いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「マスメディアの終わり」、という幻想

なんだろう。こういう本を読んだ直後だからこそ、こういう言説を未だに説く人に過剰に反応してしまうのだろうか。

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

いいたいことはいろいろあるのだが、この人の言説はいろいろなことを無視した上に成り立っていることがわかる。

まず情報リテラシーの格差

インターネットを何人の人が「見ていない」か、ということを無視しているし、ネット利用者の中でも情報を読み解く能力に格差があるということも看過されている。「これぞ」という情報(何をもって「これぞ」を決めるかもまた問題である)にたどり着ける人と着けない人がいる。そしてそれをどういう風に読むかがわかる人とわからない人がいる。するとどういうことがおきるかというと、共有知が成り立たなくなるのだ。共有知なんて必要なの?という人には後述する。
とにかく、最低限の出来事に対する知を共有するためには、未だマスメディアは有効だ。

マスコミのでっち上げではない、誇張ではない部分

人々が、共有しなければならないと思い込んでいる情報は、実は、マスメディアが経営的な都合で、でっち上げられて誇張されたニュースにすぎないのではないか?


マスメディアの終わり - Rails で行こう!

この言い方はいくらなんでも不公平だろう。マスコミがでっち上げ誇張していない部分が、ではいくらあると思っているのだ。
そして反対に

ブロガーの不誠実さ(もちろん誠実なブロガーの存在を知った上で)

「マスコミの流す情報は偏っている」という風説がまかり通っている。たしかにそれはそうかもしれない。
しかしだからといって、「ブロガーの流す情報は正しい」にはならないだろう。ブロガーは基本的に非営利的に運営しているため、そのような「経営的な都合」に記事が左右されないのだろうか。ではなぜ、非営利なだけにその人の趣味や考え方によって偏向が出るとは、考えないのか。そして単純に考えれば、マスコミは大勢の人間が関わっているため抑制がかかり、極端な方向には走りにくい。一人が運営しているブログの記事の構成は、おそらく基本一人でやっているのだろう。一人でどんどん独我論的に記事の内容がまずい方向に行ってしまった場合、いったい誰がそれを止めるのか。ブロガー同士の対話によって情報が改善されていく、ということもあるかもしれないが、ブロガー同士のネット上で繰り広げられる議論に、いったい何人の人が着いて行くのか。僕らは暇ではないのだ。
それでもこの人は、「これからニュースを伝えるのは、ブロガーだ」といえるのか。

共有知の問題

そんな大量情報伝達手段は社会に存在しなかったが、必要な情報は緩やかに社会全体で共有され、社会はきちんと運営されていた。(…)たった一つの情報が、同時に数千万人によって共有される必要なんてどこにもないのだ。


マスメディアの終わり - Rails で行こう!

あるんですよ。

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)

ベネディクト・アンダーソンが明かすのは、近代国家が同時に「想像の共同体」であったこと。そしてそれの生成に新聞というマスメディアが深くかかわったということだ。
新聞を開くと、そこにはいろいろな事件やニュースが、同時的、かつコラージュ的に配置されている。本来なら何も関係ないはずのそれらの雑多な出来事の羅列が、一枚の紙面の上で配列されることによって、「昨日一日にこの国で起こったこと」という形で読者の中に、途方もなく大きな共同体が想像として想起される。それこそが近代国家の根幹なのだ。
大量情報伝達手段がない時代に「社会がきちんと運営されていた」のは、それが近代国家ではなくてムラ社会だったからだろう。この人が言うように「何かを知りたければ、近所の物知りのところに出かけて話を聞いたはず」の「昔」は、前近代のことだ。それともこの人は、前近代まで「先祖がえり」したいというのか。

大体草なぎ君を見ろ。あんだけリアル、ネットを問わずに祭りになったのは、彼が「テレビのスター」だったからだ。ネットのどこに、フルチンになっただけであれだけ騒がれるやつがいるというのか。ひろゆきか?はたしてどれだけその存在が知られてるんだか…。


これはマスコミに限ったことではない。これは例に過ぎない。
何か「新しいもの」が生まれ、旧態依然とした「古いもの」がそれに比べて劣ったものに思われるようになったとき、単純にそれは廃棄されるべきなのだろうか。捨てればそれで、現状は単純に「よりよく」なるのか。実はその「新しいもの」と、「古いもの」の対立、あるいは調和によって、今が成り立っているという可能性もあるのではないか。それを吟味することなく、ただ「廃棄するべきだ」とするのは考えたうちには入らない。それは思考停止だ。

結論を言うと、こういう「不誠実な」記事を書くブロガーがいるから、まだマスメディアはあったほうがいいと思う。
今日は普段より、怒りモードでお送りいたしました。