いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

“みなし公人”になることの怖さ

先日、とある人物(この記事の趣旨を鑑み、その人物の名は伏せておく。まぁ、あの人です)の“W不倫”のニュースがメディアをにぎわせた。既婚者同士の不倫ではなく、2人の既婚者と同時につきあっていたという内容で、これが氏名をあげて大々的に報じられたわけだ。

こんなニュースは今までにも数限りなくあったわけで、とりたてて今回のニュースだけを特別視したいわけではない。
ただ、今回の報道でも今までと同様にある“転倒”があると感じたので、ここで書き留めておきたい。

“みなし公人”という不思議な存在

ふつう、これが一般人、いわゆる「私人」ならばありえないことだ。一般人の誰々がこんなことをしていました、という報道は、その行為が合法であるなら報道されることはない。
メディアがゴシップとしてとりあげる線引きになっているのは、いわゆる「みなし公人」というカテゴライズだ。
「みなし公人」については、この記事が詳しい。
本来は公務員や議員を意味する「公人」とそれ以外の「私人」の2種類しかないが、「社会に多大な影響力を持っている、マスメディアに多く露出している等特別なステータスを持つものは、扱いも私人とは大きく相違する」ことから、「みなし公人」というカテゴリが便宜上設けられている。
「みなし公人」になるために、当人が保有すべき資格はない。それは文字通り他者による外在的であり、また主観的な評価なのだ。

ゴシップ記事にみる「転倒した光景」

なぜ「みなし公人」ならば、その人が書かれたくないようなゴシップもありになってしまうのかというと、一応そこに「公共性、公益性が高い」からという方便が成り立つからだろう。
だがしばしば見受けられるのは、この論理の転倒した光景だ。

今回の騒動では、渦中にいる人物のうち2人がこの「みなし公人」に該当しているため、氏名が公になり、大々的に報じられることになった。
だが、ニュースを知っている人はわかると思うが、正直なところ両者とも、テレビ界の中でとりわけ社会に強い影響力を持っている存在だとは考えにくい。
なのに、倫理的にとんでもないことをした、という点においてとりあげられている。


文字サイズで表すと、
みなし公人がダブル不倫をした」ではなく、
「みなし公人がダブル不倫をした」なのだ。
だれがやったかではなく何が起きたかが重要であって、メディアの側にたてば対象が「みなし公人」であることが、性的な情報を公開することへの「GOサイン」となる。

すべてはエロに通ずる

何が言いたいかというと、結局このニュースにおけるマスコミ/受け手にとってのうま味は「エロ」なのだ。メディアは対象が「みなし公人」だから報じているのではなく、「みなし公人」にかこつけ、その実はエロいことが報じたくて仕方がないのだ。そしてそれは、読者の食いつきがスゴいからにほかならない。

事件や事故のニュースでも、メディアは隙あらばエロいことを挿入する。ありふれた少女売春が繰り返し大きく報じられるのも、老女の全裸遺体の遺棄事件でその年齢をタイトルで伏せたりするのも、みんなそこにセクシャルな需要があってのことだ。

もちろん、事件や事故の報は「公益性」があるため、そこで免罪される。とやかくいわれても、取り上げ方のささいな違いだと言い切れば逃げられる範疇だ。「みなし公人」についてもそうで、裏を返せば、一度「みなし公人」になってしまうとそれは、性的な営みを含むプライバシーが容赦なく脅かされる可能性を意味する。



冒頭で書いたとおり、こんな報道は今に始まったことではない。
けれど、メディアが公益性や公共性といった趣旨を建前に、実は読者のもっとプリミティブな興味関心(それは下半身の話題であったり、ナショナリズム関連の話題だったりする)を引くことを狙っていること、そして、そうした刺激があればチョロイもんだと読者の側がナメられていることは、いくら強調しても、し過ぎることにはならないだろう。