いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

知るというのは痛みをともなうこと

ある後輩―といっても僕が以前にいた学部の新一年生というだけのつながりだけれど―が、芸術に関する必修の講義を受けた。講義の終了後、ゲストとしてわざわざ地方から来てもらっていた講師の方を研究室に招いて、コーヒーなどを飲みながら質問などを訊いてもらう時間になった。


アットホームな雰囲気のなか、その後輩はずっと、何かに納得がいっていないという表情で、みなの話を聞いていた。すると突如、彼はその場の空気を壊すかのように、その講師の人に突っかかるように質問をし始めた。彼は講義中にあることがずっと腑に落ちなかったらしい。


「なんでそんなものが芸術になるんですか!?」


彼が納得できなかったこと。それは、とある芸術家が美術館に単なる便器を展示したことについてだ。便器という大量生産物がなんで芸術になるのか。それは、彼の18年あまりの人生で築かれてきた価値観には、到底受け入れられないことだったらしい。彼の中には、芸術作品がある作者によって造り上げた崇高な物質という価値観が、抜きがたく存在したのだろう。


彼はまるでその講師の方に対していらだっているかのように見えたので、ホストの一人である僕からすれば、少々冷や冷やさせられる瞬間でもあった。しかしそのうち、彼のいらだっている雰囲気が、当の講師の方に向けられているというよりもむしろ、彼自身の中で起きているな痛みか何かを、必死でこらえようとしている仕草のように見えてきた。


本当に知らなかったことを知ること。自分の理解をまったく絶したものに出会うこと。
それはあのときの彼のように、「痛み」をともなう経験なのかもしれない。特に、自分の価値観を土台から揺さぶるような「知らなかったこと」に出会うというのは、苦痛を伴うことなのではないだろうか。それは、自分にとっては異物であったものを、自分の身体に血肉化することなのだから。それだからこそ痛みをともなう。


食ってかかるように質問を投げかけていたその後輩のいらだっているような雰囲気には、その「知らなかったこと」を必死に自分の体内のなかで消化しようとしている―理解しようとしている―彼の努力が感じられた。


たしかに、芸術のことを何も知らないで、いっちょ前に批判するんじゃないと彼を一蹴することも確かにできる。でも、彼の怒りにも似た感情の発露は、「知らなかったこと」という異物を「知る」ことにともなう痛みに対する、とても自然で人間的な反応だったのだろうし、大切なことなんだと思う。


彼にはその「痛み」を乗り越えて、その「知らなかったこと」を十二分に租借してみて欲しい。
それができたとき、彼がこれから過ごすことになる4年間は、「知る前」とは格段に違った価値をもつ4年間になるはず。