いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

【ほとんど『ザ・ノンフィクション』】荒れに荒れまくる『テラハ』最新回が暴いてしまったベール

動画配信サービス「Netflix」で配信中の人気リアリティーショーシリーズの最新シリーズ『TERRACE HOUSE TOKYO 2019-2020』が、急激に面白くなっているとぼくの中で話題だ。

普段は熱心な視聴者でなく、飛び飛びで観ているのだけど、先週配信された回は配信直後からSNS上で「一人で見ないほうがよい」「こんなの見たくなかった」といった不穏な感想が飛び交っており、気になったので中断したところから最新話までイッキ観した。

 

面白かった、とは軽々しく言えないようなガツンとくる衝撃映像だった。

テラスハウス』(以下『テラハ』)そのものは説明不要だろう。都会のおしゃれな若い男女6人がおしゃれなシェアハウスで共同生活し、恋だとか夢だとかに花咲かせながらわーわーやっているチャラいコンテンツである。

 

そんな『テラハ』最新回、第38話では女子プロレスラーの花が、スタンダップコメディアンを志す青年・快にブチギレてしまう。

そのブチギレぐあいが、もはやプロレスというよりガチ、かなりドキュメントであり、ほかメンバーのドン引きぐあいも含めて『テラスハウス』というフォーマットを一瞬だけ超えて社会派ドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』に接近してしまった。

だから、ぼくのようなライト層が「おお、面白いドキュメンタリーやんけ」と目を輝かせる一方で、旧来の『テラスハウス』のコアファンほど「こんな『テラハ』観たくなかった」と落ち込んでいるようである。実際、『テラハ』をこれまで見届けてきた友人に聞いても、かつてここまで荒れたことはなかったとのこと。

 

とりあえず、先に本編を見ておいてほしい。オススメは、快と花の事件前の関係性を味わえるという意味で、第36話からだが、時間がないという人は、第37回からでも問題ないだろう。

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怒りの原因は些細なことだ。きっかけは、些細な共同生活上のトラブルである。


しかし、そこまでのプロセスを知っていたら、このトラブルはトリガーにすぎないことが分かってくる。

では、何が原因だとするならば、ぼくは「経済問題」だと感じた。

 

第37話では、快と花を含むメンバー男女2対2で京都旅行に出かける模様が描かれる。

快くんはお金がないため、一度は旅行自体を辞退しようとしたが、結局、もうひとりの男に交通費・旅費をほぼ丸々だしてもらう形で行くことになる。

ところが、旅行先ではノリが悪い、お金を出してもらっているのに感謝の気持ちが見えない、といった理由から、快くんはせっかく男女の恋仲として上手くいきかけていた花ちゃんの機嫌を損ねてしまう。

発端となった京都旅行↓

 

ここから、雪だるま式に花の中で、快へのヘイトが溜まっていったように思える。そして、ついに先述したようなブチギレ事件に発展する。

 

今回の顛末を見て、ぼくは思ったね。カール・マルクスの言っていたことは正しかったよ。

マルクスは上部構造に先立って下部構造があると言っていた。下部構造とは「経済」のことであり、その上に「政治や宗教」といった経済以外の社会の営みが上部構造として建てられる。 下があっての上であり、その逆ではない。 つまり「社会の一番の基礎は経済である」というのだ。これがいわゆる、マルクスの「唯物史観」だ。

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経済学批判 (岩波文庫 白 125-0)

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これは社会の構造ととらえることもできるが、一人の人間としてもとらえることが可能ではないだろうか。

快くんはスタンダップコメディアンとして食べていけるほど成功していない。おそらくアルバイトもほとんどしていない。一言で言えばボンビーメンで、土台、ほかのメンバーと共に京都旅行を楽しめるような状態ではなかった。連れ(しかも、知り合ってそんなに経っていない)にほぼ全額を出してもらって行く旅行なんて、乗り気になれるはずがない。意中の女性が一緒ならば、なおさらだ。

経済という安定してなければ、心にゆとりはなくなるし、卑屈にもなってしまう。下部構造(経済状況)が、上部構造(気分、性格)を決めてしまっているのだ。

 

快くんが取るべき最善の策は、やはり旅行をキャンセルすることだった。それができないならば、旅先で徹底的に道化、幇間(場の盛り上げ役)を買ってでるべきだったのだが、彼の朴とつとしたキャラクターからしてそれは難しかったのだろう。結果、やはり旅行をキャンセルするのが一番だったのではないだろうか。もはや後の祭りだが。

 

貧困であり、徐々にほかのメンバー(特に女性陣)と精神的に距離が開いていってしまっている状況が、観ていて本当に痛々しい。最近、長かった髪を切り、敗戦間際の日本兵のようになってしまったビジュアルも悲壮感に拍車をかける。

