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85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】関東大震災/吉村昭

関東大震災 (文春文庫)

関東大震災 (文春文庫)

関東大震災」という名称が意味するのは、今のところ1923年9月1日正午前に起き、約20万人の死者を出した大地震だけだ。
今後もそれ“だけ”を指すものであってほしいものだが、本書はその地震の一部始終についてまとめた「標準的」なノンフィクションの一冊。


地震での建物の倒壊や火災などによる人・物の被害から、地震後の混乱において起きた人災、そして復興と、時系列に大きく三つのセクションにわけて全19章において地震を語り尽くす。
そのように網羅的であるが、ただ単に事実の羅列というわけでなく、有名無名を問わない無数の人間の体験を収めていて、一種の群像劇ともいえる。
初版が73年で、地震から50年後という節目に出版されたわけだが、2014年現在からすると1964年の東京五輪をノンフィクションにする、という感覚だろうか。
そう考えるとだいぶ昔の出来事を掘り返した作品といえるが、それでも、本書はありありとした筆致で、日本史上最大級の災害の輪郭を克明に綴っていく。


様々な確度から綴られていくが、まず印象に残るのは被服廠跡での惨事だろう。このエピソードは、われわれが自身について抱く「広い場所に逃げ込めば安心」という油断を粉々に打ち砕く。
何よりも火災で起きた大旋風の描写は、本当に起きたことと鵜呑みにはできない、どこか超常現象のような様相を漂わせている。

 炎は、地を這うように走り、人々は衣服を焼かれて倒れた。(中略)
 そのうちに、烈風が起り、それは大旋風に化した。初めのうちは、トタンや布団が舞い上がっていたが、またたく間に家財や人も巻き上げられはじめた。
(中略)
 旋風に巻き上げられた人々は、一カ所に寄りかたまって墜落し、人の山ができた。そこにも炎が襲って、人の体は炭化したように焼けた。
pp.78-79 

地震からわずか数時間後のこの惨事で、災害を生き延びれたと安堵していた3万人余りが亡くなっている。


その他本書では、のちの東日本大震災後に再びクローズアップされた「朝鮮人大虐殺」についても、多くのページを割いて多角的にとり上げる。
デマ・流言について重要なのは、それらが拡散しやすい社会的「土壌」であるが、当時の日本人に在日朝鮮人への罪責感や、社会主義への恐怖があったという本書の絵解きは、なるほど中々説得力がある。
本書では、朝鮮人の狼藉などなかったにも関わらず、自警団によって彼らや彼らに間違えられた日本人が惨殺される事件が頻発したことを描いている。


ただ、この「朝鮮人の狼藉が全くなかった」という点に異論を唱えている本もあるようで。

関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実

関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実

アマゾンのページにはネトウヨさんの翼賛的レビューが並んでいる。読んでいないのでなんともいえないが、一応ここで紹介しておく。



本書は大森房吉、今村明恒という2人の地震学者の学問的対立で幕を開け、幕を閉じる。
ざっくりいえば、大森は地震の頻度に法則性はないといい、今村は統計的な見地から法則性があるとして、結果的に関東大震災の発生によって世論は今村説の方が「正しい」と判断した。
ここにドラマがあって、大森は震災直後に病気で亡くなるのだが、話はまだある。翌年には、東京直下の地震が10年に数回士か起きないという今村の説が脆くも崩れさり、彼が無力感に打ちひしがれるところで本書は終わる。


地震が予知できないのは、残念ながらこの震災から90年以上がたとうとしている現代も同じで、われわれはそれをいつ起きてもいいように備えるしかすべはない。
本書では、大惨事になった要因として江戸時代にすでにあった地震への知恵がないがしろにされ、地震対策が「後退」した部分があるという興味深い指摘をしている。この先、大地震がおきたとして、後世の人にそのときのことが「後退」と囁かれないようにしたいものである。