奇妙」と評する心理の背景には、夫婦のあり方に「みんなこうであるべきだ」という「標準」が仮想されていることを意味する。


 例えば「土日は夫婦が一緒に過ごすのが当たり前」という価値観を持つ人は意外なほど多い。休日、夫や妻が単独で飲み会などに顔を見せたら、不思議がり、「奥さん、今ごろ浮気してるよ(笑)」とつまらない冗談を言ったり、夫婦の不仲を疑ったりしてみせる。

 

 決まってそういうことを言うのが、結婚願望の強い独身男性である。「だからお前は結婚できないんだぞ」というド真ん中の豪速球を投げ込みたくなる衝動をグッとこらえて、こちらはヘラヘラ笑ってやり過ごすのだけど。

 

 そういう「普通」をこよなく愛している大衆の期待の真逆を行くような、眉をひそめるような夫婦の一例が、例えば内田・樹木夫妻であったのだろう。

 

 はたして内田・樹木夫妻は「個性的」で「奇妙」で「異常」だったのだろうか。ぼくはそうは思わない。夫婦など所詮は、「元他人」なのである。実の親子でさえもうまくいかないのであるから、夫婦で「普通にうまくいく」方が奇跡的ではないか。

 

 かといって内田・樹木夫妻を美化をしようとはさすがに思わない。どう考えても内田によるDVはいただけない。その上、それでも離婚を拒否した樹木もよく分からない。

 

 しかし、所詮、よその夫婦なんて「よく分からない」ものなのだ。長年夫婦をやっていれば、愛や情だけで語れるわけではあるまい。怒りも憎しみも軽蔑も諦めもがごっちゃごちゃなった混じり合った関係性。別れないのは、一種のこだやりであり、執着なのかもしれない。

 ただ1つだけ確信を持って言えるのは、夫婦は通りすがりの他人が普通だ異常だととやかく評価できるような代物ではない、ということだ。

 そんなもんだから、結局夫婦のあり方に「正解」なんてない。

 「まあ、いろいろあったけどさ、最終的に俺/私はお前の味方だよ」、その最低限の了解さえとれていれば、それ以外はどんな形だって存在し得る。内田・樹木夫妻はその一例なのである。

 

 

しりとりエッセイ「顔」

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 自分の顔があまり好きではない。正確に言えば、写真や動画を通して「第三者目線」で見る顔の方である。毎朝、洗面所の鏡の前で対峙する男は、そこそこ見られる造形のような気もするのだが、殊に人に知らぬ間に撮られたときの顔が酷い。何だあの薄気味悪い笑みを浮かべる男は。

 

 諸悪の根源は卑屈そうな笑みにある。子どもの頃から、頑張っている人や真面目な人を隠れてニヤニヤとあざ笑っていたバチが当たったのだろう。両方の口角だけを上げて笑う癖があり、これがどうもイジの悪い表情を作るのである。その証拠に、「イマダさん、笑っているようで、目の奥は笑っていないよね」と言われることがある。

 

 しかし、自分以外は同じ写真を見ても写りが悪いとか本物はもっと男前だ、とは擁護してくれない。当たり前だ。他の人にはそのブ男は見慣れた「イマダ」なのだから。こんな顔を晒して自分は生きている、と第二のショックが押し寄せてくるのである。

 

 裏を返せば、周りの人間はそんな顔の男を好いてくれているのだから、ありがたい話ではあるのだが、これは自意識の問題なのだろう。自分はあの写真を撮ると現れるあの男の顔が嫌いなのだ。

 

美人になりたい―うさぎ的整形日記

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