 

道化、といえば、最新回では壊れてしまった(?)快くんのステージも一つのハイライトだ。

まるで上手くいかなかった京都旅行(そして、帰宅後に同居人ビビに鬼詰めされる)ショックが冷めやらない中、舞台上で失語症のように立ち尽くしてしまい、最後は狂ったように高笑いする。観劇に来ていた『テラハ』男性メンバー2人も固まる圧巻のステージングである。

貧困と孤立のスタンダップコメディアン。この組み合わせでホアキン・フェニックスの怪演が光る昨年の映画『ジョーカー』を思い出した人も少なかったようだ。

 

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Twitterで「快 ジョーカー」で検索すると…

 

『テラハ』の上部構造は「恋、夢、おしゃれ」であるが、そんな『テラハ』にも普段は隠れている下部構造として当然ながら「経済」が横たわっている。今回の京都旅行~花ブチギレ事件のプロセスは、今まで「恋、夢、おしゃれ」のベールに隠されていた「経済」の重要性を見事なまでに暴いてしまったのではないだろうか。

 

そして、このことはわれわれ傍観者たちにも「教訓」として返ってくる。もしも、目の前の恋に臆病になっているとすれば、それは自分の経済状態のせいではないか? 経済状態を安定させてから、恋に踏み出してもいいのではないか? 裏返せば、もしも経済的に安定してないなかでも、目の前の恋に全力投球できるという逸材がいたとしたら、その人はヒモとしての才能を有しているのかもしれない。

 

どちらにせよ、今夜24時に最新話が配信される。今から楽しみでしかたないのである。

“反”道徳と“非”道徳が激突し、後には何も残さない…暴力映画『ハングマンズ・ノット』の潔さ

ハングマンズ・ノット

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ここ最近のコロナの影響で、家にこもりがちとなり、ますますNetflixアマゾンプライム・ビデオへの依存が加速しているのだが、今回は掘り出し物の一作を紹介したい。

 

京都芸術大学在学中に阪元裕吾監督が撮った本作『ハングマンズ・ノット 』は、カナザワ映画祭2017「期待の新人監督」グランプリ受賞、インディペンデント・スピリットに溢れたバイオレンス・ムービーだ。

 

本来、舞妓とお寺が専売特許のはずの京都を舞台に描かれるのは、2つの暴力の世界だ。

松本卓也演じる影山アキラと、安田ユウが演じるその兄・影山シノブの兄弟が支配するのは、目を覆いたくなるような非道な性と暴力の世界。

そこには慈悲はない。幸せそうなカップルは、ほんのささいな理由で彼女が犯され、彼氏は金属バットでボコボコにされる。帰宅途中の何の罪もない女子高生は、ワゴンで拉致られてクズリ漬けにされた挙句に輪姦される。当然のように、河原のホームレスの家が焼き討ちにあう。

 

対するのは、吉井健吾演じる大学生の柴田さん。柴田さんは群れない。いや、そんなにかっこいいものではない。他者とのコミュニケーションに難がある孤高のコミュ障だ。一見なんの変哲もない、ダッフルコートにメガネという出で立ちの男子学生なのだが、電車の中で奇行を繰り出し、乗客たちの注目を集める部類の人である。

さらに、その奇行を撮影していた同じ大学の女子学生が自分のことを好きなのだと思いこむ勘違いもぶり、迷惑甚だしい厄介者だ。コミュ障を通り越してサイコパス。彼もまた、影山兄弟とはまた別の意味で、生と死の境界を軽々と超えていってしまう恐ろしい男なのだ。

 

頭のおかしなヤンキーと頭のおかしなコミュ障。別の意味で「怖い」2組だが、両者は「道徳」への向き合い方において、定義づけられる。

影山兄弟の立場はいわば“反”道徳であり、道徳に徹底的に抗い続けている。対する柴田さんは“非”道徳だ。道徳に抗っているわけではない。彼は初めから道徳がない世界を生きている。

反道徳と非道徳。2つの勢力は、京都を舞台に別々に活写されるのだが、クライマックスで激突することになる。しかしそれは、あくまでも偶然の荒々しい衝突事故だ。

その先にあるのは、反道徳と非道徳の激突のすえに平和な世界が訪れる…という安易な結論では毛頭なく。

それまでと同じように、いや、それまで以上に、両者の激突で、心優しい人々やなんの罪もない(強いて言うなら運が悪かった!)普通の人々がまきこまれ、酷い目にあっていくのだが、ぜひそれは自らの目で確認してもらいたい。

 

最後には道徳が勝つ、みたいな安易な結末を一ミリも残さない、突き放したかのような終わり方もまたクールである。

 

