いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

初めて教壇に立って、人にものを教えた。初めて講師という立場に立った。少子化が進む現代、そもそも人に教えを請うという人自体が少なくなっていくのだろうから、そんな機会を誰もが得られるものではない。貴重は機会だったし、本当に「奇妙な」機会だった。
大舞台に立つ際、「見ている人の顔をかぼちゃだと思え」という励まし(?)みたいなものがよく言われるが、僕が受け持った講義は、履修登録上140人あまりが受けている計算になる。全員が受けていなくとも、出席している人はざっと見ても100人はいた。よく考えたら、想像の中で彼らの頭を100個のかぼちゃに変換してみてもそれはそれでかなりの壮観な眺めであり、別の緊張感を覚えてしまった。

さて、この講義で初めて体験した「教える」ということ。自分でやってみてはじめてわかったのは、「教える」ということが、行為遂行的に作り上げられていくものだということ。それは、何か事前に練り上げていたことを、ただ単にアウトプットすることだけではない。講義は<今・ここ>で、作り上げられていくものでもある。

どういうことかというと、これは僕の個人的な感想なのだけれども、講義の途中、何度か「のる」瞬間があった。この「のる」というのはおそらく、波に「乗る」とか、リズムに「乗る」とか、それらののるとどこか通じるところがある。スポーツ選手がよくいう「ゾーン」という言葉とも近接しているかもしれない。

講義する者も、講義中に講義に「のる」。
そのときは、はっきりいって講義が楽しい。講義の前はしゃべろうとも思わなかったことが、あるいは思いついてすらいなかったことが、その場で生成され、自分の口から旅立っていく。その現象は、精神分析の自動筆記ならぬ自動口述ともいえるだろう。
僕は講義中、その講義室、6号館の101室でおよそ100人以上と対面していたのだけれど、その「のる」瞬間だけは、僕が講義したのではなく、「僕ならざる僕」が、教壇に立っていたような気がする。

でも、その「のる」瞬間が、僕はまだまだ持続できない。その「のる」ための何かを、つかんだと思った瞬間、指と指の間からその何かは逃げていき、元の拙いしゃべりに戻ってしまう。
「のる」ことは何と相関していたのだろうか。もちろん受講生たちのレスポンスなのだろう。彼らの反応の良し悪し如何で、それの反応を受け取った僕の、次の瞬間のしゃべりの良し悪しも決まっていたのだろう。講義前に、「ここは受けるところ」と想定していたところで受けなかったり、とりとめもないところで受講生の反応を感じたり。その「のる」スポットというのは自在には操れない。操ろうとしたら最後、そのことによって講義自体が「固まってしまう」のだろう。

でもこれって、日常会話でも同じことなのではないだろうか。
「思いつきでものを言うな」は、僕は子供のころよく言われたし今でもよく言われるけれど、人って実は、思いつきでものを言っているときほど舌の周りはいいし、聞いてるほうも聞いていておもしろい。会話も「のる」ことがあるのだ。
反対に、事前に暗記した言葉や文章をあげつらうだけのしゃべりでは会話はのらない。それっておそらく、会話の原理を根本的に履き違えてるからだろう。
会話ってのは、おそらく一回限りの作品だ。一回限り、その場限りのパフォーマンスであって、僕らは相互の相手の話をつむいぎあっている。自分が相手に影響していて、同じように相手に自分が影響されているのがわかる会話が、一番楽しい。言ってしまえば、楽しい会話というのは「愛撫」のようなものなのかもしれない。

だから、相手が思いつきで話していることがわかるとき、聞いている僕らはうれしくなる。
その逆に、暗記されガッチガチニ固められた言葉を投げかけられるとき、僕らは悲しくなる。