いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「信じてない」という仕方で信じること――小林聡美とキムタクから考える「演技派」という虚構


再放送の「光とともに…」が終わった。途中、やはり中だるみはしたが(途中にするから中だるみなのか)、なんとも言いようのない「口ごもる」ような終わり方になっていたのはよかった。
この手のドラマの最後に、とってつけたような「答え」や「劇的な解決」をのっけるのは、ある種の暴力だ。そもそも現状では解決策のない、答えの出ていない問題なのだから、そのことをあつかうドラマの方も出来合の答えなどではなく、「口ごもる」感じにしたほうが誠実ではある(視ている側には、どことなく気持ち悪さが残るという人もいるかもしれないが)。ドラマという形式上、締めくくりの言葉を誰かが述べなければならないが、当事者である母の篠原涼子に語らせると、どうしてもきれい事になってしまう。反面当事者でなければ、言葉に重みがなくなってしまう。そのアポリアを、本作では当事者としてはやや後退するものの、劇中光とともに歩んでいた養護学級の里緒秀美(小林聡美)に語らせるというアクロバティックな方法によって解決している。


ところで、この小林聡美という人は、前から思っていたのだが不思議な女優である。いや、この人自身がというか、この人を取りまく環境が不思議なのだ。この人、ずっと同じような性格の人物ばかり演じていないだろうか。もちろん、役柄によって多少の偏差はある。例えば今回の教師は、いつもの「小林聡美」よりも、多少は教育者としての厳しさを背負っていた。でもそれはあくまで「多少」であって、そこまで抜本的に他とちがう役柄ではない。


いや、だからといってこの人を女優として評価しないと、言いたいわけではない。この人は演技が下手だ、ということではなくて、この人の場合は演じる役柄が「みんな同じじゃん」と言われないのに、なぜキムタクの演じるキャラクターは「いつも一緒」「コスプレ」と揶揄されたりするのだろうか。小林聡美とキムタクの違いはなんなのか?そこが不思議なのだ。
それは演技力の差か?でも、僕にはとりたてて二人の演技力にそこまでの差は見つからない。多少キムタクの演技の方がクドいとは思うけど。
キムタクは小林聡美とちがって主役級だから、その役柄がどれも似かたよっていることに気づかれやすい、ということだろうか。ならば天海祐希をみよ。彼女はいつも主役級だが、その役柄はいつも威勢がよくて、男勝りな性格をしていて、正直どこがどうちがうのか、僕にはわからない。BOSSで演じる刑事と、アラフォーのあの女医、いったいどこがちがうのか。


僕が思うに、これは「自然体」と「演技派」にまつわる問題だ。キムタクは自然体でドラマに出ているに過ぎない、と視聴者に「思い込まれている」からこそ批判されるのに対して、小林や天海は「あれが演技」だ、と「思い込まれている」からこそ、その批判から逃れられている。でもこれは、両者とも誤解ではないだろうか。キムタクはキムタクで、あれが実は「自然体を装った演技」であるという点において、反対に演技派の俳優たちは演技の向こうに「本当の彼ら」がいると思い込まれている点において。

キムタクはカットの後も前も、同じキムタクであり、サーフィンの話をしたり、スタジオに持ち込んだギターをつま弾く。それに対して、「はい、オッケーでーす」というカットがかかれば、小林や天海ら俳優はドラマにおけるクセのある役柄から解放され、穏やかに笑みを浮かべ今の演技を振り返えり談笑をする。それは、まるで本物のようにそこにあった舞台セットが、あっというまに解体されて跡形もなくなくなってしまうかのように。でも、それらははたして事実なのか、いったいそんなところを誰が見たというのか。それはいわば、視聴者が視ている「もう一つのドラマ」ではないのか?

自分を穀物のタネだと思い込んでいる男が精神病院に連れてこられる。医師たちは彼に、彼がタネではなく人間であることを懸命に納得させようとする。男は治癒して(自分がタネではなく人間だという確信がもてるようになり)、退院するが、すぐに震えながら病院に戻ってくる。外にニワトリがいて、彼は自分が食われてしまうのではないかと恐怖に震えている。医師は言う。「ねえ、きみ、自分がタネじゃなくて人間だということをよく知っているだろ?」患者は答える。「もちろん私は知っていますよ。でも、ニワトリはそれを知っているでしょうか?」(強調引用者)

スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』(161p)

僕たちは、ドラマをドラマとして、演技を演技として、それが虚構であるのを納得した上で視ていると、思い込んでいる。しかしそれと引き替えに、というか、そうだからこそ彼ら役者が「本当の顔」を持っている、という虚構をより強く信じている、とも言えるのだ。