いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

                                                     
例えばフランス革命を考えてみよう。永久不変に栄華を保ち続けると思えわれたブルボン王朝は、バスティーユ陥落を皮切りに失墜し、終には国王ルイ16世のギロチン処刑をもって、その歴史に幕を閉じた。
しかしである。歴史はそのように、決定的なできごとの点と点だけで語れるのか。世界史の教科書にある無機質な年表が示すとおり、飛び石のようにして時代は、歴史は変わっていくのか。
革命は、「ロベスピエール」や「ナポレオン」といった歴史上の有名人だけでは到底成し遂げられなかっただろう。そこには、名もなき数多の民衆の活躍と死が不可欠だったはずだ。それと同様に、歴史的事件という点と点の間に当時あったはずの、名もなき出来事と名もなき気風にこそ、歴史の点と点をつなぐ「線」の役割、革命の精神の萌芽があったのではないだろうか。
私たちは常日頃、「存在」に真理が宿ると考える。しかし、あえてそれに逆行するテーゼを立てよう。むしろ真理は「不在」、つまり間にこそ宿るのではないか、と。

ためしに考えてみよう、男と女の秘め事を。
なぜ「間」の話の「ためしに」でセックスになるんだ。お前の脳の構造はちょっとおかしいんじゃないかと思うなかれ。だまれ、うるさい。私は真理の探求をしておるのだ。
男が女の中に入る。それは擬音でたびたび「ズッコンバッコン」と表現される。我々は図らずとも、この「ズッコン」と「バッコン」にこそ重要性を求める。しかしどうだろう。男根が完全に女性の蜜つぼを貫いている際には、殿方にできることはもはや何もない。殿方が女性の絶頂に協力できるのはむしろ、「ズッコン」と「バッコン」の間。女性の蜜つぼから男根がいったん引き抜かれ、そしてまた入っていく、あの不在の瞬間なのである。
聞くところによると、「の」の字を書くように腰を動かすと女性は気持ちがよいらしいぞ。世の男性諸君は肝に銘じておくように。

「間」にこそ真理は宿る。それは女性の乳房とて同じこと。近頃は着エロというものが流行り、グラドルが乳輪の見えるか見えないかという限界ぎりぎりところで頑張ってくれている。しかし、その分あの麗しき胸の谷「間」がないがしろにされている、という感は否めない。
想像してみてほしい。たとえ巨乳であったとしても、そこに谷間がない、つまり二つに分かれていない胸の存在を。一つ目小僧のようで、想像しただけで気持ち悪くなるのは私だけだろうか。
乳房というものの「存在」によって、我々男どもは欲情しているのではない。むしろ、あの谷「間」という「不在」にこそ、我々の性欲は掻き立てられるのだ。

風邪で学校を休んだときほど、その人のクラスでの存在意義が問われるというのはよく言う話だ。不在、「間」にこそ真実が宿るのは人間とて同じ。
「自分探し」の途上にいるあなたには、学校から永久にいなくなることをお勧めする。