この自粛期間に、騙されたと思って観ておいてほしい一作である。

東野幸治の”芸人ウォッチ術”が花開くエッセイ『この素晴らしき世界』

この素晴らしき世界

この素晴らしき世界

 

東野幸治は掴みどころのないお笑い芸人だ。

20代の頃には『ダウンタウンのごっつええ感じ』にレギュラー出演し、放課後電磁波クラブ、パイマンといった名キャラクターを生み出したものの、番組内では「できない奴」「面白くない奴」「汚れ芸人」という扱い。おまけすぐに全裸になるような下品な芸風だったため、生前のぼくの父親は毛嫌いし、『ごっつ』に彼が出てくると舌打ちしていたものだ。

その後、今度は先輩、ダウンタウン松本らの証言により、死んだ亀をゴミ箱に捨てるなどの恐ろしい本性が続々と明らかとなり、「ヒトの心を持たない芸人」「サイコパス芸人」といった称号を得たのが2000年代。

しかし、この頃から徐々に風向きが変わっていく。いつのまにか「できない奴」でも「面白くない奴」でもなく、すぐ上の先輩・今田耕司と共にMC芸人として重宝され、急激に頭角を現していく。回される側、ではなく、実は回す側にその才能を有していたのだ。

そして2010年代、『アメトーーク!』に持ち込んだ「帰ろか・・・千鳥」「どうした!?品川」といった企画を成功させるなど、同業者がロックオンされることを恐れるほどの密度の高い「芸人ウォッチ術」において才覚を見せ始める。

さらに、年齢を重ねた近年では、「ヒトの心を持たない芸人」だったはずが、涙もろくもなってきている。昨年のよしもとの闇営業問題のときには、謹慎を食らった後輩たちを思い、テレビの生放送中に涙した姿が記憶に新しい。

かつて松本も自身のラジオ番組で東野のことを、「まだ、何回か変化しよる」と予想した。いったい、どれが本当の東野なのか。そして、どれが本当の彼なのか。

 

この素晴らしき世界

この素晴らしき世界

  • 作者:東野 幸治
  • 発売日: 2020/02/27
  • メディア: 単行本
 

 

『この素晴らしき世界』はそんな東野によるエッセイ集だ。所属するよしもとの先輩、後輩を一人ずつ紹介している、人物評伝集といえる。浅草キッド水道橋博士にも同様の『藝人春秋』というシリーズがあり、形式はそれに似ているが、博士が博覧強記でごりごりと対象人物の輪郭をかたどっていくとすれば、東野のそれはのほほんとした軽い言葉で、その芸人の実相に迫っていく。

 

さまざまな語り口を使い分ける。その芸人の身近な面白エピソード集の数々を紹介していきながら憎めない素顔を紹介(イジる)したかと思えば、その芸人の半生を丁寧に振り返りつつ、芸人人生の酸いも甘いもを読者に追体験させる、クオリティの高いルポタージュの様相を呈することもある。

前者(例えば「アホがバレた男、ココリコ遠藤」「度が過ぎる芸人、若井おさむ」「元気が出る男、トミーズ健」など)でガハハと声を出して笑ってしまったかと思えば、一転して、後者(例えば「お笑いに溺愛された男、三浦マイルド君」「執念と愛に満ちたコンビ、宮川大助・花子」「還暦間近のアルバイト芸人、リットン調査団水野」など)で、不意に泣かされそうになる。

 

そんな東野の筆致が光るのは、やはりどちらかといえばダメな芸人について語るときだ。

  彼の仕事がなくなろうとも、彼がバイトしようとも、のたれ死のうとも、世の中の人には一切関係ございません。

 彼自身も世の中に対して、恨み辛みは一切ございません。

 お笑いを続けながらお笑いに絶望し、お笑いの世界に居続ける――。彼とお笑いとは不思議な関係です。

 そして色んな先輩から「大丈夫?」と言われたら間髪をいれず、「心配ないさ~」と言い続ける。

 そんな心配しない男が大西ライオンです。

 

「心配しない男、大西ライオン」より

 

この文章に、お笑い芸人の、特に売れないお笑い芸人の悲哀が凝縮されているように思える。

 

また、サイコパス芸人の片鱗を見せることもある。ガンバレルーヤよしこについてつづった章では、よしこと相方まひるの出会いを描く。よしこが自身のマンションのエレベーターで、便秘に苦しむまひろを助けたところ、なんと2人はこれからNSCに入学する新入生同士で、意気投合してコンビ結成となった…という、すでにテレビ番組でも何度か披露されたエピソードだ。

しかし、これを紹介し終えた東野は、すかさず、

……とここまで書いていて、私は感じます。こんな話、あります? どこか嘘くさいですよねえ。

 

