いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「ぼっち」に居場所はあるのか〜阿部真大『居場所の社会学』書評〜

これはたぶん小谷野敦氏の『帰ってきたもてない男』だったと思うが、「人間嫌いの寂しがりや」という表現がでてくる。
氏はそれとなく書いていたが、これははっきりいって名文句だ。
一見ただの二律背反のように思える。しかし、“こんな奴”が世の中にはゴロゴロいるからだ。この言葉はそんな人たちの性格を、端的に言い当てている。
現にぼくも、他人の「人が苦手で〜」といった悩みの聞いていて、相手が自分でも理屈で説明できなくなったときに「それってつまり“人間嫌いの寂しがりや”ってこと?」と助け舟をだす。すると「そう、それ!!」と“禿同”を得たことが幾度もあった(小谷野せんせ勝手に使わせてもらいました)。


「人間嫌いの寂しがりや」といえば、今風に言えば「ぼっち」という類型の人に当てはまるだろう。ただの人間嫌いではない。私なんてぼっちよぼっちとこちらにしつこいぐらい「ぼっちアピール」してくる人がいるが、あの訴えにはまちがいなく、「人間は嫌いだけど寂しいのはいやっ!!!」という心の叫びが含まれているはず。

今回紹介する『居場所の社会学』を読み始めたとき、もしかしたらそんな「人間嫌いの寂しがりや」=「ぼっち」を解決するヒントが隠されているんじゃないか、と思った。

居場所の社会学―生きづらさを超えて

居場所の社会学―生きづらさを超えて

本書は、『搾取される若者たち - バイク便ライダーは見た!』などで知られる社会学阿部真大の新刊。本書で考察の対象となっている居場所とは、なにも特定の場所や団体とは限らない。

居場所とは、客観的な状況がどうなっているかではなく本人がそこを居場所と感じているかどうかによってしか測ることのできない、極めて主観的なものなのです。
p.13

本書でいう居場所の定義は、そのように主観的であり抽象的なものだ。そして、ここで問題にされている「居場所と感じているかどうか」とは、冒頭で書いたような「寂しい(かどうか)」=「ぼっち(かどうか)」とかなり似偏った問題だ。著者は“「生きづらさ」の根幹にあり続ける”のが、「居場所」の問題なのだと豪語する。

はじめに「居場所に関する12の命題」が提示され、それを説明しながら議論が展開されていく。1、2章では職場の中の居場所、3、4章では社会の中の居場所、5章ではヤンキー文化における居場所を考察している。
5章は、ヤンキー文化圏の中で先に社会化していった先輩をモデルに不良少年たちが社会にもどっていくという、『ハマータウンの野郎ども』にも通じる議論で、あまり目新しさはない。やはり本書でもっとも大切なのは、1〜4章だろう。

とくに、「ひとりの居場所」と題された2章では、本書の卓見ともいえる命題6「だれといなくても、そこは居場所になりうる」の説明となっている。先にも書いた通り、ここに「人間嫌いの寂しがりや」=「ぼっち」を解決するための有効な手段があるんじゃないか、と感じた。

しかし読み終わってみると、その期待は外れてしまったといえる。それはなぜか。2章では職場での仕事の「マニュアル化」について論ぜられる。具体的な議論は本書を手に取ってみてほしいが、マニュアル化とは職場などある一定の「目的」の達成に向かって動く集団という限定的な空間で機能する方法。今Twitterなどで怨嗟の念をあげている「ぼっち」たちのボリュームゾーンは、おそらく大学生だ。そして彼らの集う大学という空間は、その多くが「無目的」に集う場で、マニュアル化は不可能に近い。

つづく第3章では、多くの居場所を掛け持ちするといういわば「居場所のリスクヘッジ」が提唱されているが、複数の「居場所」をマネージメントできているような人間なら、最初から「ぼっち」にはならないだろう。


結局、評者のぼくが早合点して期待したのが悪いのだが、本書は「人間嫌いの寂しがりや」=「ぼっち」への有効な対処法は提示してくれなかった。けれど、現に職場で「居場所」を無くしている人、あるいは「居場所」を無くしてしまっている部下を持つ上司にとって、とくに1、2章は有効なアドバイスになりえるのかもしれない。

巻末には特別収録と題して、「企業社会VSJポップの30年」という著者へのインタビューと、「ポスト3・11の居場所論」というビビッドな論題での居場所も論じられている。特にインタビューの方は、「居場所」は直接関係ないように思えるけど、浜田省吾ユニコーンミスチルなどの歌詞に出てくる「サラリーマン」という存在の変遷がわかって、おもしろい。


ちなみに、「ぼっち」についてだが、ぼくは「ぼっち」と自認する人が思っているほど、みなあなたを「ぼっち」だと思っていない、というよりも、あなたに興味がないということを指摘しておきたい。あなたを「ぼっち」として疎外しているのは何を隠そうあなた自身なのだから。