この世界のどこかに、自分の対になる“運命の人”がいるはず――そう考えるのが恋愛における運命論だが、Netflixで配信が始まったイタリア・ポルトガル製作の映画『恋をするなら今宵のディナーで』は、そんな運命論に過度に期待しすぎている人に届いてほしいようなラブストーリーだ。
もしあの人と付き合っていたら…異色のパラレルワールド・ラブストーリー
分かりやすくするため、字を色分けして紹介する。
映画の主人公は、ダリオとマッテオという2人の男、キアラとジュリアという2人の女、独身の男女4人だ。4人は友人夫婦の引っ越しパーティで知り合い、連絡先を交換し、まずダリオとジュリア、マッテオとキアラが恋仲になっていく。
ところが、映画は突然時間を巻き戻し、4人が知り合う時間まで戻ると、今度はダリオとキアラ、マッテオとジュリアが恋仲になっていくシーンが進んでいく。
え、この4人は全員浮気者ってこと? と鑑賞者は混乱してしまうかもしれないが、そういうことではない。本作がこの4人の登場人物を通して挑戦しているのは、「現実に生まれたカップル」と「ありえたかもしれないカップル」、その2つの世界線を同時並行で描いていく、という離れ業なのだ。
2つの世界線を通して描かれるもの
2つの世界線を通して描かれていくのは、結局恋愛がどのような道筋をたどるかはそれぞれの個性にかなり左右されるということ。
たとえば、マッテオとキアラのパートでは、2人がマッテオのお気に入りのレストランを訪れたものの、貸し切りで結婚式が開かれているため使えないというハプニングが起きてしまう。ところが、花嫁の好意で急きょ招待され、幸せそうな新婚夫婦を目の当たりにして、マッテオとキアラの恋が進展することに。
しかし、マッテオとジュリアでは、そもそもそのハプニングが起き得ない。マッテオが同じレストランにジュリアを連れていこうとするが、合理主義者で用意周到なジュリアの性格から、行く前にレストランに電話をして結婚式のため使えない、ということが分かってしまうのだ。
それだけではない。誰と付き合うかによって、その人の性格や趣味、人生も変化していく。しかもそれは、どちらか一方からもう一方への一方通行ではない。相互作用だ。
誰と交際し、結婚するかで、住む場所も変われば、キャリアだって変わる。独身だったら子ども嫌いだった人が、世界線が代わった次のシーンでは、我が子に優しい視線を送るのだが、それは「今ある現実は無数の選択が積み重なった上にできた偶然の産物」にすぎないことを強く印象付ける。
一方で、「こいつ、どっちの世界線でも同じ過ちを犯してんじゃん!」という場面もきちんと描いていて、それはそれで笑える(映画を観終えた人は「ステラ」という名前を思い出してほしい!)。
また、「この人とこの人は相性が合わないだろうな」と第三者から見られていたカップルも、意外や意外、遠回りしながらも上手くいくことだってある、ということに映画は言及する。結局、上手くいくかどうかは付き合ってみなければ分からない、ということだ。
「運命の人」は存在しない…わけではない
そんな本作は、「どんなことが起きても永遠不変の運命の人」という世界観に疑問を投げかける。
でもそれは、「運命の人なんて存在しない」というニヒリズムとも少しちがう。
ネタバレを回避していうならば、本作が2つの世界線を通して描こうとするのは、「世界線は無数にあるが、どの世界線にだってあなたの“運命の人”になりえる人(運命の人候補)が存在する」ということ。「運命の人」はあなたの人生が変わればその都度変化し、それに出会えるかはあなた次第。でもそれは、一方的に「見つける」というより、あなたがあなた自身をフィットさせていく作業かもしれない。
他のパラレル・ワールド作品とちがう多幸感の正体
本作と同様、「今ある現実は無数の選択が積み重なった上にできた偶然の産物」ということを描くパラレル・ワールド作品の多くは、鑑賞後に自分自身の現実も不確かなように思えてきて少し不安な気持ちになるが、本作はひと味違った独特の多幸感を味あわせてくれる。
この映画の根底には、かつて超合金・カズレーザーがテレビ番組で放った名言に通じるものがある。かつてカズは、「常に将来について思い悩んでしまう」という女子大生の悩みに対して放った「人間、どうせ幸せになるのよ」と説いた。この映画の多幸感の正体は多分それだ。この映画を観ると、ぼくたちは誰と一緒になってもどうせ幸せになってしまう、と言われているような気がする。
映画は、冒頭と同じ友人宅のパーティに、夫婦となった4人が再び訪れるところで幕を降ろす。
心憎いのは、最後まで「ダリオとジュリア、マッテオとキアラ」と「ダリオとキアラ、マッテオとジュリア」、そのどちらの世界線が真実だったのかを観客に対しては明かさないところだ。このラストはまるで、「どちらが真実だっていいじゃない。どうせ4人は幸せになるのよ」と言っているかのようだ。