言われてみれば、たしかにうそっぽく思えてくるけど…別にそんなことわざわざ指摘しなくてよくね? と思うところに突っかかるのがやはり東野幸治という男なのだろう。しかし、別に東野は「うそが嫌い」なわけじゃない。先程の箇所でも、すぐに「でも、この嘘くささがお笑い芸人としてのとても大事な要素だと私は思っています」とフォローする。

「これ嘘だよね? 嘘だよね? やっぱり。嘘だと思ったんだよ」と、うそであることだけを確かめれば、咎めもせず去っていきそう。彼を突き動かすのは道徳心ではなく、「本当かどうか」という純粋な好奇心だけなのだ。

 

結局東野はどういう芸人で、どういう男なのか。

本書で、東野が自身について書く箇所は、当然ながらほとんどない。

しかし、やはり人間は自分について語らずとも、「何を語るか」「どう語るか」で、はからずも自分について語ってしまっているのだと思う。

明石家さんまダウンタウンといった大御所ではなく、どうしようもないダメな芸人にこそスポットを当てて、そのスキャンダルな素顔を容赦なく書ききってしまうのは、彼の暖かさであるとともに、冷酷さでもある。

冷静と情熱の間で芸人を愛し続ける芸人。きっと東野とはそういう男なのだ。

すばらしい日々

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というわけで、実は離婚していたのである。

離婚はおろか、まさか結婚できるなんて思っていなかったので、離婚させていただくなんて光栄だ。自分が離婚できるなんて思ってもみなかった。

そんなことで、本稿は「最近離婚した者による離婚の雑感」である。なお、ここから以下の文章は、このブログでも始めて元妻に「原稿チェック」をお願いしたので、あとになって醜い争いに発展することはないだろう。

離婚は疲れる

離婚するまで、離婚がここまで疲れるとは思ってもみなかった。

ぼくらの場合は、二者間での結論はすぐについてしまった。まるで、次の家の壁紙の色を決めるよりも早く、簡単に決まったと思う。

大変だったのはそのあとだった。双方の実家への報告だ。

離婚は二者間の問題であって、どこぞの皇族や華麗なる一族の政略結婚でもないかぎり、二者間以外は何人も干渉できないはずである。

しかし、現実には依然、「イエ」の問題としてとらえられているふしがある。うちもご多分にもれずに、双方の実家から反対活動にあった。そもそも、双方の実家には分かってもらう必要はなく、ただ、「離婚します」という報告ですむはずだったのだが、それでも猛烈な引き止めにあった。

その過程で双方の親も精神的にかなり消耗しただろうし、ぼくら夫婦、もとい元夫婦も精神的に疲弊した。

もちろん、結婚するときには、それなりに責任を持っていたはずだった。結婚が双方のイエとイエとのつながりである(と思われている)こと、恋愛のように軽々しく別れられないということ、重々承知で、それ相応の覚悟をもって踏み切ったはずだった。この人ならば、まあ一生やっていけるだろうな、というぐらいの気持ちはあった。

しかし、やはり、結婚してみないといろいろ分からないこともあるもので。それを指して「覚悟が足りなかった」と言われるのだとすれば、それまでなのだが。

 

離婚はバンドの解散に似ている

この問題の過程で、うちの離婚は、バンドやアイドルグループの解散に似ているかもしれない、と思ったことがある。夫婦=バンドととらえればいろいろ説明がしやすくなる。

ぼくらが離婚する理由は、どちらかの不倫やなんだという人様をワクワクさせるような劇的な部類のそれではない。今後の夫婦の方向性をめぐって折り合いがつかなかったわけだが、これはバンドで言えば「音楽性の違い」に該当するだろう。

また、これは人気バンドに限定されるが、本人たちが解散したがっていたとしても、人気が出てしまったらなかなか簡単には解散できなくなる。彼らの活動を通して仕事にありついている関係者や、心の支えにしているファンは容易には解散させてくれなくなる。

これは、ぼくら元夫婦になぞらえれば、前述したような「イエ」であるし、ぼくの周囲にいた「別れないほうがいいよ」と言ってくれた少数の友人に該当するだろう。

 

「離婚しない」のサンクコスト

イエとイエに気を使い、ガマンして結婚生活を続ける選択肢もあるのだろう。

しかし、たぶんそれだと「なんで離婚したいのに離婚できない人生なのだろう」、あるいは「なんで自分と離婚したがっている人と離婚できない人生なのだろう」という疑問がふつふつと湧いてくるはず。利己的なことに関して、ぼくら元夫婦は似かたよっているのだ。

それにお互い、まだ20代と30代である。ここでダラダラ続けるより、スパッと解消してよかったという気もしている。サンクコスト(埋没費用)というやつだ。

わずか3年弱の結婚生活だったが、大半は穏やかに暮らせていた。裏を返せば、結婚の一番旨味のある部分だけを味わい尽くした、という気もする。最高の部位だけ、贅沢に食べ尽くしたのだ。

