いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】SHAME -シェイム-

のちに『それでも夜は明ける』を撮る、主演マイケル・ファスベンダー、監督スティーヴ・マックイーンのタッグによる話題作。
ファスベンダーが演じるのは、何不自由ない完璧な独身生活を送るやり手ビジネスマンのブライアン。性依存症で、娼婦を買ってはことに及ぶような毎日をすごし、会社でもオナニー、行きずりの女との情交も辞さないという奔放な生活を送っている。


そんなブライアンが唯一、かたくなに遠ざけようとしているのがキャリー・マリガンの演じる妹のシシーで、彼女の突然の来訪によって彼は心身のバランスを崩していくことになる。いったい彼と彼女の身に何があったのか。

ぼくは、ブライアンにとってシシーは「ドーナツの穴」なのだと受け取った。
冒頭のある印象的なシーン。例のごとく前日に女を買ったブライアンが一人目覚め、フリチンで自宅をウロウロする姿を、カメラが定点観測でとらえている。彼はあるものの周辺を回っているのだが、それが、シシーが吹き込んだ留守電を再生している電話だ。彼女がいくら電話に出てほしい、会いたいと訴えても、彼は頑としてその受話器をとろうとしない。

留守電(=不在のシシー)の周囲を文字通り回っている彼の光景は、まさにこの映画の縮図である。彼にとって彼女は、彼女がいないということにおいて安寧を保つドーナツの穴なのだ。ドーナツの穴が埋まってしまえば、ドーナツはドーナツとして存在し得なくなる。
彼がSHAME=恥の上塗りのように性をむさぼるのは、彼にとってもっとも強烈な欲望の対象こそが、実妹シシーだからだ。妹への欲望を抑えるため、彼は他人を欲望のはけ口にするという形で、彼女を周遊する。彼女以外との情交によって、必死に彼女での欲望の充足を延期させている。


けれどそんな彼の「努力」を知ってか知らずか、シシーは兄に無防備に接近する。
ここで注目すべきは、飲み物の描写だ。劇中、ブライアンが呼び寄せた娼婦らに飲み物を勧め、断られる描写が2回ある。それに対してシシーは、ブライアンが無言で手渡したパックのジュースを拒みもせず、むしろパックに直に口をつけて飲むことで彼から「グラスを使え」と叱られるのである。このあまりにも無防備で、可愛らしい闖入者。これは、お金の関係に完結し、彼の心根にまでは絶対入ってこないと娼婦たちと、無断で彼の心の奥深くまで土足で入ってくるシシーの対比として、素晴らしい。

このあたりを、コメディタッチにできる我が国とでは、お国柄という言葉だけでは片付けられないような深い断絶を感じる。


妹の接近により、彼はますます第三者とのセックスに没頭していく。その義務感、切迫感に満ちたセックスは、まったくもって、楽しそうでない。なぜならそれは、彼にとって代理物でしかないから。
しかし、どんなに妹を邪険に扱ったとしても、完全に見捨てることはできない。「彼女を失うことができない自分」にブライアンが気づき、自分のハマったドツボを深さを思い知ったとき、泣き叫ぶその姿はなんとも痛々しいのである。