いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

秘密のオリエンテーション

毎回気品のある文体でど変態なことを吐露なさることで定評のあるnubiangoatさんの記事。

処女喪失というのは処女膜を陰茎で突き抜けさせることだけを意味するのか、(・・・)そして少なくとも、僕にとってその問いに対する答えは「そうではない」となるのでした。

http://d.hatena.ne.jp/nubiangoat/20090428/1240926643

男にとって処女をどうとらえるか、いわば「処女観」とは、その生き方の根幹に関わる。男の数だけ処女観は存在するし、男の数だけ処女のツボがあるのだ。なかには中々厳しい人もいて、他者に対して心が揺れたら、つまり人を好きになったら(自分以外)、すでにそれは処女じゃない、という強者まで存在する。nubiangoatさんの場合は、外部からの肉体への(非日常的な)侵入をもって処女の「喪失」と見なすらしい。だからこそ、もはや陰茎によって処女膜が破砕されること自体には、あまり魅力がないという。

僕の場合はすこしちがうなぁ(別にこれは反論ではない。笑いのツボがちがうように、処女のツボも千差万別。「この店もおいしいけど、あそこの店もおいしんだよ」という程度のニュアンスです)。


僕の場合は、その女性本人が、「喪失」以前と以後で、それまで基盤にしてきたもの(信念でも、人生観でもなんでもいい)を根本から覆されるような、何か根源的な「喪失感」を抱いたことにこそに、燃える。だから注射など、本人が何発打たれようと(そりゃ痛いことは痛いだろうが)別になんとも思っていないようなことには、なかなか燃えられない。


女性が「喪失感」を抱くことは、狭義の「処女喪失」以外にもいろいろある。そしてその多くが、実は「わたしは男とはちがうんだ!?」ということ、つまり「性差」を明確に意識してしまった瞬間なのだと思う。僕自身が目撃した、その「女性の喪失」Top3には入るであろうできごとのひとつは、小学校五年生のころにあった林間学校前に開かれたオリエンテーションだ。場所は校内の小ホール。学年一同が介して、林間学校に持っていくものや宿舎での過ごし方など、いろいろな諸事項について前で話す教諭の話を、僕らはぼけーっと聞いていた。


と、一段落したところで、その学年担当の複数の教諭たちが目配せをし始めた。小学校五年生をあなどってはならない。僕はこのとき、いつもの彼らと「なんかちがう」というのを、実は感じ取っていた。


その一瞬の間の後、ある女性教諭が言った「はい、男子は教室に帰っていいよー」


「は?」


意味がわからない。なぜ女子たちは残され、俺たちだけは教室に帰されるのか。俺たちは知らなくてもよくて、女子だけは知らなければならないことがあるのか?教諭に直接「なんで?」と脊髄反射的に聞いてみたかったが、えらいもので「なんで?という問いを発しちゃいけない」というその場の空気を読むことに、僕らは小学五年生においてすでに毒されていたのだ。だから、いろいろ疑問はあったものの、僕たち男子は教室にしぶしぶ戻った。しかし戻ってからも、当然ながら教室にはその疑問が充満していた。


そして数十分後である。教室に戻ってきた女子の面々の顔を、僕は今でも忘れない。なんといえばいいのだろう、浮かないというか、落ち込んでいるというのか。総じてみな伏し目がちで、自由時間なのに普段活発なあの子も、どことなく口数が少ない。元気がない。あの時の彼女らは、何か得も言われぬ「秘密」を、不可避的に懐に抱え込んでしまったかのような奥ゆかしさがあった。そしてその奥ゆかしさが、つやっぽくて、そして普段の彼女らと少しちがったエロスがあり、色っぽかったのだ。

もちろん、なかにはもうすでに「自分の身体」について、母親や姉、あるいは早い人では自分の変化によって気づかされた子もいたかも知れないが、おそらくは大多数の女子は、あの小ホールでの「秘密のオリエンテーションにおいて知らされるはめになったのではないだろうか。


あれこそが、僕にとっての「処女喪失」だったのだ。
その時の僕にも、同級生の女子に好きな人がいた。でもその恋心は、その「喪失」を目の当たりにする以前のそれは、もしかすると同性愛的なものだったのかもしれない。僕自身、この出来事を経て初めて、「性差」というものを意識した。そして僕の恋する人は、僕と「ちょっとちがう人なんだ」ということも。