 

もちろん、ぼくらの離婚がかなり特殊なケースであることは心得ている。円満離婚だし、二度と顔を合わせたくない、次会ったときは殺すとき、みたいな関係になったわけではない。それだけは、離婚の神様に感謝してもしきれない。

自分で離婚をバンドの解散になぞらえておいて言うのもなんだが、自分たちの「解散」が敬愛するユニコーンの比較的円満な解散に似ていなくもないのではないか?と、謎の誇らしさを感じることもある。

 

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もちろん、ユニコーンみたく「再結成」する気は、ぼくらにはサラサラないけれど。 

 

最後に、ぼくにとっての離婚の数少ないメリットを伝えておきたい。独りぼっちにはなったけど、同時に、誰よりもぼくのことを知る親友が勝手に1人増えたこと。それが何よりもの財産なのだ。

北欧メルヘン殺りく映画『ミッドサマー』が“ホラー映画”でない理由

映画チラシ『ミッドサマー』10枚セット+おまけ最新映画チラシ7枚

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話題の映画『ミッドサマー』を観てきた。すでに公開前からSNS上で話題となっている作品だが、アリ・アスター監督本人が、「ホラー映画でない」と話していたことが、すでに堪能した一部ファンから「どこがやねん(笑)」と、愛情込みのツッコミを浴びていることでも盛り上がっていた。

 

実際、観てみたところ、アスター監督の言っていることは、もってまわった表現でも、監督の特異な感覚を指し示すものでもなんでもなく、まっすぐに「正しい」と感じた。当然、ショッキングな描写はあるものの、『ミッドサマー』はホラー映画ではない。「ホラー映画とは何かというのを考えさせられる映画」だった。どういうことか?

 

フローレンス・ピューが演じる女子大生のダニーは、家族が非業の死を遂げたショックから立ち直れない。そんなとき、恋人のクリスチャンとその仲間たちに誘われ、スウェーデンの山奥の集落“ホルガ”で執り行われる夏至祭を訪れることになる。

 

友好的な「交流」…からの壮絶な儀式へ

現地を訪れ、当初はおっかなびっくりで交流していたダニ―たちも、異文化に対して次第に打ち解けていく。

ところが、慣れてきたところでまず最初のショックシーンが待っている。ダニーたちは、取り返しのつかない、とんでもない光景を「儀式」として目撃することになる。

 

ここから、未鑑賞の人になるべくネタバレを避けて語りたいのだが、ぼくはこのシーンから、未開民族「ヤノマミ」を映した伝説的なNHKのドキュメンタリーを思い出した。

『ミッドサマー』は、いわば未開社会におけるサクリファイスの話だ。自然・神と人間のつながりが信じられている未開社会では、死ぬことは恐れることでも悲しいことでもないとされる。

ところがこれは、人権思想が支配的な文明社会からしたら、到底受け入れられない。れっきとした「殺人」だからだ。

これがホラー映画ならば、実は未開社会側にシリアルキラーや快楽殺人者が潜んでいて…というありふれた筋書きになってくるが、本作にはそれに該当する村民は出ていない。ホルガの人々はみな真っ直ぐな目をして、眼前で起きる光景を受け入れている。彼らに「人を殺す」という意志はない。それは「当たり前」の光景なのだ。だから、本作は「ホラー映画ではない」といえるのだ。

 

本作が描いているのはいわば、未開社会と文明社会の遭遇であって、それを「ホラー」と呼ぶのはあくまでも「こちら側の視点」にすぎない。「あちら側の視点」にあえて寄り添うならば、(これは観た人でないと分からないだろうが)「立ちション」のシーンのほうがよっぽどホラーになるだろう。

クリスチャンと、その友人は文化人類学を専攻し、(おそらく)異文化に対して寛容な姿勢の持ち主たちだ。そんな彼らを恐怖させる異文化、というのが皮肉が効いていてよい。

 

2種類の「死」の描き方

本作が未開社会と文明社会の遭遇を描いているということの証拠の一つは、「死」の描き方だ。

先述したように、ダニーの家族は冒頭で不幸な死を遂げるが、その描かれ方はいかにもホラーチックである。これはダニーが住まう世界での死が、恐ろしく、悲しいものであることを示している。

一方、ホルガでの死の描かれ方はそれとは全く違う。たとえば、先述した「サクリファイス」の撮り方など、まるで食事のシーンを撮っているような平静さを装う。肉片が飛び散り、血しぶきが上がろうと、淡々と当たり前のことが起きているように描かれる。ダニーの家族の死が描かれるシーンとは、まるで正反対だ。

