発売してまだ一ヶ月足らずにも関わらず、はやくもアマゾンで複数の高評価を受けていた本があり、昨日書店を訪れた際に立ち読みしてきた。
Twitter社会論 ~新たなリアルタイム・ウェブの潮流 (新書y)
- 作者: 津田大介
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2009/11/06
- メディア: 新書
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Twitterそのものについての解説、さらにそれがいかに社会の、メディアのあり方を変えていくかをまとめた著書。率直に言って、お金があったら買っていた(いや、金はあったのだけれどその1000円は、今頃僕の血となり肉となっているであろう)。おもしろい本だと思う。
で、その「tsudaる」である。注目度の高いカンファレンスなどの会場にて、リアルタイムでネット上につぶやきまくって場内の議論を実況する、という行動を指す。本書はまさにその名の通り、「tsudaる」を最初に始めたことからその名がとられた津田さんによるものだ。ちなみにいうまでもなく、この「tsudaる」の命名者は別にいて、津田さんの自意識の暴発によるものでないことだけは、ここに注記しておく。
さて、おそらくネット上での「情報最弱者層」に位置する僕はこの「tsudaる」、実は最近までその名称の意味するところを知らず、むしろ実際に周囲の人がある公開講座でtsudaられたことを聞き、その後に事後的にそれをtsudaると呼ぶ行為なんだという理解に至ったほどだ。
このtsudaる、正直なところどうなんだと、僕なんかは思うわけだ。
これはさっき書いた公開講座での話なのだけれど、会場でノートPCを開いている人がちらほらいた。そのときは知らなかったので、前で議論されている内容があまりに空疎なために暇つぶしにネットでも見てんのかなとか、それともパフォーマティブに「お前らの話つまんねーよ!」という抗議をしてんのかなとか、いろいろ可能性を探ってみたのである。
まぁどっちにしろ、「お行儀」は悪いわな。
その後で、彼らはノートからtsudaっていたのだと知った。それは話を無視していたのではなくむしろ、僕のようにぼけーっと座っている輩以上に真剣に会話に耳を傾けていたことの証左とさえいえるのかもしれないけれど、それを鑑みても話している人の前で目もくれずノートを叩いているあの光景は、発言者に対して視覚的にポジティブな影響は与えないんじゃないだろうか。
もちろんこれは会場の造りにもよりけりだし、登壇してしゃべってみないとわからないことではあるけれど、前でしゃべる時って、案外聴衆のことが見えちゃったりする。見えちゃったりすると、ついでに話している内容への反応も気になっちゃったりする。ノリのいい聴衆だとこっちのしゃべりのノリもよくなってくるし、反対に聴き手のノリがよろしくなければ「あんまりおもしろくないのかな?」と不安になったり変に舞い上がったりする。どちらにしろ、話し手と聞き手ってのは、インタラクティブわけである。
ただこういうことは、例えばtsudaる人が論者に見られる恐れのないようにあらかじめ後ろの方に位置どりしていれば済む話しだ。それにもっと長いスパンで考えてみると、直に「聴衆の中でPCやケータイいじっているヤツ」というのが議論への無関心を意味しているのではなく、tsudaってるんだという認識が一般化されてしまえば、それはそれで気にならなくなるだろう。さらに聴衆がtsudaっているのを論者が知れば、それはまた別の意味でいい緊張感を持ってしゃべれるようになるのかもしれない。それにTwitter以前から、会議の議事録などをその場でノートに書き起こしていた人だっているし。
でも問題はそれだけではないと思う。
津田さんはtsudaることの効用として、発言の要点がつかめるということを挙げている。
なるほど、Twitter1回の書き込みの限度は140字だし、そもそも発言全てを瞬時に書き起こすのはどんなにタイピング速度を上げたとしても不可能に近い。必然、論旨を要約することになる。本書では、その発言の要約のコツのようなものも解説されていて、これはこれでtsudaる時だけでなく、単に日常会話レベルでも使えそうなことだな、と思った(と何気に宣伝もしとく)。
だが実際にtsudaる段になってみると、この著者並みの技術力がないとなかなか実況は務まらないんじゃないだろうか。
現に、僕の知り合いのそのtsudaられた人が会合の後に実際に自分の発言を閲覧してみたところ、自分とは違う人の発言を自分の発言にされていたりしてもうめちゃくちゃだったらしく、ちょっとばかりおかんむりだった。
発言の「正確な要約」であったとしても、要約っていうのは文章でいうところの解釈みたいなもんだ。特に会合がフリートーク的な形式の場合、発言者は最終的にどういう結論に行き着くか自分でさえわからないまま船出する。もちろん最終的には要約できることもあるけれど、要約では決してすくい取れないニュアンスだって生まれてくる。それは書き手があらかじめ思考経路をまとめた上でアウトプットする文章の形式でさえ、「誤読」が横行することから見れば目に見えている。
津田さんは冒頭で紹介した本の中で、既存のメディアとTwitterとの関係を、決して対立する関係ではなく、既存のテレビや新聞、雑誌などではすくい取れないような隙間をTwitterが補っていくことになるだろうというようなことを書いていた(あくまでこれは大意だけれど)。おそらくその表現は、Twitterと他のメディアの関係性をある程度的確には捉えているのだろうけれど、Twitterでtsudaる際、さらにそこからもすくい取られないかもしれない論者の発言のニュアンスや含みがあるんじゃないだろうか。
もちろん著者自身の「tsudaる」テクニックは驚異的なものがあり、それはtsudaる人たちみなが津田さん並みのtsudaりの技術を身につければ、ある程度は看過できる並みに解決されるような、技術的水準の問題にすぎないのかもしれない。
けれどやっぱり最終的に僕は、tsudaるのを好きになれない。
それはネットで初めて、Googleマップの飲食店のレビュー(もしくは食べログ、どっちか忘れた)を見た時の、出口のない窮屈さ、閉塞感のような感情に近い。
だってあれ、そのときたまたまだったかもしれないバイトの子の怠慢な接客をなじる文面が、半永久的に記録としてネット上に転がっているはめになるのである。一億総ミシュランガイド化、とでも言えるんだろうか。それって、なんだかフェアでないし、「記録されないもの」がどんどんなくなっていくのも、不気味な感じがする。
この感想を共有してくれる人って、今や少数派なんだろうか。