いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

革のジャケットとヤスリの自由――映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード」評

もはやいまさら感があるが「マッドマックス 怒りのデス・ロード」である。Twitter上では、すでに「X回観たぞ」(xは任意の正の整数)との文言が飛び交うなど大流行となっている。

結論から言うとぼく自身も参りました。完璧にやられました。まずはみなさん観てみましょうという感じである。とりあえず見てほしい。

これから語られることのすべての文章には頭に「いまさらだけれど」とつけていると思って読んでほしい。いまさらではあるのだけれど、個人的に考えたことを綴っておきたい。



舞台は核戦争後の近未来だ。文明は崩壊し、緑が失われた荒野では、頭の悪そうな、学歴の低そうな(いかん…まだ前回の記事を引きずっている…)ヒャッハーなやつらが身勝手な秩序を作り、富を収奪し、人々を支配していた。

トム・ハーディ演じる主人公のマックスは、そんな世界をひとりで生きる風来坊だったのだが、冒頭で早速ヒャッハーたちにとっ捕まり、彼らに「資源」として管理されることとなる。

先述したように大好きな映画なのだけれど、1回目に観終えたあとに不思議なことに気づいた。それは「主人公の目的がない」ということだ。

そういうこともあってか、この映画の主人公については、実はシャーリーズ・セロンが演じるフュリオサ大隊長ではないか、とする声もある。たしかに、彼女はマックスに比べるとかなりはっきりとした目的をもって行動しており、そう感じてもおかしくない。この映画はそういった点から、不思議なバランスを保っているのだ。


ぼくの経験上、主人公の目的がみえにくい映画はコケる(というか、何が言いたいのかよくわからなくてつまらない)
ところが、この映画は先述したようにめちゃくちゃおもしろいし、わかりにくいこともない。それはなぜなのだろう。

このことについて、2回目に観たときに気づいたのだが、主人公は目的がないわけではないということだ。言うならば、「目的を持たないことが目的」あるいは「外圧がかかったときにはじめて顕在化する目的」なのだ。その目的とは、別名を「自由」という。


ここにきて、この記事のタイトルにあるとおり「革のジャケット」と「ヤスリ」の話題となる。
すでに鑑賞した人はわかるとおり、主人公は当初ジャケットを着ているが、とっ捕まったときに彼の愛車もろとも敵に奪われてしまう。

そのあとなんやかんやがあって、マックスは半分解放されたような状態になる。半分というのは、まだ彼は鎖に繋がれ、口の拘束具も外れておらず、自身のジャケットも取り返していないためだ。

マックスは鎖については一悶着があったあとに切断に成功し、ジャケットは奪った不届き者に腹パンをかまし、見事奪い返すのである。

だが、まだこの時点でも彼はまだ完全な自由とはいえない。金属製の重そうな拘束具は、依然口元に付けられたままなのである。


興味深いのは、この拘束具を外すプロセスだ。彼は手に入れたヤスリで、ひたすら拘束具をコスるのである。コスるコスるコルるコスるコスるコスる。ただひたすらにコスりまくる。

そして映画は、待ってましたと言わんばかりのカットで拘束具が外れたシーンを描く。しつこいよっ!
普通の映画なら、ここはふわっと、なんとなく外れたものとして流しぎみにするところなのだが、この映画はそこをやたらと丹念に、力を入れて描くのである。


このしつこさの謎を解く鍵は、ひとつしかない。それは、この描写が重要なことを指し示しているということ。そしてぼくは、これをマックスが自由になる描写であると受け取ったのだ。

先述したように、マックスは鎖で繋がれ、ジャケットを奪われ、そして口には重たそうな拘束具がはめられている。それらはみな、自由を奪われた状態だ。

こうした状況はフィクションではおなじみかもしれないが、あらためて自分の身になって考えてみれば、地味〜ではあるが十分に嫌なことである。誰かに鎖で繋がれているのも嫌だし、誰かに自分の持ち物を不当に奪われてしまうのも嫌だ。口に大きな拘束具を付けられたままにされるのも、麺類を食べるのに苦労しそうで嫌だ。フュリオサに「一生その顔でいるの?」と脅される場面があるが、絶 対 に 嫌 で あ る 。
だからこそ、それらから自由になったとき、その自由は尊く感じられる。この映画は、地味〜な描写をとおしてそのことを教えてくれる。

劇中、マックスの目的はひとつしかない。自由を取り戻すこと(あるいは人が自由になる過程を助けてやること)だ。だが自由は、自由であるうちは見えにくい。だからこそ映画は、彼が自由でないところから自由になるところまでを丹念に描いているのではないだろうか。


彼には、自由になったらしたいことといった欲求もない。なぜなら、欲求に縛られた状態がそもそも自由でないからだ。

マックスはラストシーンで人混みに背を向けて去っていく。ぼくらは彼がどこへ行こうとしているのかも知らない。行き先も含めて、彼は自由となったのだから。