 

文明と文明の「失恋」

アリ・アスターは本作についてて、「ホラー映画ではない」発言とは別に、自身の失恋を描く術として使った、とも語っている。

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たしかに、ダニーとクリスチャンという上手くいっていない倦怠期のカップルをとおして、「失恋」は直接的に描かれているのはうなづけるが、本作ではもう一つの重要な「失恋」が描かれている。

それは、上記のような未開社会と文明社会の「失恋」だ。

本作は、大まかに評すると「他者と分かりあえそうになったところで、信じがたい“相違”を目の当たりにして失望し、再び他者に戻る」という展開が2回繰り返される。

心と心が通じ合い、分かり会えそうと期待した矢先、些細なことで断絶を感じて失望するのは恋愛につきもの。本作は文化と文化の「失恋」とも言えるだろう。

 

 

多くの観客は、ダニ―たち文明社会からの訪問者の側の視点から観るからこそ、本作を「ホラー映画」と断定してしまう。でも本作は「ホラー映画」ではない。本作を「ホラー映画」たらしめているのは、ぼくたちの頭の中にある価値観なのである。

芸能人の不祥事が起きるたび、ぼくがミスチル桜井に感謝する理由

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芸能人が不祥事を犯し、刑罰や社会的制裁を受けるたびに、同時に彼らが出演した作品、奏でた音楽などの「処遇」の扱いまでもが話題に及ぶようになって久しい。

実際、SNS上には「彼の出ている作品はもう見ない」「反吐が出る」などと罵っている声を目撃することは少なくないし、「自粛」の名のもとに作品が配信停止になってしまうのが現状だ。

どんなに素敵な作品を手がけたとしても、人間的に未熟な人はいくらでもいる。作品とその人本人は別物である。多くに批判者の人々はそれを分かっているのだろうが、生理的に無理なのだろう。

 

ぼくはこうした現象を目にするたびに、Mr.Children桜井和寿に感謝するのである。

 

「桜井さんって、不倫してるらしいよ」。

今でも、そのときの光景をありありと思い出せる。場所は中学校の技術教室。中学1年、当時ミスチルファン真っ只中だったぼくは、友達がさりげなく放った情報があまりに唐突で、衝撃的すぎて、持っていたカンナを落としそうになった。あの桜井さんがそんなことをするわけない。当時、チンコの毛も生えそろっていなかった13歳のぼくには、「桜井和寿」という偶像と、「不倫した男」という畜生を重ね合わすことができなかった。

 

あの特徴的な歌声、温和な顔、J-POPの表通りを仁王立ちで突き進むメロディセンス、小林武史風味たっぷりのアレンジ、そしてなにより、ポップでありつつ刺さるメッセージ性を秘めた歌詞。すべてに惹かれていた。ぼくがファンになった97~98年当時はちょうど、活動休止を挟んだこともありメディア露出が減少し始めていた。露出の少なさが渇望を生み、偶像崇拝をさらに加速させた。

 

そんな風に、当時ぼくが神とさえ崇めていた桜井さんが、まさか不倫という、そんな陳腐なことをするはずがない。不倫なんて、チンポコに支配されたバカな男がするものだとばかり思っていた当時のぼくに、それは辛すぎるストーリーだった。

 

その日は部活のソフトテニスの練習も手につかず、気もそぞろで帰宅するや否や、夕飯を作っていた母に問いただした。「桜井さんって、不倫してるの?」。口にしたくもない言葉だったが、「友だちから聞いた噂」という宙ぶらりんのままのほうが、よりいっそう気持ちが悪く、耐えられなかった。ぼくがとったのは、「その手の芸能ゴシップにはめっぽう強い母親に真偽を尋ねる」という行動だった。

 

帰宅したばかりのぼくの問いに、まな板に向かってネギを切っていた母親の包丁を握る手は止まる。美容室の女性誌を読み倒して皇室の真偽不明の怪しい噂まできちんとフォローしているうちの母親は、顔色ひとつ変えもせず「ほうよ? 下積み時代から支えてくれとった奥さん捨てて、若い女に乗り換えたんよ」。コテコテの広島弁で、すでに精神的にフラフラの状態のぼくをさらに追い打ちをかける。

さらに母はこう続けた、「相手はちょっといやらしいグループの…確かギリギリガールズとかいう…」。当時、すでにそのグループは活動しておらず、まだ中学校入りたてだったぼく自身は存在すら知らなかった。そして、今のようにすぐにググるような習慣もない。当時、自宅リビングの隅には、ウインドウズ95を搭載し、インターネットの世界につながっているはずのパーソナルコンピュータが鎮座していたが、そのときはホコリを被って久しかった。 

しかし、いくらぼくがそのグループを知らなくても、ネットで検索するという選択肢がなくても、「ギリギリガールズ」について、以下のことは直感的に分かった。

 

たぶん、とてもとても、浮ついた組織だ…。

 

すべてがガタガタガタと崩壊していく音が聞こえる。もうこの時点で、ぼくの中での聖人君主のアイドル、桜井和寿偶像崇拝は崩壊寸前だった。あんなにいいメロディー、あんないい歌詞を書くことができる桜井さんがいる一方、下積み時代を支えてくれた妻を裏切り、浮ついた組織の女性と逢瀬を重ねるなんて…。ぼくのなかで、桜井さんという人物がよくわからなくなった。一体どれが本当の桜井さんなのだろう。ぼくは何を信じればいいのだろう。

 

そんな心のもやもやを抱えながら、ぼくはその後もMr.Childrenを聴き続けた。『DISCOVERY』のバンドサウンドを聴き込み、続く『Q』ではその音楽性の幅に圧倒されながら、年月は過ぎていった。

DISCOVERY

DISCOVERY

 
Q

Q

 

しかし、その間に、ついに届いてほしくなかった報が届く。桜井さんが前妻と離婚し、不倫相手と再婚した、というのだ。

 

桜井さんが手掛けた曲に聴き惚れれば聴き惚れるほど、「なぜ?」「どうして?」と疑問符が脳内で反響する。どうしてこんなにいい歌詞が書ける人が、いい歌を歌える人が、不倫なんてするのだろう? 妻を捨て、乗り換えることができるのだろう?

尊敬は畏怖へ。10代半ばのぼくの中で、桜井さんという存在は、もはや理解の範疇を超えた、得体のしれないモンスターへと変わっていた。

 

そんなモヤモヤを抱えていた数年後、ある転機が訪れる。

2001年の秋、ミスチルがベスト盤の『Mr.Children 1992-1995』、『Mr.Children 1996-2000』をひっさげ、久々の全国ツアー「Mr.Children CONCERT TOUR POPSAURUS 2001」を開催した。ぼくの地元、広島にもやってきたのだ。

Mr.Children 1992-1995

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Mr.Children 1996-2000

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CONCERT TOUR POP SAURUS 2001 [DVD]

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チンコの毛がようやく生えそろいつつあった16歳、高校1年生のぼくは、友達のミスチルファン仲間とチケットを手に入れ、生ミスチルを参拝する権利を得ていた。

その友達、Nくんは脳みその容量の9割近くをミスチルとK-1、PRIDEにとられてしまっていた底しれぬアホで、案の定、高校は地元の底辺校にかろうじて受かったが、3日で辞めた逸材である。当時、まだ高校になじめなかったぼくのほとんど唯一の友達がこのNであった。

 

そんな彼と、シャトルバスで数時間揺られてたどり着いたのが、会場の備北丘陵公園だった。

 

初めての野外ライブにして、初めての生ミスチル。期待と緊張に体がこわばる。空が紫色に変色したころ、ステージに灯りがともりライブは始まった。サポートメンバー、JENさん、中川さん、田原さんが続々と登場し、そのたびに割れんばかりの拍手がオーディエンスから起きる。そして最後、一番大きな拍手に出迎えられ、満を持してステージに現れたのが桜井さん。ぼくの当時のアイドルにして、不倫をして前の奥さんを捨てた男だ。

 

初めての生ミスチル。期待と興奮を胸に始まったライブは、最高だった。

 

そんな中で、ライブ中盤のMCのときだった。桜井さんは、バックステージの紅葉豊かな景色を話題に出した。そこで次のように言ったのだ。「きれいな小川もあってね。そこでしょんべんもしたんですけど」。 ここで、会場はややウケ。女性ファンの面々からは「もう、やだー(笑)」という、例の全然嫌だとは思っていない、媚態の込められた悲鳴もあがった。隣のNもアホみたいなゲラゲラ笑っていたと記憶している。

 

そんな会場でただ1人、おそらくぼくだけは、桜井さんの「しょんべん」発言で、カミナリに打たれたような衝撃を受けていた。

 

桜井さんが、きれいな小川に向かってチンコを出してしょんべんをする。そのとき、ぼくの中で、いい歌詞、いい歌を歌う桜井さんと、不倫をし、離婚し、再婚し、きれいな小川にしょんべんをする桜井さんがガッチリと結びついたのだった。

 

なんだ、そういうことだったか。

あれも桜井さん、これも桜井さん。人間なにも一面的ではない。多面的なのだ。清濁併せ呑むのが人間であり、美しい作品を描き、演じ、歌い、作る人だって、人を騙すこともあれば、良くない薬を服用することも、そして結ばれてはならない人と結ばれることだってある。もちろん、小川に向かってチンコを出すことだって。

これを読んでいるあなたには、そんなささいなことでか、と思われるかもしれない。たしかに、「小川にしょんべんする」はささいなきっかけかもしれないが、偶然か必然か、そのエピソードがぼくの中で実感として2人の似て非なる桜井和寿を接続させたのだ。

すべては多面的なのだ。ぼくはライブ中、そのことを初めて「実感した」のだ。数年のときを重ねて、そのことを桜井さんからぼくは教えてもらった。

 

カンナみたいにね 命を削ってさ 情熱を灯しては
また光と影を連れて 進むんだ

「終わりなき旅」より

終わりなき旅

終わりなき旅

 

 

それ以来、この歌詞が歌っているのが、桜井さんの自画像にしか思えなくなった。桜井さんは命を削りながら、光と影をあわせ持つ生き様を見せてくれたのだ。

 

だから、人物と作品を分けられない人をみるたびに、16歳のころのぼくを見るように思ってしまう。ぼくは16歳のそのとき以来、誰がどんな不倫をしようが、誰がどんな薬物でトリップしようが、なんのショックも受けない、強靭な精神を手に入れた。芸能人の不祥事を眺めるたびに、ぼくは桜井さんに感謝するほかないのである。

驚がくの全編ワンカット『1917』劇場で“従軍”すべき理由

1917

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サム・メンデスの『1917 命をかけた伝令』を公開初日に観てきた。第一次大戦中、味方の兵士1600人の命を救うため、伝令に飛び出した若いイギリス軍兵士2人を描いた戦争映画だ。

すでに知れ渡っているとおり、本作は全編ざっと2時間あまりを、ワンカットで表現するという驚くべき手法が撮られている。実際のところ、本当にワンカットで撮ったわけえはないのだが、擬似的にそう見せようとしている。

そうした手法的な特異点があるために、観ているときはいつも以上にカメラワークに気をとられてしまうが、なめらかに動くカメラはまるでドキュメンタリー映画のようである。それが完璧に制御されているというのだから、「目には映らない技術」の厚みを感じざるを得ない。

 撮影については下記のインタビューが興味深かった。

theriver.jp

ワンカットがもたらす“従軍”体験

全編ワンカットという手法が鑑賞体験にもたらすもの、それは“従軍”体験だ。

ワンカットということは、観客の時間と、スクリーンの中の若者2人の時間が完全に同期する。かといって、ゲームでいうFPS(一人称視点シューティング)のように、主人公たちの視点から全く外れないわけでもない。ときにカメラから2人ともいなくなる瞬間もある。こうしたカメラワークにより、観客は“3人目”の兵士として、彼らと共に「従軍」しているかのような体験を得ることができるのだ。

それにさらに拍車をかけているのがカメラの高さだ。全編、カメラはほとんどの場面で主人公たちの目線の高さを逸脱しない。「疑似ワンカット」なのだから、どこかでつなぎ目をこしらえてドローン撮影もできたはずだが、本作ではそれをしていない(たぶん)。

 

ここで思い出してほしいのは、レオナルド・ディカプリオ主演の『レヴェナント:蘇りし者』で、冒頭、先住民族の襲撃を受けるシーンだ。

iincho.hatenablog.com

あのシーンでも、カメラはレオ様たちと同じ目線を維持する。観客はレオ様と同じ目線を借りることで、どこから飛んでくるか分からない弓矢への恐怖を追体験できたわけだ。それと同じで、本作では「彼らと同じ目線の高さ」を獲得したことで、観客はより精度の高い「従軍」体験をすることができる。

 

ただ一点だけ、ストーリーにひねりがなさすぎる、という点は気がかりで。ワンカットという「形式」を際立たせるためにあえてそうしたのか、「形式」に拘泥しすぎるあまりそうなってしまったのかは定かではない。どちらにせよ、「起きそうなこと」しか起きないのは確かである。

絶対に劇場で観るべきもう一つの理由

それを鑑みても、今年劇場で観ておくべき1本であることに間違いない。

ただ、「劇場で観ておくべき理由」は「劇場ならではの鑑賞体験」だけではない。もし、本作の公開が終わり、しばらくしてVOD配信やレンタルが始まり、家で観るとするだろう。すると我々、誘惑に弱い現代の鑑賞者は確実に映像を一度は止める! スマホを観てしまう! ほかの映画ならまだよい。しかし、本作『1917』についてだけは、「一度も止めずに観る」ことそのものが、作品の“鑑賞要件”にビルトインされている(と、ぼくは勝手に思っている)。一度止めて、ツイッターを確認して、また再生する…みたいなのを繰り返していたら、そもそも観たことにならないのだ。だから「一気観」を強制される劇場が絶対的にオススメだ。